10.あの女は誰だ
「ルイーゼ、そなたとの婚約を破棄する」
その声が聞こえたとき、ダンは思わず舌打ちをした。ダンは王家の影だ。常日頃から、ヨアヒム殿下と、殿下に近づく者を監視している。
今日、王家の影は会場に五人配置されている。三人は殿下の近く、二人は後方だ。
ダンはミリーという妙な令嬢に給仕していたため、動き出すのが少し遅くなった。壁際をさりげない動きで移動し、ヨアヒム殿下の位置が確認できるところで止まる。
ダンはギョッとした。さっきまで信じられない量を食べていたミリーが、すぐ目の前にいるのだ。
一体いつの間に……。ダンの背中をイヤな汗が流れる。影である自分より先に絶好の位置にたどり着けるとは。この女、ただ者ではないな。
あの食べっぷりが見ていて気持ちよかったので、つい見過ごしてしまったが。もしや敵国の間諜か。ダンは女を後ろから注意深く観察する。
その間にも事態は進み、ヨアヒム殿下がルイーゼ公爵令嬢を糾弾している。
(まずいな)
陛下からは、基本的には静観せよと命じられている。何ごとかが起こっても、ヨアヒム殿下とその側近たちに対応を任せよと。王となれる器か、そして王を支えられる忠臣かを測るためだ。
ヨアヒム殿下が、最近おかしな男爵令嬢に入れ込んでいるのは知っていた。だがまさかここまで深刻だとは誰もつかんでいなかった。
殿下も年頃だから、たまにはつまみ食いもするだろうと軽く考えていた。どうする、止めるか。このままではヨアヒム殿下が王位を継ぐ可能性が消えることになる。
ふと、ダンは大食い女の手の動きに目がいった。あのガラス玉は……。ダンが止めるまもなく、女がガラス玉を放った。
ヨアヒム殿下が静かに倒れ、続いておかしな男爵令嬢も床に崩れ落ちる。
ダンは大食い女を今すぐ殺すか、それとも拘束すべきか逡巡する。他の影から合図が来る。ただの気絶、泳がせろ。
他の影が大食い女の後を追う。
ダンはガラス玉を拾い上げると布に丁寧に包んだ。
「陛下に報告にいく。あとは任せた」
ダンは陛下の私室につながる秘密の通路を静かに進んだ。
◆◆◆
「へえ、ヨアヒムが婚約破棄ねぇ。何を血迷ったのやら」
アルフレッド王弟殿下がガラス玉を手のひらの上で転がす。
「それで、このガラス玉でヨアヒムが気絶させられたって? おもしろい、実におもしろいじゃないか」
アルフレッドの言葉に王が顔をしかめる。
「アル、もう少し真剣に考えてくれ。ヨアヒムが男爵令嬢にそそのかされて、公衆の面前でルイーゼ嬢を侮辱したのだ。慎重に対応しないと、国が割れる」
「原因になった男爵令嬢は捕らえているのでしょう? それに全てかぶせては?」
「ルイーゼ嬢とその父エンダーレ公爵の出方次第ではあるが……。場合によっては私の進退をかけねばならん。そうなったら、お前に王位を任せることになるぞ、アル」
「……そうならないように、動きますよ。少し時間をください」
「頼むぞ」
アルフレッドはガラス玉を指でつまんで、ガラス玉越しに王を見る。
「うまくコトを収めたら、その子を僕にくれますよね?」
「……捕らえた男爵令嬢のことか?」
「いえ、ガラス玉の方」
「……どこの馬の骨とも知らぬ娘だ。まずは綿密に調査した上での判断になるな。そもそも、なぜヨアヒムを攻撃したのか、それを明らかにする必要があろう」
王は難しい顔をしてアルフレッドをたしなめる。アルフレッドはダンに話を振った。
「ダン、君が一番その少女と近かったんだろう。君の意見を聞かせてくれよ。その子、どんな子だった?」
「はい、まっすぐに育った生命力の強い人物だと感じました」
「ふーん。ダンにしては珍しく褒めてるよねぇ。それで、王都に来た理由はなんて?」
「はい、医学、法律、測量、土木などの知識を持つ健康な婿を探しにきたと。持参金はなるべく多く得たいとのことです」
王はアゴを指でなでた。
「まさか、ヨアヒムを婿にと考えているのでは……」
「それはさすがにないと思うけど……。ダンはどう思う?」
「そのような大それた野望を抱いているとは、考えにくいかと。実は、婿候補の書かれた紙を見ました」
アルフレッドの目がキラリと光る。
「へえー、それは興味があるな。誰が書いてあった?」
「有能ではあるものの、身分や財力に恵まれない貴族の名前が多かったです」
「それ、あとで紙に書いてよ。どうせ全部覚えてるよねぇ」
「御意」
アルフレッドがあらゆる女性を骨抜きにしてきた笑顔を王に向ける。
「兄上、その子呼んでよ。会って直接聞くのが一番だよ」
「お前がやる気になると、ろくなことにならん」
「僕もそろそろ結婚しようかなーなんて」
アルフレッドはニヤリと笑った。
「隣国の王女はどうするつもりだ。お前に操を立ててずっと待っておるぞ」
「気持ち悪いからやめてよ、兄上……。僕がああいう女は無理って知ってるだろう」
「分かっておるが……。まさかお前、その娘に婿入りする気ではあるまいな」
「さて、どうでしょうね」
コロリコロリとガラス玉を指の間で転がす。
「立場をわきまえよ」
「この国難を治めるんですよ、それぐらいのご褒美があってもいいんじゃないですかねぇ?」
「……その娘を見て判断する」
「約束ですよ。では一週間ほど授業を休みにしましょう。基本的に生徒は自宅待機。図書館と騎士の訓練所ぐらいは開けてもいいですが」
「分かった。その間に諸々、うまく調整してくれ」
アルフレッドはしばらく考えたあと、ダンに次々と指示を出した。