126.運河を
とある侯爵家の一室に、ひとり、また一人と淑女が入ってくる。派閥も身分も年齢もバラバラな貴族たち。月に一度、秘密裏に開催される、女神を愛でる会である。
美しく着飾った、華やかな女性たちが数十人。段取りよく丸テーブルに着席する。皆の表情は一様にどこか暗い。
今回の主人役の侯爵夫人が、席についた皆を見回して、朗らかに声をかけた。
「まあまあ、皆さま。せっかくの会なのですから、もう少し明るいお顔を見せてくださいな」
席に座ってどこか気がそぞろだった女性たちは、顔を見合わせて少し笑い合う。うら若き女性が意を決したように口を開いた。
「女神様がいらっしゃらない今、会を続ける意味はあるのでしょうか」
勇気ある若者の率直な言葉に、部屋はざわつく。侯爵夫人は余裕ある態度で皆を静めた。
「皆さまの気持ちは分かりますよ。主役がいないお茶会、確かに意義は薄れますわね」
夫人に促され、女性たちはお茶やお菓子に手を伸ばす。優雅ではあるが、楽しげとはいいがたい雰囲気でお茶菓子を口に運ぶ。
「皆さま、簡単ですわ。ヴェルニュスに、行けばいいのです。ヴェルニュスで女神を愛でる会をいたしましょう」
カチャン 誰かのカップがはしたない音をたてた。皆はごくりとお茶菓子を飲みくだし、夫人を一心に見つめる。
「ですが、伝手がございません。わたくしの家は、王家派ではありませんもの」
ガチガチの反王家派で知られる貴族家の女性が、ハンカチでそっと目をぬぐった。
「今は、ですわ。わたくしたちの力で、反王家派を中庸に、中庸を王家寄りにすることはできませんか?」
「そんなことが可能でしょうか」
女性はハンカチを握りしめて、すがるような目をする。
「運河を使いましょう」
「運河?」
侯爵夫人は優雅な手つきでカップを持つと、さっと紅茶で喉を潤した。
「王都からヴェルニュスに行くには、運河を使うのが最短です。ですが、皆さまご存知のように、運河は各貴族家の利権でがんじがらめ」
「そうですわ、いったい何度、通行税を請求されることやら」
「それもですが、各貴族家の運河によって、通れる船の大きさがバラバラなのも困るのですわよ」
「効率的ではありませんのよね」
「ええ、何度も乗り換えないといけません。まあ、馬車で行くよりはマシですけれど」
各テーブルの女性たちが、不満をあらわにさえずり合う。
「そうなのですわ。王都からヴェルニュスまで、乗り換えせずに運航できればいい。まさにこれが、王家の長年の悲願。商業の活性化、物流改革、情報伝達の迅速化。様々な利点があります」
侯爵夫人は満足そうに何度も頷く。大きく手を広げて部屋全体に視線を送る。
「それを、わたくしたちの手で成し遂げましょう」
「……申し訳ありません。わたくし、よく分かりませんわ」
「女神を愛でる会。この会は派閥を超えて結成されていますでしょう。運河を管轄する各貴族家と、つながりがある会員も多いですわ」
思い当たる女性はハッと顔を上げた。
「王家派に鞍替えまではできなくても、運河を統制できれば、素晴らしい成果です。その功績をもとに、ヴェルニュス行きをもぎ取りましょう」
侯爵夫人は立ち上がって、一人ひとりの目を見て語りかけた。
「運河を一隻の船で、王都からヴェルニュスまで行けるようにいたしましょう。船の規格を決め、通行税を一定にするのです」
「それは、運河を管轄する各貴族家に、なんらかの利点や見返りを提示しませんと」
「もちろんです。どこの貴族が何を望んでいるのか、探るところから始めましょう」
反王家派の女性たちが、眉間にシワを寄せ、額に手をやる。彼女たちの父親は頭がかたいことで知られている。不安そうに、自信なさげに顔を見合わせた。
「できるでしょうか」
「ヴェルニュスには温泉が出るのですって。温泉に入ると、肌がすべすべになるらしいですわ」
「まあ」
侯爵夫人は次々と情報を披露する。
「女神がじきじきに、美容体操を教えてくださるというウワサも聞きました」
「ええっ、そんなことが。夢みたい」
ついに侯爵夫人はとっておきの切り札を出した。
「女神は、ヴェルニュスでは微笑まれるそうですわ」
「なんてことっ、女神様は大丈夫なのですか?」
若い女性がガタッと音をたてて、立ち上がる。顔を赤らめて慌てて座り直した。
「さすがに男性の前では微笑まれないそうですわ。女性の前だけとのこと」
「それでも、前代未聞ですわ。わたくしたちがどれほど、女神様の笑顔を見るために心を砕いたことか」
「ええ、そうですわ。あの完璧な唇が、柔らかく上がるだなんて。見たい……」
女性は吐息まじりに本音を漏らし、手に持っていたお菓子を握りしめた。パラパラとお菓子がドレスの上に降り積もる。
「皆さま、思い出して、この会の始まりを」
侯爵夫人は着席し、静かに言葉をつむぐ。
「平民上がり、金で爵位を買った、成り上がりの商家の嫁。そう蔑んだ貴族がどれほどいたことか。昔はねえ、夜会で毎回、大立ち回りがあったわ」
年かさの女性は懐かしそうに目を細める。
「少しずつ、派閥を超えて手に手をとって、女神を守る盾が築かれたのです」
皆が手を合わせて祈った。なんと崇高な理念であろうか。会に所属できることが誇らしい。
「女神を守る代わりに、お茶会で同じ空気を吸う。美肌の秘訣を教えていただく。月日がたっても一向に衰えない美貌を目の当たりにする」
ホウッとあちこちのテーブルから熱のこもった息が聞こえる。
「わたくしの目標ですわ。少しでも女神様に近づきたい、そう思って毎日、自分を律して参りました」
潤んだ目で女性は胸を押さえた。侯爵夫人はニコニコと女性を見つめる。
「ヴェルニュスでのびのびされている女神。きっと愛らしいでしょうね」
「わたくし、お父様を説得してみます。今まで辺境の地を守ってきた父は、王家から距離があります。ムーアトリア王国滅亡の際に、王家から捨ておけと言われたことを、いまだに怒っております」
反王家派の女性は辛そうな顔をする。
「あれは、王家にとっても苦しい判断だったと聞いているわ。我が国は防衛のみ、他国に兵を送ることはしない。それが長年のしきたりです」
「分かっております。それでも、助けたかった。父は今でもそう漏らします。ですが、ヴェルニュスはミリー様と殿下の元で復興に向かっています。父の王家に対する気持ちも、やわらいでいると思います」
女性は両手を胸の前でギュッと握り合わせた。
「新しい風が吹き、時代は移り変わったのです。ローテンハウプト王国、ラグザル王国、アッテルマン帝国。三か国の不可侵条約がまもなく締結されるでしょう。ヴェルニュスから国々が変わっていくのです」
侯爵夫人はまた立ち上がった。決意を秘めた目で、力強く言う。
「ミランダ様、そしてミリー様。ふたりの女神が今ヴェルニュスに揃っていらっしゃる。わたくしたちがいかなくて、どうするのです」
「そうですわね。もし運河で一気に行けるなら、三日ほどでヴェルニュスに着きます。年に何回か、二柱の女神を愛でる会ができるかもしれませんわ」
全員が自然と立ち上がった。
「運河を!」
「女神を!」
皆はお茶のカップを持ち上げて、乾杯をした。王家の悲願、運河の統制に向かって、今その一歩が踏み出された。
キレイになりたい、美しい理想の女神を間近で見たい。女性たちのその一念は、頑固な親父たちを動かすのか。
結局どの親父も、娘や嫁には弱い。王家に言われたところで馬耳東風であった、貴族家の当主たちがついに重い腰を上げる。ウダウダのらりくらりとしていたが、運河の効率化はどこの貴族家にとっても利点があるのだ。それに、当主たちもヴェルニュスに行ってみたい。
宿はまだできていない。しかし予約は殺到している。がんばれミリー、がんばれサイフリッド商会。正念場である。