105.聖典の使い道
ニーナは船の中で、クルトが買ってくれた人形ふたつと、二枚の絵をじっと見ている。そうすると、ニーナの心の中の黒いモヤモヤが少しマシになるのだ。
父さんと母さんを目の前で殺され、荷物のように運ばれた。着いた先には気味の悪い男。体は筋肉がついているのに、顔は老人。
女として連れて来られたのではなかった。血を出すモノとして扱われる日々。どちらにしても、ニーナの尊厳は踏みにじられた。
週に一度ほど、皇帝の前に連れて行かれ、腕を切られる。皇帝はニーナの腕に口をつけて血をすすった。ぬめぬめとした感触がおぞましい。ニーナは考えることをやめた。
同じような少女が何人もいた。いつの間にか誰かがいなくなり、新しい子が来る。皆、壊れかけて心を閉ざしていた。
やっと死ねると思ったとき、クルトが助けてくれた。この人も血を吸うのかしら、そう思ったけど、それは起こらなかった。ただ、毎日優しくしてもらった。あいつは死んだらしい、クルトの態度でなんとなく分かった。
自分より小さな存在が、健気に生きているのを見ると、少しだけ心が和む。私にも羽があったら、あそこから逃げられたのに。
ニーナがどうしても会いたい人は、ミュリエル様という名らしい。ニーナはミュリエル様とつぶやく。親しい人たちは、ミリー様と呼ぶそうだ。船員が話しているのをこっそり盗み聞きした。
ミリー様。ニーナは心の中で、ミリー様と呼んでみる。ミリー様。ミリー様。
ミリー様もあいつにさらわれたらしい。ミリー様は女として連れて行かれたそうだ。なんと恥知らずな、あんな老人の分際で。ミリー様はとても強く、ミリー様のお父さまはもっと強くて、あいつを一瞬で始末したって。そう聞くと、ニーナの心のザワザワがかすかになだめられる。
ローテンハウプト王国の港に着くと、パッパが手配してくれた荷馬車が待っていた。
「どこまで至れり尽くせりなんだ」
クルトは困っていた。クルトは、歌えるか心配みたい。何度か歌おうとして、息を吸っては咳き込んでいる。ニーナもクルトも、心がまだ傷だらけなんだって。吟遊詩人のフランツが言っていた。
大きなお城に着いて、優しそうな女性に体を調べられた。
「ごめんなさいね。念のために、武器を持ってないか調べさせてもらうわ」
そう言って、女性はニーナの髪の中から、つま先まで丁寧に触る。針の一本も見逃さない、そんな注意深さ。
「ミリー様が、すぐ会ってくださるそうよ」
ニーナは唇を噛み締めて、大事な人形と絵を胸に抱える。女性はそれを見て少し微笑んだ。
大きくて、明るくて、暖かい部屋。色んな人がニーナとクルトを見る。女性に連れられて、部屋の奥のソファーに近づくと、少し疲れた様子のミリー様。ミリー様がニーナに手を伸ばす。
「遠くまでよく来てくれたわね。私はミュリエル、ミリーお姉さまって呼んで」
ニーナはミリーお姉さまの手を握った。
「ミリーお姉さま」
ミリーお姉さまはニッコリ笑う。ミリーお姉さまはニーナを隣に座らせ、肩を抱き頭を撫でてくれる。
「辛かったね。アイツは父さんがヤッたから、もういない。ここは安全だよ」
ミリーお姉さまの匂いに包まれて、ニーナはうっとりする。森の匂いがする。爽やかで、強くて、生きている。ニーナがミリーお姉さまを満喫していると、キレイな顔をした男の人がソワソワし始める。
ああ、そういえば、ミリーお姉さまは旦那さまに溺愛されているって、船で聞いたんでした。ミリーお姉さまを独り占めするのは良くないんだわ、きっと。こんな小娘にまで、妬かなくていいのに。少しおかしくなる。
「笑った」
クルトがニーナをマジマジと見つめる。クルトは泣き笑いみたいな顔をしている。
快く滞在を許可された。ニーナの気がすむまでいてもいいらしい。何かできることをしてと言われ、ニーナは牛の乳搾りをしたり、羊やヤギの世話をすることにした。以前なら簡単にできたことが、今はちょっと動いただけで息切れがしてしまう。
「少しずつでいいから、できることをゆっくりね。私なんて、領主なのに今はなーんもしてないしね」
ミリーお姉さまが気まずそうな顔をする。
「後継ぎを宿しておられるのです。ゆっくりお腹の赤ちゃんと過ごすのが、ミリーお姉さまのお仕事です」
ニーナがそう言うと、アルフレッド様が満足そうにするのが、少しおかしい。
ヴェルニュスは色んな人がいる。少しずつ話をするようになると、皆それぞれ傷だらけということが分かった。
「ミリー様がいらっしゃるまではね、早くお迎えが来ないかなーって思ってましたよ」
女性たちは顔を見合わせて言う。
「今はね、毎日色んな楽しみがあって、諦めずに生きててよかったなあって」
「ニーナさんもね、ここでのんびりしなさいな。そうすれば、変態のことも少しずつ消えていくかもしれない」
ここの女性たちは、あっけらかんとニーナの傷にも触れる。その方がお互い気楽だと、長い年月で知ったのかもしれない。
そんなとき、大きなフクロウが飛んで来た。
「ええ、あれってホントにいるんだ」
ニーナが驚くと、職人たちがニヤニヤと笑っている。
「驚くだろう? ミリー様は、あのフクロウに乗るのさ。まあ、今はやめておいた方がいいけど」
「ここでは、ビックリするようなことが、毎日起こるから、楽しみにしておきな」
ニーナは少しずつ職人たちとも話すようになった。大好きな人形がヨハンの手によるもので、大切な銅版画を描いたユーラがここにいるだなんて。ニーナは教会に飾られているユーラの絵を見るのが日課になった。
「この絵、もっと多くの人に見てもらえればいいのに」
ニーナの言葉にユーラはすごい勢いで同意する。
「やはりそう思うだろう? ヴェルニュスだけで独占すべきではないと思わないか? ミリー様の偉業は、全ての民が知るべきだ。そうすれば、正しい祈りをする人が増え、人々が豊かになる」
そのとき、オルガン奏者のゲッツがユーラを呼びに来た。
「おーい、ミリー様が職人たちを呼んでる。聖典のことだって。ニーナさんも来たければおいでって」
ぞろぞろとお城に入ると、ミリーお姉さまがいつものソファーに座って、本を手に持っている。
「アッテルマン帝国から聖典が届いたの。アルと話し合って、感覚の鋭いみんなにも聞いてもらおうと思って。読んでみるから、途中で気持ち悪くなったり、変な気分になったら教えてね」
ミリーお姉さまの柔らかなお声が部屋に響く。神との対話をそばで聞いているような気持ちになる。知らぬ間に跪き、両手を合わせて祈りの姿で聞き入る。厳かな空気が部屋に満ちた。
「……ざっとこんな感じなんだけど、どう? これ読むとね、ツワリがマシになるんだよね。だから、危なくない感じなら、置いておこうかなって思ってるんだけど」
ミリーお姉さまの言葉に、ハッと我に返った。周りを見回すと、熱に浮かされたようになっている職人が多い。アルフレッド様のお顔がくもった。
「ミリー、あまりよくないかもしれない。皆の様子が少しおかしい」
ユーラが息を深く吸い、少し顔を振ってから口を開いた。
「ミリー様がお読みになるのは、アル様の前だけに留められてはいかがでしょう。私たちには刺激が強かったです。ただ、これは少し我々職人で考えたい。少し試したいことがあります。お時間をいただけますか?」
勢いづいたユーラに連れられて、職人たちは別室で話し合いをする。
「きっと、同じことを思っているはずだ」
ユーラの言葉に、職人たちが頷く。ためらいがちにクルトも言った。
「やろう」
ニーナはひとりポカーンとしている。話に全くついていけない。
「え、え? 何を?」
「聖典の節を使って、人形劇をミリー様にお見せしよう。背景の絵はもちろん私、人形はヨハン、色んな小道具は皆で協力して作ろう。ゲッツがオルガンを弾き、クルトが歌う」
ユーラが力強く言った。
「ええー、すごい。私も何か手伝いたい」
「もちろんだ。舞台の上から、人形を動かすという大役を任せる」
「が、がんばるね」
ニーナは握り拳を作って、気合を入れた。