16.唯一無二の香り
アルフレッドは、馬車の窓枠に頭をつけてぐっすり眠っているミュリエルを眺める。起こさないようにそっと自分の肩にもたれさせてやる。ミュリエルはわずかに身じろぎしたが、また健やかな寝息をたてた。
好きな人なら、これほど近くにいても寒気がしないものなのかと、アルフレッドは驚く。寒気どころか、ミュリエルの隣に座って体に触れていると、心も体も暖かくなる。
あのうっとうしい王女に近寄られたときは、蕁麻疹が出たというのに。
アルフレッドは幼いときから女の子に囲まれていた。第二王子という地位と自分の美貌に惹き寄せられているのだ。幼いながらもアルフレッドは自身の立場と利点をよく理解していた。
美しく聡明なアルフレッドは、エルンスト第一王子の十歳下だ。第一王子の地位を脅かさない配慮ができ、決して出過ぎることがない。アルフレッドは貴族令嬢から絶大な人気を誇った。
幼いときはまだマシだった。成長するにつれて苦痛で仕方がなくなった。
不健康で青白い肌。細い腰をさらに締めつける衣装。一人ひとりなら適量でも、集団になると犬も逃げ出す悪臭となる香水。
じっとりとした目でアルフレッドの一挙手一投足を追う少女たち。声をかけてもらえないかと、エサを待つヒナ鳥のようにただ口をポカンと開けている。
その姿はアルフレッドを苛立たせた。欲しいものはなく、自由になりたいと願うものの、王族の地位を捨てる勇気はない中途半端な自分。そんな情けない己の姿が、少女たちに重なって見えた。
アルフレッドは怜悧な美貌に、穏やかな微笑みの仮面を装備する。誰にも踏み込ませないために。
「香水を禁ずるよう、伝えてくれないか」
あるとき、庭園でのお茶会のあとでアルフレッドは弱音を吐いた。むせかえるようなバラの香りに、令嬢たちのまとう様々な香水がまざって、頭痛が止まらないのだ。
侍従のジャックは気の毒そうにアルフレッドを見ると、すぐに手配してくれた。
事態は残念ながら改善しなかった。香水がダメなら香油で、と考えたバカ者が多数現れる。香りの強い石鹸が王都で流行った。
アルフレッドはお茶会のあとで、吐くようになった。
アルフレッドが十七歳のとき、隣国ラグザルのレイチェル第三王女との婚約話が持ち上がった。五歳年下で、身分も釣り合うということで、アルフレッドの意見を聞かれることもなく、話が進められた。
「父上、僕はまだ婚約なんてしたくありません」
ジャックからこっそり婚約話について聞かされたアルフレッドは、その足で王の元にむかった。
「アルフレッド、結婚は王族の義務だ。お前に断る権利はない」
ローテンハウプト王国を訪れたレイチェル第三王女は、十二歳にして既に色気をまとう少女だった。ほっそりとして均整のとれた身体、夜空のような艶やかな髪、燃える太陽のような瞳。
口をポカンと開けて、声をかけられるのを待つ自国の令嬢の方が、無害なだけまだ良かったのだと、アルフレッドは思い知った。
アルフレッドを見た瞬間、レイチェルの瞳は欲に濁った。ねっとりとした舐め回すような視線に、アルフレッドの全身は粟立つ。
以前、他国から献上された、虫食い花のような毒々しい女は、アルフレッドの精神を徐々に蝕む。
(父上に言っても無駄だ)
アルフレッドは最も信頼できる侍従のジャックと一計を案じた。
レイチェルが媚薬のたぐいを持ち込んでいることは、影の調べで分かっている。
ジャックの手配で、護衛と側近を排したお茶会が提案される。レイチェル側は一も二もなく賛成した
ジャックと信頼できる影が密かに監視する中、ふたりだけのお茶会が始まる。
「アルフレッド殿下がわたくしとふたりきりのお茶会をお望みだなんて……」
レイチェルは長いまつ毛を震わせ、濡れた瞳でアルフレッドを見上げる。
「ふたりきりでないと出来ない話もあると思ってね」
「嬉しいですわ。あの、アルと呼んでも……?」
「それはもう少し後の方がいいのではないか? 婚約が決まってから呼んでほしい。口さがない貴族連中に、君のことをはしたないと咎められるといけない」
「お優しいのですね」
レイチェルはやや上体を傾けて、胸の開きがよく見えるようにする。
(真っ昼間の茶会に、なんという服を着るのだ。まるで売女ではないか)
アルフレッドは込み上げる吐き気を紅茶で流し込む。
「あら、紅茶がもうありませんわ。わたくしに入れさせていただけます?」
「君の手ずからお茶を入れてもらえるなんて、光栄だな」
アルフレッドは気力を振り絞って笑顔を浮かべる。
レイチェルが入れた紅茶を、アルフレッドは用心深くわずかばかり口に含む。
(それほど強い媚薬ではないな)
アルフレッドはレイチェルの視線が外れたときに、口の中の紅茶を布に吐き出す。
「なんだか……少しめまいが……」
アルフレッドは茶器をわざと傾け、受け皿に紅茶をこぼす。
「殿下、どうなさいました?」
レイチェルがアルフレッドにすり寄る。
「少し気分が良くない……」
「どうぞ、横になってくださいな」
レイチェルに支えられながら、アルフレッドは長椅子に横たわった。
「少し服をゆるめますね」
レイチェルはアルフレッドのシャツのボタンを外す。
アルフレッドは息を荒げながら仰向けになった。アルフレッドのシャツがはだけ、鍛えられた肉体がチラリと現れる。
「殿下はお疲れなのですわ。どうぞお休みになってください」
レイチェルはシャツのボタンを全て外した。
「ああ、そうさせてもらってもいいだろうか……。なんだか体が熱い……」
アルフレッドが吐き気をこらえた涙目でレイチェルを見つめる。
「わたくしが治して差し上げます。アルフレッド殿下……」
レイチェルはアルフレッドの上にまたがると、たくましい体に両手をはわす。
「レイチェル……何を、いけない……」
「まもなく婚約するのですもの。少し順序がズレるだけですわ」
アルフレッドはレイチェルの舌が体を這い回るのを、目をつぶって耐える。キツい香水の匂いがアルフレッドの呼吸を妨げる。
(ジャック、もういいだろう、早く……)
バタンッ
「アルフレッド、レイチェル殿下……これはいったい……」
扉の前には困惑したエルンスト第一王子が棒立ちになっている。
「兄上……助けて……」
アルフレッドはこらえきれず、嘔吐する。
ジャックと護衛もなだれ込み、室内は騒然となった。
エルンストが激怒し、王を説得した。
「父上、アルフレッドは女性が苦手だと何度も申し上げたではありませんか。後継ぎならヨアヒムがいます。アルフレッドが自ら結婚を望むまで、婚約話は持ってこないでください」
婚約が決まる前にさらされた王女の醜態と、それ以来食事が取れずゲッソリやつれたアルフレッドの状況から、婚約話は白紙に戻された。
アルフレッドは、結婚以外で国に尽くすと言わんばかりに執務に励むようになった。
時が過ぎ、エルンストが王位を継ぐ。エルンストは折に触れ、アルフレッドに結婚の意思を聞く。だが無理強いすることはなかった。
アルフレッドをたしなめるときに、レイチェルの名前を持ち出す悪癖はできたが。
「ううーん」
ミュリエルがうなりながら伸びをした。
「寝ちゃってた」
照れ笑いをするミュリエルが愛おしくて、アルフレッドは思わず抱きしめる。アルフレッドはミュリエルの首筋に顔をうずめた。
「ミリーは太陽の匂いがする」
「そ、そう? 洗濯物を外で干してるからじゃない?」
「安心できる匂いだ」
「そうなの? そういえば、アルフレッド殿下はもう香水つけないんだね。森以外でなら香水つけても大丈夫だよ」
「アルだよ、ミリー。香水は元々好きではないんだ。あれは虫除けにつけていただけだよ」
「そっか、そういえばなんかサッパリした匂いだったもんね。蚊除けによさそうだね」
アルフレッドの香水は苦肉の策で作られたものだ。いつまでたっても香水や香油をやめない令嬢たちへの牽制の意をこめてある。
『アルフレッド殿下は匂いに敏感である。アルフレッド殿下が唯一まとう香水に、調和できる香りのみ使用を許可する』
そんな香りは存在しない。アルフレッドは平穏で退屈な日々を送れるようになった。
だが、そんな日々はもう終わりだ。ミュリエルによって粉々に砕かれた。
来たるべき波乱の新生活への幕開けに、アルフレッドは生まれて初めて心が躍るのを感じた。