第268話 山脈越え
【ケルニールス視点】
エックトレーム王国国王、ケルニールスの居室。
ケルニールスは起床後、報告に来た初老の女中ニースラーザから話を聞き、溜息をついた。
報告の内容のあまりのひどさに、もはや溜息しか出ない。
ニースラーザはそんなケルニールスを気遣い、黙って見守っていた。
「………………何を、考えておる……。」
グローノワの帝位を簒奪した、教皇の皮を被った怪物。
ヒルディンランデル。
ケルニールスの情報組織は当然ながら、帝国にも何人か送り込んでいた。
軍務省に諜報を目的とする部署が存在するが、そちらとは別口だ。
だが、どちらからもたらされる情報も、それはそれはひどい内容であった。
これまで現地で集められた情報を、王宮や軍務省で分析し、まとめられた報告書がいくつか上がってきた。
『グローノワの国力は著しく低下している。』
『国内生産力の低下が特に顕著に見られる。』
『帝都を含む都市部で、治安の悪化が急速に進む。』
『ヒルディンランデルの聖戦の呼びかけに、多数の民衆が動くだろう。』
『武装し国境に向かう民衆の数は、およそ二百万人と予測される。』
『最大で四~五百万人にもなる群衆が、国境の防護壁に押し寄せる可能性がある。』
何とも馬鹿げた内容だ。
簒奪者ヒルディンランデルの行っていることは、短期的には自分たちの首を絞める行為であり、長期的にはただの自殺である。
わざわざ反乱まで起こして奪い取った皇帝の地位を、自殺の道具にしているだけなのだ。
そんなことをせずに、権力を思うがままに振るい、享楽に耽ってくれれば隣国としては有り難い。
前皇帝のように。
しかし、ヒルディンランデルという男は、言ってみれば働き者の愚者だ。
大人しくしていれば害は少ないが、働き者故に動き回る。
そのため、被害が拡大する典型といえた。
グローノワが勝手に潰れる分には構わないが、最悪なことに矛先をエックトレーム王国に向けている。
連中の自殺に巻き込もうと、形振り構わず押し寄せようとしているのだ。
ケルニールスはティーカップを持つと、一口飲んだ。
今日の紅茶はやけに酸味を強く感じた。
ケルニールスは顔をしかめ、頬杖をついてニースラーザを見る。
「…………それで、撤収は?」
「すでに完了しました。」
ニースラーザの返答に、ケルニールスは頷く。
困ったことに、組織の中に裏切者が現れた。
それも一人や二人ではない。
グローノワに送り込んでいた者のうち、三割以上が皇帝に同調したのだ。
裏切者の共通点は明白だった。
情報収集に教会に通っていた者。
どうやら、グローノワの教会では人々を洗脳する何かを行っているらしい。
その影響を考慮することで、『最大五百万もの民衆が国境に押し寄せる』という馬鹿げた予測に至った訳である。
グローノワの人口は、凡そ四千万人。
実に二十人に一人、最大で八~十人に一人が教皇の呼びかけに踊らされ、無謀にも国境にやってくるらしい。
ロクな訓練も行っていない、女、子供、老人に至るまで。
ケルニールスは頬杖をついたまま考える。
現在、王国の総兵力は二百五十万を少し割るくらい。
だが、当然ながらそのすべてを前線に送る訳にはいかない。
そんなことをすれば、王国内の治安維持ができなくなる。
(…………精々、五十万を集めるのが関の山か。)
五百万の民衆に対して、五十万の兵士で対抗。
十倍の数ではあるが、何ともならない数ではない。
これが、相手も兵士だというなら確実な負け戦であろうが、相手はただの民衆だ。
弓兵を増員すれば、即席の部隊でも十分な効果が見込める。
矢を前に放てれば、それで十分。
何せ、狙う必要さえない。
ただ矢を放てば、五百万の群衆が勝手に当たりに来るのだから。
可能ならば超長射程の長弓部隊も編制し、押し寄せ、詰まった所に矢の雨を浴びせる。
超遠距離を長弓兵。
遠距離を弓兵。
中距離を魔法士。
近距離で兵士。
浅くてもいいので堀を作り、盛り土と逆茂木で足を止めれば、何とかなるだろう。
そんな、大雑把な防衛戦術案を頭の中で考える。
「ヒルディンランデルとやらは、まだ遊説の旅か?」
ケルニールスは頬杖を解き、ニースラーザに尋ねた。
「はい、帝国内のすべての都市、大聖堂で民衆を扇動しています。」
「帝位に即いたところで、革命家気質が抜けておらんか。 踊らされる民衆も哀れなことよ。」
現在、ヒルディンランデルは帝国中を回り、民衆を熱心に煽っているらしい。
その結果、興奮した一部の民衆が暴徒と化し、どんどん治安が悪化しているというのだ。
何とも馬鹿らしい話ではないか。
しかし、笑っていられる状況ではなかった。
王国としては、絶対に帝国崩壊の巻き添えになる訳にはいかない。
ケルニールスは紅茶を飲み干すと、真剣な目でニースラーザを見る。
「ご苦労だった。 引き続き情報収集を。」
「畏まりました。」
恭しく頭を下げるニースラーザに、ケルニールスは頷いた。
■■■■■■
土の1の月、3の週の陽の日。
ミカは久しぶりに、ギルドに溜まった呪物の解呪を行いに来た。
最近では数カ月に一度くらいしか来れず、申し訳ない気持ちになる。
呪物のおかげで有名になり、とても稼がせてもらったので、「もうやりません」とはちょっと言いにくい。
もはやミカにとって指名依頼はお金のためではなく、これまでお世話になったギルドへの義理のような感じだ。
それに、解呪の依頼をしなくなったら、二つ名の”解呪師”とは一体何なのかという話になってしまう。
そのため、数が溜まったら一気に片付けることにしていた。
また、”自動解呪”の改良の必要性も感じていた。
すでにアイディアはあるので、そのテストも兼ねて、預かりの指名依頼をやっておくことにしたのだ。
そうして、今回の依頼達成で目出度く、Bランクへと昇格するための点数に到達した。
普通は十年以上をかかけて稼ぐ点数を、ミカは三年ほどで駆け抜けてしまったのだ。
まあ、年間に数十件も指名依頼をこなすCランクの冒険者なんか普通はいないからなんだけど。
これにより、ミカはBランクへの昇格を果た…………さなかった。
本人が拒否したからだ。
ミカの前に座ったユンレッサが、少し困った顔をしていた。
少し前の話になる。
ミカが応接室で”自動解呪”を使っていたら、ロズリンデがやって来た。
相変わらず、ノックもなしにいきなり入ってくるのな、ロズリンデ。
ミカは慌てて、背中の翼を引っ込めた。
「久しぶりね、ミカ君。 もうすっかり神様じゃない。」
「何がですか!? 確かに一部で”神々の遣わし者”とか言われてはいますけどっ……!」
ミカの翼を見たらしいロズリンデに、一応反論しておく。
神様と、その使いっ走りでは、雲泥の差があるだろうに。
ちなみに、フィーも応接室をふよふよ~……と漂っている。
フィーも大分認知されて来たため、最近ではミカの周りにいる時はあまり隠れなくなった。
「あ、そうだ。 ミカ君、ギルドカード貸して。」
そんなフィーを目で追いながら、性懲りもなく、またロズリンデが「ギルドカード貸して」などと言ってきた。
その瞬間にピンと来たミカが、ロズリンデに問い質す。
「…………何でですか?」
「何でって、手続きがあるから。」
「何の手続きですか?」
「………………………………。」
「………………………………。」
そんな、ごく当たり前のミカの確認にロズリンデは答えない。
黙って、ロズリンデをジト目で見上げるミカ。
そんなミカの視線に気づきながら、すっとぼけてフィーを目で追うロズリンデ。
気まずい沈黙が漂う。
「…………何よ。 お姉さんのことが信用できないって言うの?」
「ええ。 自分の行いをよく振り返って、それからもう一度言ってもらえます?」
以前、「手続きする」とだけ言って、勝手に二つ名を刻みやがった。
しかし、そんなことでへこたれるロズリンデではない。
「何度だって言ってあげるわよ! お姉さんには、疚しいところなんてこれっぽっちもないんだから!」
「少しは『悪かったな』とか思ってくれ!」
ロズリンデに反省を求めることが間違いなのか!?
ギルドカードを渡そうとしないミカに、ロズリンデが強硬手段に出る。
何と、魔法具の袋に勝手に手を突っ込もうとしたのだ。
「ちょっと! 何で取れないのよ! 壊れてんじゃないの、これ!?」
「魔力登録してるんだから当たり前だろうが! つーか、何勝手に人の袋に手ぇ入れてんだ! おまわりさーん、この人ですーっ!」
応接室の中で、ロズリンデと取っ組み合いになった。
まあ、さすがに一般女性にやられはせんけど。
いくら身長に差があろうが、こちとら魔獣も相手にするCランクの冒険者である。
むしろ、怪我させないように気を遣うくらいだ。
「い、い、か、ら! 出しなさいっ!」
「嫌だって言ってんだろ!」
魔力登録されてるんだから、いくら手を入れようとしても入る訳がない。
だが、相手はロズリンデである。
こいつに常識が通用しないように、何だかこの世界の法則も通用しない気がしてきた。
いや、きっとやる。
ロズリンデならば、きっと世界の法則さえぶち破り、俺のギルドカードを取り出してしまうだろう。
「…………何してるの? 二人とも。」
ロズリンデと取っ組み合っていると、ユンレッサが応接室に入って来た。
騒いでて、ノックの音も聞こえなかった。
「応接室の外にまで声が聞こえたわよ?」
そう言って、ユンレッサは応接室のドアを閉める。
「ミカ君、もう終わったの?」
「いえ…………まだです。 途中で邪魔されましたから。」
ジト目でミカが言うと、ロズリンデがぷいっと横を向く。
ミカの話を聞き、ユンレッサが溜息をつく。
「何やってるのよ、ロズリンデ。 依頼の邪魔をするなんて。」
「邪魔なんてしてないわよー?」
「してたやろ! 思いっきり邪魔したよな!?」
ミカが大声で訴えるが、ロズリンデはどこ吹く風だ。
「しーてーまーせーんー。 言いがかりつけるのはやめてくださーい。」
くっそ、めっちゃムカつくなぁ、その言い方。
睨み合うミカとロズリンデを見て、ユンレッサがまた溜息をつく。
「もう……。 こっちは私が対応してるから、ロズリンデは戻っていいわよ。」
「はーい。 いぃーーーーーーっだ!」
子供のように歯を剥くロズリンデに、ミカはサムズアップを送る。
当然、親指の向きを力いっぱい引っ繰り返す。
そんなミカとロズリンデを見て、ユンレッサがまた溜息をつくのだった。
そうしてすぐに残りの呪物も片づけ、【鑑定】で解呪を確認される。
依頼達成の手続きの際に、ユンレッサが教えてくれた。
「おめでとう、ミカ君。 今回の依頼達成で、Bランクに必要な点数に達したわよ。」
「…………やっぱりそれか。」
どうやらロズリンデは、今回の依頼達成で入る点数で昇格すると見越して、勝手にBランクにするつもりだったらしい。
すでにミカに関しては、点数が到達したらBランクに昇格させるようにと通達が来ていたのだという。
普通は点数が達してから昇格の判断が行われるが、まあ何事も例外はある。
先日のチレンスタの相談のこともあり、早々に昇格の判断がなされていたそうだ。
「それで何だけど……。」
だが、話はこれだけに留まらなかった。
「ミカ君はAランクへの昇格も決定しているの。」
「…………はい?」
Aランクへの昇格は、その基準がはっきりと示されていない。
点数を稼いで到達する最高位はBランクであり、Aランクに昇格するのは単純に点数を稼ぐことよりも重要なことがあるという。
簡単に言ってしまえば、それは知名度だ。
勿論、悪名ではいけない。
冒険者としてギルドに大きく貢献していることが前提のため、Bランクであることも必須。
その上で、ただ依頼をこなすだけでなく、人々に広く認知され『この人なら安心だ』と誰もが納得するような冒険者でなければならない。
それが、ヤロイバロフがAランクであり、セッヴェロがBランクのままである理由だった。
単純な腕の差もあるが、セッヴェロも一流と言っていいほどの腕を持っている。
だが、基本的に指名依頼だけをこなす今のスタイルでは、名前は売れて行かない。
ミカのように名前だけが爆発的に広がるなど、普通はないのだ。
ヤロイバロフはBランクになっても指名依頼以外にもガンガン依頼を受け、王国中に名前を轟かせた。
大物がいると聞けば、王国のどこにでも駆けつけ、討伐していたという。
まあ、ヤロイバロフの例は少々極端らしいが、そうして精力的に活動する冒険者だけがAランクに昇格するらしい。
セッヴェロのように、来た仕事だけ片付ければいい、というスタイルでは中々Aランクにはならない。
そして、Bランクにいる冒険者のほとんどが、基本的にはセッヴェロと同じスタイルだ。
指名依頼だけで十分以上に食べて飲んで、遊んで暮らせるのに、わざわざ自分からリスクの高い、しかも報酬の安い依頼を取りに行く者は少ないという。
ミカの場合は珍しい解呪という【技能】持ちということで、とにかく名前だけが広がった。
そうして、依頼とは関係ないが、戦場での功績や王都襲撃で、御使いや”神々の遣わし者”として広く認知された。
情報屋ギルドに情報の統制を頼んでいたが、無駄に終わってしまった。
まあ、自分の行動の結果なので、これは情報屋ギルドに文句を言っても仕方ないが。
ミカ・ノイスハイムという名前は知らなくても、”解呪師”=”神々の遣わし者”というのは、もはや子供でも知っている事だ。
錬金術師という顔については知る者は少ないが、すでに王都にいる御使い、戦場に現れた御使いというのは有名過ぎるほどに有名だった。
そのため、Bランクへの昇格と同時にAランクへの昇格条件も満たし、ミカの二階級特進が決定しているらしい。
そんな説明を聞き、ミカは変な顔になる。
具体的には両手で頬を挟み、圧し潰した顔だ。
「…………何でそんな顔してるの?」
意味の分からないミカの行動に、ユンレッサが微妙な表情になった。
「それって、断れます?」
「断る!? 何を!?」
思いもしなかったミカからの言葉に、ユンレッサが驚く。
「最近、いろいろとあって……。 正直言えばこれ以上はちょっと、肩書と言うか、責任を負いたくないというか……。」
別にAランクの冒険者になったからといって、何かを背負わされるということはないだろう。
だが、期待はされるはずだ。
Aランクの冒険者なのだから、こうあるべきだ。
Aランクの冒険者なのだから、きっとこうのはず。
すでに多大な期待が圧し掛かっている身としては、想像するだけでちょっとげんなりしてしまう。
ずっと避け続けようと言う訳ではない。
もはや手遅れなほど背負っているので、今更これくらいとも言える。
それでも、もう少し落ち着いてからにして欲しかった。
学院や”神々の遣わし者”なんてものが無ければ、喜んで受け入れただろうか。
正直言えば、それも分からない。
あまり大きく期待されるのは好きではないからだ。
Bランクに昇格すれば、必要に応じてAランクの依頼も受けることができる。
多分、そんな感じでのらりくらり気ままに冒険者をやっていたかったのだ。
キスティルとネリスフィーネを助けることで、その後の責任についてあれこれ考えた。
二人に対しては、責任を果たそうと覚悟も決めた。
だが、結局はミカの行動はあまり変化がない。
前線が崩れたと聞き、駆けつけて力に物を言わせて巻き返した。
王都が魔獣に襲われ、沢山の負傷者が出たから治療してあげる。
できるからやっときました、の繰り返しだ。
その結果、国中の人から多大な期待がかけられている。
自分の行動の結果ではあるが、そのことがちょっと負担になっていた。
ミカが沈んだ表情でいると、ユンレッサが優しく微笑む。
「分かったわ。 昇格についてはストップをかけておくわね。」
「すみません……。」
ミカが謝ると、ユンレッサが首を振る。
「いいのよ。 ミカ君が昇格を喜べる時まで、保留にしておきましょう。」
「はい。 ありがとうございます。」
ミカがぺこりと頭を下げると、ユンレッサが可笑しそうに笑った。
「変わらないのね。 本当に。」
そんなこと言う。
「何だか、すごいことをいっぱいしてるし、皆もミカ君のことを『すごいすごい』って言うけど。 ミカ君はミカ君のままね。」
「まあ…………僕は僕ですし。」
ミカは頬をかりかりと掻く。
そんなミカに、ユンレッサがまた笑った。
「うん。 何か、あっという間に遠い存在になっちゃったなあって思ってたんだけど。」
「そんなこと思ってたんですか?」
「ええ、そうよ? 最近はあんまりギルドにも顔を出してくれないし、『すごい人になっちゃったんだから、仕方ないよね』って思ってたんだから。 でも……。」
そこで、ユンレッサが一つ息をつき、真っ直ぐにミカを見つめた。
「変わってないみたいで安心したわ。」
そう、破顔して笑った。
■■■■■■
【ワーターエラム視点】
大陸の南に、東西に長く列なる山脈が横断している。
グローノワ帝国とアム・タスト通商連合を分断する山脈だ。
この山脈の東端はグローノワ帝国と通商連合の国境であり、西端はエックトレーム王国と通商連合の国境である。
山脈の中にも勿論国境はあるが、険しいために厳密にはどこが国境か把握している者はいない。
そもそも、この山脈を越える者などほとんどいないのだ。
一部の、正規の手続きでは国境を越えらえない者が通ることがある、というだけである。
そんな山脈を、へいこら言いながら登る一団。
ワーターエラムとその家人、友人らである。
護衛の冒険者たちに手伝ってもらいながら、険しい山道を登っていた。
すでに草木などほとんど無く、ゴツゴツとした岩しかないような地帯だ。
ワーターエラムがこんな山道を通るのには、理由があった。
まあ、つまりは、正規の手続きで国境が越えられなかったのである。
それだけならこんな山道ではなく、別のルート、別の手段を考えることもできた。
というか、そのつもりだった。
しかし、その計画は潰えてしまった。
家人の裏切りによって。
これを、裏切りと断じてしまっていいのだろうか、と悩むところもある。
だが、結果だけを見ればそれは裏切りだったし、そのためにワーターエラムらは逃げるようにこの山脈に入るしかなかったのだ。
ワーターエラムたちは王都を出て、アム・タスト通商連合との国境にほど近い街、ミハスナダに潜伏していた。
セステンドフに街の外れに家を用意させ、受け入れの準備をさせてあったので、これは問題なかった。
そうしてワーターエラムは拠点に引き籠って、帝国脱出の計画を冒険者たちと相談していた。
実際の段取りはセステンドフや冒険者たちに動いてもらっていたのだが、これがまったく思うように行かなかった。
帝国軍の目が厳しいのだ。
どうやら、本気で誰一人国境の外に出さないつもりらしい。
例外は一つだけで、食料や何やらを買い付けに通商連合へ向かう馬車しか通ることが許されない。
では、これに紛れれば行けるか?と思ったが、それも難しいということだった。
国境に近い街だ。
当然ながら、そういうことに通じた者がいる。
以前なら警備の騎士への袖の下で何とかなった密出国も、今はできなくなったらしい。
そのため新しいルートや手段を模索しているらしいのだが、まだ確立されたものはないという。
食料や旅の準備を整えつつ、潜伏を続けた。
そんな毎日だったが、家人のうちの三人が時々教会に通っていた。
ワーターエラムの家の家人たちは、主人の考えが多少影響していて、あまり熱心な光神教徒ではない。
だが、程度には個人差があり、教会に通いたいという者もいたのだ。
ワーターエラムは、これを認めてしまった。
ただでさえ精神的な負担の大きい逃避行だ。
教会でちょっと祈って来るくらい、と考えてしまったのだ。
だが、その家人たちの様子が徐々におかしくなっていった。
ワーターエラムは気づかなかったのだが、冒険者たちのうちの何人かは気づいた。
そのため、注意深く見ていたのだという。
そして、先日の教皇の聖戦の話だ。
あの話が噂で伝わってきた頃から、ワーターエラムにも分かるくらい家人の様子がおかしくなった。
「この家の奴らは、神々に背く背教徒ばかりだっ!」
朝食の席でいきなり叫び出した。
一人がそう叫ぶと、続けて叫ぶ者が出た。
一緒に教会に通っていた二人だった。
冒険者たちが取り押さえたが、少々騒ぎが大きくなり過ぎた。
近所に不審がられてしまったのだ。
そのため、急いで拠点を移す必要ができてしまった。
最小限の荷物だけで逃げ出す羽目になった。
冒険者たちは、口封じに家人を殺すことを提案してきた。
バレれば、ワーターエラムが死ぬことになるから、と。
だが、ワーターエラムは命を奪うことまではしたくなかった。
長年仕えてくれた者たちだったからだ。
そのため、別の地で仮の拠点を作るのも、かなりのリスクを伴うことになった。
取り押さえた家人たちは身動きが取れないようにしてきたが、ワーターエラムたちのことが発覚するのも時間の問題。
それならば、このまま帝国を脱出した方がいいという意見でまとまった。
岩に腰掛け、しばしの休憩。
「さすがに、老体にはこの山道は堪えるな……。」
ランバルエルが苦し気に呟く。
ワーターエラムらの一団の最高齢は家宰だ。
次いで、ランバルエルが高齢だった。
家宰は中々に体力があるようで、きついのはきついだろうが、それでも何とかついて来ていた。
しかし、ランバルエルはもはや限界といった感じだ。
冒険者たちの中で余裕のある者が負ぶったりしながら、ここまで何とか連れて来た。
「ここまで来れば、おそらく追っては来ないだろう。 …………油断はできないが。」
「ああ……、油断などするな。 いざとなれば、私のことは置いて行け……。」
項垂れるように、そんなこと言う。
さすがのランバルエルでも、この山脈越えは相当に苦しかったようだ。
「殺しても死なんと思っていたが、存外殊勝なことを言うじゃないか。」
「……冗談を言うとる場合じゃない。」
真剣な表情で、ランバルエルががワーターエラムを見る。
「最悪、家人も囮に使い、お前だけでも通商連合に行かねばならん……。 冒険者たちに背負われるべきは私じゃない。 お前だ。」
「ランバルエル……、お前。」
ランバルエルの言葉に、ワーターエラムは二の句が出ない。
しかし、一度目を閉じると首を振る。
「だめだ。 皆で通商連合に逃れるんだ。」
「ワーターエラム、覚悟を持て。 もはやお前が伝えるしかないんだ。」
だが、ランバルエルは食い下がる。
拠点から逃げ出す時、これまで集めた文献などを収めた魔法具の袋を置いてきたのだ。
たとえ馬車に積んだとしても、馬車では山脈を越えることができないからだ。
魔力登録された袋なので中身を知られることはないが、ワーターエラムたちの知識は、もはやワーターエラムとランバルエルの二人しか持ち得ない。
魔法具の袋からは、二度と貴重な資料が取り出されることはなく、証拠は闇に葬られる。
その、お膳立てをしてしまった。
「あの家人たちの変化は、お前も見ただろう? 教会に何かされたと、お前も疑ったんじゃないのか!?」
「そ、それは……!」
あの家人たちは確かに光神教徒ではあるが、そこまで熱心だった訳じゃない。
ワーターエラムの家では熱心な方というだけで、たまには教会に行きたいと言うくらいはごくごく普通のことだ。
それが、突然『背教徒』などと言いだした。
「この知識を、伝えなくてはならない。 失われたという【解呪】を復活させるんだ。 通商連合か、王国か、七公国か。 どこかにきっと残っている! それを探し出すんだ! 何としても!」
ランバルエルの言葉に、ワーターエラムはごくりと唾を飲み込む。
もしも、今の帝国を操っている者がいるとしたら。
その正体は――――。
「それだけ元気があれば、もう行けますかね。」
そこに、セステンドフがやって来た。
「セステンドフ! お前も言ってやれ! ワーターエラムは――――!」
「はいはい、行きますよ。 立って立って。」
ランバルエルの必死の訴えを聞き流し、セステンドフがワーターエラムに笑いかける。
「人間、悪い時には悪いことばかり考えてしまうものです。 そうでしょう?」
セステンドフの達観した笑顔に、ワーターエラムは目を瞬かせる。
きっと、セステンドフにはワーターエラムの知らない、大変な苦労があったのだろう。
「あ……ああ、そうだな。」
ワーターエラムはそう返事をしながら、セステンドフの落ち着きぶりに感心した。
この素晴らしい助手と出会うことのできた、自分の人生の幸運に感謝するのだった。




