113.行ったり来たり
サイフリッド商会の宿舎に着いたクルトとニーナは呆然としている。さっき見た光景に言葉を失ったのだ。屋敷から飛び出てきた女神がパッパに抱きついた。愛しさを全身で表して。
パッパは「妻のミランダです。ではユーラ、後は頼みましたよ」そう言ってさっさと屋敷に入ってしまった。
挨拶する暇もなかった。ユーラは苦笑しながら、クルトとニーナを荷馬車に押し込む。ボケーっとしているうちに、宿舎に着いた。
「ここは、サイフリッド商会の宿舎だ。好きなだけいていい。メシも出る。クルトとニーナの部屋は俺の隣だ」
「あ、ああ」
クルトはやっと我にかえった。
「あれがパッパの奥さんか。すごいな」
「分かってると思うが、ミランダさんには失礼のないようにな。パッパは滅多なことでは怒らないが、ミランダさんのことだけは別だ。ミランダさんの感情を害したヤツは、あらゆる手でパッパが追い込む」
「こえー」
クルトはブルッと震える。
「それで、何を歌うか決まったのか?」
「え、『草をはみ』じゃないの?」
ニーナが目を丸くする。
「いや、あれはミリー様とアル様に贈った歌だから。ミランダ様とパッパには『たとえこの世が千々に砕けても』がいいだろう」
「ああ、あれな。いいんじゃないか。歌詞ができたら教えてくれ。それに合わせて絵を描く」
クルトとユーラは淡々と話を進めているが、ニーナは全くついていけない。
「えーっと、ふたりとも全部の節を覚えてるの?」
「ああ。細かい文言までは覚えてないけど。歌になって聞こえたから覚えてる。ミリー様が、歌詞は適度に変えた方がいいって仰ってたし。聖典とまるっきり同じにすると、影響が大きすぎるって。もうおかしくなる人を出したくないからな」
「俺も大体覚えてる。ミリー様が朗読しているときに、絵になって見えた。俺にはそれで十分だ」
ニーナはポカンとした。ニーナは全く覚えてない。自分がバカなのか、このふたりがすごすぎるのか。
「気にするな。普通は覚えられない。全部覚えてるのは、あとはゲッツぐらいか。ヨハンは半分くらいは覚えてそうだが」
そんなものなのか、芸術家って。ニーナは驚きから立ち直れないまま、部屋の扉に手をかける。
「ひとりで大丈夫か?」
クルトが心配そうにニーナに聞く。
「大丈夫、すぐ隣にいるんだし」
ニーナはそう言うと、部屋に入って扉を閉めた。窓から外を見る。チラチラと雪が降ってきている。寒いのでさっさと着替えてベッドに入った。ベッドの中には湯たんぽが入っていて温かい。ニーナは目をつぶった。
クルトに助けられ、話せるようになって、ミリーお姉さまに出会った。もうあんまり悪夢は見ない。フェリハ様が何度も謝って、悪夢を見ない刺繍を縫った布をくれた。それを枕の下に敷くとゆっくり眠れる。
あの変態にひどい目に合わされたのは私だけじゃない。アイツはもういない。ミリーお姉さまのお父さんがやっつけた。
長旅で疲れていたニーナは、すぐ眠りについた。
次の日から、ニーナはミランダのおもちゃになった。
「イローナも出ていって暇だったの。かわいい女の子が来てくれて嬉しいわ。イローナの昔の服を着てみて。気に入ったら持って行っていいからね。うちに置いてても仕方がないんだし」
色んなドレスを着せられる。どれもフリフリだ。正直、ニーナには似合わない。それに、胸のところが悲しいほどに余る。
「ニーナは痩せてるものねえ。もっとお肉を食べなきゃダメよ。ところで、ニーナはいくつなの?」
「十七歳です」
ニーナは小声で言った。ミランダは目を丸くしてニーナの全身を見つめる。
「ごめんなさい。てっきり十二歳ぐらいだと思ってたわ」
「私の一族はみんな小さいんです。だから子どもみたいに見られるの。でも、他の人には内緒にしてください」
「子どもに見えてる方が安全ってことね? 分かったわ。苦労したのね。まさかイローナより年上だとは思わなかったわ」
ミランダは少し困った顔をする。
「そうすると、肉を食べても胸は大きくならないわねえ。でも、もう少しふっくらしてる方がかわいいわよ。たくさん食べなさい」
それからミランダは、ニーナが食べるべき食事を料理人に指示してくれるようになった。
「肉や卵に牛乳、パンやごはん。野菜とナッツ類も食べるといいわ」
栄養たっぷりのごはんが出てくる。ニーナの頬に肉がついてきた。
「フリフリしない服の方が好きなのね? 少し仕立て直させるわ」
そう言ってミランダはフリフリドレスを、ニーナに似合うようにスッキリさせてくれた。
母さんみたい。ニーナはこっそり思う。フェリハ様も優しいけど、フェリハ様はセファのお母さんだ。ミランダさんも、イローナさんのお母さんだけど。ここにいる間は甘えさせてもらおう。
クルトとユーラは忙しそうだ。ユーラは彫刻を作る仕事も入った。
「石はなあ、ヴェルニュスの石の方がいいだろうからな。ミリー様の祈りが入った石。ヨハンに言って、デカい岩を探してもらうか」
ユーラは彫刻の下書きをしながら言っている。
クルトは歌詞を書きながら、小さく歌う。もう歌うのは怖くないんだって。「歌う前に、神に祈ればいい」そうミリー様に言われたらしい。
「父なる太陽、母なる大地、我ら大地の子。人々が正しく神に祈れるよう、我を助け給え。そう祈れば大丈夫。それでなんかあったら、それは神様のせいだしねえ」
随分な言いようだなと思うけど、それでクルトは吹っ切れたみたいだ。
やっとクルトの歌が完成し、ユーラが背景を描き、ニーナは人形を動かす練習を始めた。少年と少女の人形ふたつだから、なんとかなる。
正装したパッパが、お姫様みたいなミランダを連れて入ってくる。
クルトは静かに祈りを捧げた。
楽器はない。クルトが静かに歌い始める。
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あなたに会えた喜び
愛するあなた
妻になってくれますか
はい、という甘美な響き
私があなたの名を呼ぶ
なんと魂が癒されることか
あなたが私の名を呼ぶ
なんと愛らしく耳に響くことか
恐ろしい災い
私の心は墓穴に入った
暗く光なき道
神よ、かの民を助け給え
この世が千々に砕けても
神に祈り続けよう
私の愛しいあなたが
共に祈ってくれるのだから
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パッパは静かに涙を流し、ミランダが優しく抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう。素晴らしい」
パッパが何度もお礼を言い、ミランダは穏やかに微笑んだ。
「神様が近くにいらっしゃるように感じたわ。本当に素敵だった。ヴェルニュスからわざわざ来てくれてありがとう」
三人は女神の微笑みから目が離せない。
「私もヴェルニュスに行こうかしら。ミリー様にお礼を言いたいし。レオと過ごせる時間も増えるし」
「ミランダ!」
パッパが嬉しそうにミランダを抱きしめる。
「護衛をたくさん雇う。ミランダに怖い思いはさせない。ヴェルニュスには温泉も出る。では、冬の間はヴェルニュスで一緒に過ごそう」
パッパは王都での仕事は長男に任せ、一行はヴェルニュスに戻ることになった。行ったり来たり。パッパって体力がすごいな、ニーナは感心した。