146.黒鳥
ついに、バレエのお披露目の日。ミュリエルとアルフレッドは舞台真正面のさじき席に案内される。フェリハやルティアンナなど、身分の高い人たちは別のさじき席。領民は一階席に座る。
一階席から、ざわざわと声が上がった。
「椅子が固い。木の椅子のまんまじゃない」
「お尻痛くなりそう」
「めっちゃ狭いな」
「席の幅も、前の席との間もすっごい狭い」
おおむね不評である。ミュリエルは心配になった。
「なんだか一階席、ダメな感じ?」
「そういえば、リヒャルト・ヴォグナーフは、自分のオペラで観客が寝ないよう、固い椅子にしたという話だったような」
「そうなの? しまった、ちゃんと事前に見ておくんだった」
高級宿はよく見に行くが、劇場は一度も行かなかったミュリエルである。バレエを新鮮な気持ちで楽しみたいので、敢えて遠ざかっていた。ミュリエルは反省しているが、アルフレッドは気にしていない。
「宿泊客が来る前に、椅子の座面と背面にマットをつければいいんじゃないかな」
「そうだね。あとでパッパと相談しよう」
困ったらパッパに話せばいい。そうするとたいてい何とかなる。ミュリエルは気が楽になった。さじき席はフカフカのソファーだ。領民たちに悪いなと思いながらも、ミュリエルはのびのびくつろぎ、今か今かとワクワク待った。
しばらくすると、物悲しい音楽が流れてくる。胸を締めつけられるようなバイオリンの響き。一羽の可憐で儚い白鳥が舞台に舞い降りる。
なんて弱々しい、これだとすぐに狐に食べられちゃうぞ。ミュリエルは心配になる。こんなに弱っちいってことは、まだ子どもか。親はどこに? ミュリエルは親鳥がどこにいるのか、いつ来るのか、舞台の上をじっくり見る。いない。まずいぞ。
しなやかに軽やかに白鳥は舞台を所狭しと舞い踊る。指先まで優美な白鳥に、観客はホウッと息を吐く。
白鳥が床に羽を広げてうずくまる。舞台の両側から、若々しい白鳥の群れが集まった。一糸乱れぬ群舞。群れなのに、一羽の白鳥のようにも見える。
白鳥って群れを作るんだ! ミュリエルは衝撃を受けた。故郷にいる白鳥は、一家族だ。仲の良いツガイの白鳥が、数年おきにヒナを育てるが、群れではない。
そういえば、越冬するために暖かい国に渡るときは、複数家族が集まって群れを作るんだった。父さんが言ってたわ。ミュリエルは思い出した。
白鳥って群れになると、すごい迫力。ヒナがいるときの白鳥は凶暴だからなあ。この群れに襲われたら、大変だ。
ウットリしながらも、白鳥の生態に気を取られるミュリエル。
それにしても、みんなよくあんな爪先で回れるな。痛くないのかな。やっと、バレエの技術に気づいたミュリエルは、皆の足元に釘づけになる。
なんて軽々飛ぶんだろう。キレイな筋肉。ミュリエルは鍛え抜かれた肉体にホレボレした。妊娠してから、狩りもせず、ぐうたらしているミュリエルである。ポヨポヨし始めた自分の体が少し気になった。
ミュリエルが脇腹をさすっていると、心が浮き立つような音楽が聞こえてきた。白鳥はいつの間にかいなくなり、かわいい少年少女が現れる。
少年は剣を持ち、少女は人形を持ってクルクル楽しげに踊る。
大きな人形。ミュリエルは目を丸くする。ミュリエルの大事な人形は両手に収まるぐらいの大きさだ。少女たちが持っているのは赤ちゃんぐらい。お金持ちの子たちなんだな。ミュリエルは納得した。
確かにドレスも高そうだ。イローナが似合いそうだなあ。ミュリエルは少し離れたさじき席にいるイローナに目をやった。イローナとブラッドは並んで仲良く舞台を見ている。パッパとミランダもいる。デイヴィッドだけがひとりだ。
あのカワイイ踊り子たちの誰かが、デイヴィッドの奥さんになればいいんじゃないか。ミュリエルは少しヨコシマな気持ちで少女たちを物色する。
どの子も笑顔がかわいらしい。ピョンピョン飛んで楽しそう。うん、どの女の子でも大丈夫そうだな。ミュリエルはニマニマする。
ミュリエルがすっかり仲人気分になっていると、またもや曲調が変わった。ゆったりとした音に乗って、長いヒラヒラした衣装をまとった妖艶な女性が登場する。
わーすごい色気。ここに父さんがいたら、やめやめーって言うだろうな。ミュリエルは少し遠い目をする。
色気。色気といえば、ミランダさん。ミュリエルはミランダと人魚をチラチラ見比べる。うん、ミランダさんの圧勝だった。ミランダさんってすごいんだな。イローナは色気はそんなにないのに。かわいいけど。
ミュリエルが色気とは何かという、深遠な問いに思いを巡らせていたとき、ミュリエルは何かの気配を察知した。
魔物か。いや、違う。鳥だ、黒鳥だ。殺気かと思うほどの強い意志を持った眼差し。
ミュリエルは思わず、腕輪を外して手の中に握りしめる。ミュリエルと黒鳥の目が合う。黒鳥は、ミュリエルの目だけを見つめて、クルクルと回り始めた。
一回、二回、三回。まったく軸がブレることなく、回る黒鳥。回るにつれ、黒い羽に全身が覆われていくように見え、ミュリエルはゾクリとした。
やはり魔物か。いや、違う。悪意は感じない。これは、ただ。誘われている?
ミュリエルは無意識に息を止めて、黒鳥が回るのを食い入るように見た。
三十二回。ピタリと止まり、黒鳥は艶然と笑いながらミュリエルに手を差し伸べる。
次の瞬間、観客が一斉に立ち上がり、叫びながら手を叩いた。
ミュリエルは言葉もなく、ただ黒鳥を見つめ続ける。
「数年後、ラウルの立太子の礼が執り行われると思う。そのとき、ラグザル王国に行って、バレエを見る?」
アルフレッドが静かに言った。ミュリエルは夢から覚めたように、黒鳥から目を離し、アルフレッドを見る。
「子どもを連れて行くのか、置いて行くのか。安全なのか。色々問題はあるけど。ミリーが行きたいならなんとかするよ」
アルフレッドが優しくミュリエルの頬を撫でた。ミュリエルは頬に当てられたアルフレッドの手に、自分の手を重ねる。
「行きたいな。『黒鳥と王子』がみたい。もう、黒鳥が主役になればいいと思う。そしたら王子と黒鳥が結ばれて、めでたしめでたしだし」
「そ、そうだね。後で監督に話してみたら」
ミュリエルはすっかり黒鳥に魅入られた。後ほど挨拶に行ったミュリエル。か弱く繊細な白鳥と、強く激しい黒鳥が同一人物の演じ分けと知り、絶句した。
黒鳥の主役化は、監督からやんわりと断られた。残念である。