136.曇りなきまなこで
ついにラグザル王国からバレエ団がやってきた。踊り子二十二人、舞台監督や裏方を入れて三十人が、神妙な顔でルティアンナの前に跪く。
「第四王女のルティアンナよ。ごきげんよう」
ルティアンナは乗馬用のムチをパシパシと手に打ちつけながら、三十人の頭頂を見る。
「まずは、長旅ご苦労でした。重大な役目を担うにふさわしい人員が集まってくれたこと、嬉しく思います」
ルティアンナの柔らかい声が響く。王族から、直接声をかけられるなんて。通常なら考えられないことである。皆、その幸運に胸を震わせながら、ひとことも聞き漏らすまいと耳を傾ける。
「三か国の不可侵条約が結ばれたこと、既に耳にしていますね。三か国の交流が、ここヴェルニュスを起点に活発になるでしょう。ローテンハウプト王国、アッテルマン帝国の王侯貴族があなた方の踊りを見るのです。誇りなさい」
ルティアンナの言葉が、バレエ団の心に火をつける。我らが国の代表なのだぞ。
「持てる力を出し切るのです。あなた方ならできると確信しております」
やってみせる、そう強く誓った。
「芸に集中するのです。決して、領主夫妻の間に割って入ろうなどと、夢にも思わないよう。よろしいですね」
その口調から何か底知れぬものを感じ取り、三十人は気を引き締めた。
「ミュリエル様とアルフレッド殿下が、直々にお声がけくださいます」
ヒッ 誰かから悲鳴のような声が漏れたが、すぐに静まり返る。
「アルフレッド殿下は香水や香油がお嫌いです。言いつけ通り、誰もつけていないようですね。今後もつけないように」
扉が開き、足音が聞こえてくる。初春の肌寒さを一掃するような、暖かい声が降ってきた。
「ラグザル王国のバレエ団の皆さん、顔を上げてください」
オズオズと顔を上げたバレエ団の精鋭たちは、目の前の少女に目が引き寄せられる。命そのものが燃えているかのような、圧倒的な輝き。強い生命力。生き物としての格の違いを感じて、思わず息を呑む。
「ヴェルニュスの領主、ミュリエル・ゴンザーラです。ヴェルニュスにようこそ。私はバレエは見たことがないので、とても楽しみです」
てらいのない、気さくな笑顔に、思わずつられて笑みを浮かべてしまう団員。同じく微笑んでいる美貌の王弟に気づき、口を開けて固まってしまった。
美しい人と、輝く人。ほわああ。眼福です、ありがとうございます。生きててよかった。
「何か困ったことがあったら、領民に言ってください。皆さんがここで居心地よく過ごしてもらえることが、とても大事です。皆さんが全力で踊れるよう、領民一同で支えますから」
もったいない、もったいない、ありがたき、よき。
「特に、ごはんは大切ですよね。そのキレイな筋肉、いいものを食べないと保てませんよね。ラグザル王国から料理人を連れて来られていると聞きましたが」
ミュリエルは皆を見渡す。ひとりの若い男性が、少し身じろぎする。ミュリエルは男性に目を向けると、少し首を傾げた。
「あーっと、あなた、料理人じゃないですね。食べ物の匂いがしない。てことは刺客ですか」
ミュリエルは一瞬で男の額に石を投げる。男は音もなく倒れた。護衛が真っ青になって、男を拘束する。護衛が男の持ち物を検めると、暗器がいくつも出てくる。
「申し訳ございません。全く気づきませんでした。わたくしの失態です」
ルティアンナがさっと跪いてミュリエルに謝る。
「いえ、いいんです。私、妊娠してから鼻がすごく利くようになって。あの人、食べ物どころか、なんの匂いもしないから、おかしいなあと思ったんです。普通の人は何かしら匂いがするものでしょう? 服や髪に石けんの匂いとかがあって当たり前。ないのは狩人か刺客」
ミュリエルはルティアンナの手を引っ張って、立ち上がらせた。
「皆さんのごはんは、うちの料理人に作ってもらいますね。口に合うといいけど」
ミュリエルの言葉に、ラグザル王国の人たちは、ブンブンと頭を縦に振って、問題ないことを必死で表す。刺客の侵入をみすみす許してしまった、どうしよう。その事実の前には、ごはんなんて食べられればなんでもいい。
「鳥便を出して、ラグザル王国のちゃんとした料理人に来てもらいましょうね」
う、そんなことまで気にしていただけるなんて。団員はあまりの気の使われぶりに、感極まって涙ぐむ。
絶対に完璧な踊りを披露しよう、ラグザル王国のバレエ団の心はひとつになった。
***
湖のほとりで、ラウルは呆然としている。ハリソンに貸してもらったミスリル釣り竿で、釣りをしていたところ、どういうわけか釣り竿が湖の中に引き込まれてしまったのだ。
「ああ、釣り竿が……」
真っ青になったラウルの目の前で、湖が泡立ち始めた。途端に犬三匹が、ラウルとハリソンの前に飛び出す。
グルルル うなり声はしかし、湖の中から髪の長い男が出てきた途端にやむ。
「なっ」
ラウルとハリソンは目を丸くし、イヴァンとガイは剣を抜いた。
「そなたが落としたのは、金の釣り竿か銀の釣り竿かどちらだ?」
なんだかズルズルした長い衣をまとった男は、不思議な口調でラウルに問いかける。ラウルは目をパチパチさせながら答えた。
「どちらでもない。余が落としたのは、ミスリルの釣り竿だ」
ラウルの言葉に、ズルズル男は目をむいた。
「なっ、そんなわけあるか……。ホントだ」
男はミスリル釣り竿を拾い上げ、言葉を失う。
「拾ってくれてありがとう。それはハリーの釣り竿なので、返してもらえるとありがたい」
「あ、ああ。正直なそなたには、金の釣り竿と銀の釣り竿も授けよう」
男は微妙な笑顔で、三つの釣り竿をラウルに渡す。
「ありがとう。せっかくだから、一緒に魚を食べぬか?」
「い、いただこう」
妙な男と一緒に、魚をたっぷり食べた。