117.愛がいっぱい
イローナは勉強部屋に入ろうとしているブラッドをつかまえた。上着の裾をつかんで、物陰に連れて行く。
「なに? なんかあった?」
「あのね、来年の春に結婚式あげたいんだけど、どう?」
「ええっ、突然どうした?」
「ミリーとアル様の二回目の結婚式と、一緒にあげたら楽しいかなーって」
イローナがブラッドの上着の裾をつかんだまま、モジモジする。
「ああ、そういうこと。分かった、いいよ。急でビックリしたけど。親にも連絡しないと」
「鳥便があってよかったね」
ブラッドはさりげなく、裾を握っているイローナの手を取る。
「指輪どうしようか。一緒に作る? 金細工師のマルクに頼めば、教えてくれると思う」
「そうしよう、楽しみね」
イローナはブラッドの手をキュッと握りしめた。
「婚約者らしいことあまりできなかったけど、結婚か」
「イヤなの?」
イローナの大きな目がかすかに揺れる。
「イヤじゃない。ミリーと殿下に目の前でベタベタされるとなあ。いいなあとは思ってた。結婚するってことは、もう少し距離詰めてもいいってことだよね?」
「え?」
ブラッドはそうっとイローナの頬に手を当てる。
「キスしていい?」
ブラッドはイローナの返事を聞かずに、軽く唇を合わせた。
「これから、隙あらばするから」
ブラッドはクスッと笑って、真っ赤な顔で一点を見つめているイローナを抱きしめた。
それから、ブラッドがイローナにキスする様子が頻繁に目撃されるようになった。顔を赤らめて恥じらうイローナと、それを優しく見るブラッド。皆の胸がキュンとする。
「初々しいわね〜」
「あのしっかり者のイローナさんが、あんなに……。尊い」
「ブラッドさんがあそこまで情熱的だとは思わなかった」
「いつも冷静でスマした顔してるのにねえ」
女性たちは吐息をもらしながら、身もだえる。
「ぐぬぬ」
若い恋人を微笑ましく見守る人々の間で、パッパだけは歯ぎしりする。
「あなた、私にもっとべったりだったじゃないの」
ミランダがパッパをなだめる。パッパはギリギリとハンカチを噛んだ。
日々のトキメキで恋色に染まった領地。
「私ももう一度、結婚しようかしら」
「あら、そうすると、ひょっとしてミリー様の結婚式に混ざれたりして」
「それはさすがにダメよ。不敬だわよ」
「そうよねえ」
噂を聞きつけたミュリエルはあっさり、いいよーと言った。
「みんなと一緒なら、もっと楽しいもんね」
女性たちは色めきたった。王都から来ている石投げ部隊は、全員独身だ。ロバートの領地からもたくさん独身男性が来ている。
女性たちは、ミランダの指導を受け、美容に気合いを入れ始めた。
「どんな化粧より笑顔よ。男性は女性の笑顔に弱いの。私はレオ以外の男性の前で笑うと大変なことになるけど。皆さんは、そんな呪いがないんだから。笑顔を忘れないでね」
キレイになってニコニコ笑顔を絶やさない女性たち。男たちもまんざらではない。あちこちで愛がささやかれるようになった。
「冬なのに、もう春みたいだね」
「寒いからね。人肌が恋しい季節だ」
アルフレッドがミュリエルを後ろから抱きしめた。ふたりで少し大きくなったお腹に手を当てる。
「私とセルハンも結婚式しようかしら。アッテルマン帝国ではあげてないのよね」
フェリハの言葉に、セルハンとセファが目を輝かせる。
「衣装はどうしようかしらねえ。アッテルマン帝国の布は持って来てるから、何か仕立てようかしら。セルハンとセファと、揃いで作りたいわ」
フェリハの言葉を聞いて、イローナがミュリエルに目を向ける。
「ミリーはどうするの?」
「前に着たのと同じだけど?」
「お腹、キツくない?」
「あ、ホントだ。あれ、かなり体にピッタリするドレスだったから、無理だわ。刺繍どうしよう……」
刺繍の苦手なミュリエルは、新しい衣装を作りたくない。
「母さんと姉さんにお願いしようかなー。うん、そうしよう」
鳥便が激しく行き交い、無事お願いできることになった。ミュリエルは苦行から逃れられてひと安心だ。
「王都での結婚式に出られなかった、じいちゃんとばあちゃんと弟たちが来るってー。父さん母さん姉さんは、今回はお留守番」
「じゃあ、ミリーは祖父母が全員集合だね」
「ほんとだ。仲良くなれるかなあ……」
王都の伝統的な貴族の祖父母と、領地の野生的な祖父母。混ぜるな危険ではなかろうか。ミュリエルは少し怖くなった。母さんに来てもらおうかな。そしたら安心だ。父さんは嫌がるだろうけど。
ミュリエルが考え込んでいると、イローナも悩んでいる。
「うわー、アタシの衣装どうしようかな。魔牛の刺繍か……」
「無理に魔牛にしなくていいよ。好きな刺繍にしなよ」
「ブラッドに聞いてくるね」
イローナはブラッドを部屋から廊下に連れ出した。ふたりで話していると、色んな人が見てくるから、恥ずかしいのだ。
「魔牛……はできれば勘弁してほしいけど」
ブラッドは苦笑する。
「ブラッドの家の紋章はなんなの?」
「うちは羽ペン。ずっと文官の家系だから。イローナは?」
「商会の紋章はボタンだよ。最初に手がけたのがボタンだったんだって」
「じゃあ、ボタンと羽で」
ブラッドはあっさり言った。
「そうね、魔牛よりは簡単ね。ブラッドの衣装にも私が刺繍するから。さっさと仕立ててもらわないと」
「ありがとう。仕事忙しいのに大丈夫?」
「仕事は父さんに丸投げするから大丈夫よ」
「パッパに任せなさい……」
じっとりした声が後ろから聞こえる。イローナとブラッドは飛び上がった。
「かわいい愛娘が、結婚衣装の刺繍に集中できるよう、パッパとデイヴィッドが仕事をする。ミランダも忙しそうだし……」
「よろしくお願いします」
ブラッドはにこやかな笑みを浮かべて、パッパの手をガッツリ握った。
「なかなかちゃっかりしている。そういうのは大事だ。さすがイローナの良さを分かる男だな」
パッパはやっと機嫌を直した。
「かわいい義息子のためだ。パッパに任せなさい!」
パッパにいつもの笑顔が戻った。パッパを操縦できる若夫婦、ふたりがそう言われる日も近いのではないか。