第10話 熱エネルギーと癒しの魔法
「熱っっっ!!!!!」
森の中にミカの叫びが響く。
ミカは後ろに倒れるようにのけ反り、そのままごろごろと転げ回る。
あーっ!くぅーっ!と呻きながら、右手首を左手で掴みじたばたと暴れる。
少しの間そうして転げ回ったが、落ち着いても起き上がる気力が湧いてこない。
「あーーくそっ、もう少し考えろよ俺っ!」
自分に向かって悪態をつくのだった。
火魔法の火力アップを試行錯誤して今日で2日目。
岩が溶けるところを思い描いたり、温度によって炎の色が変わるイメージを思い浮かべたりといろいろ試したが、結果は芳しくなかった。
そこで行き着いたのが、そもそも熱とはなんぞや?ということだ。
燃焼という化学反応でお馴染みだが、熱とはエネルギーの一形態である。
より正確には、エネルギー移動の形態だったか。
物理学やら熱力学やらで学生の頃に習ったのはもはや遠い思い出。
記憶の彼方である。
そんな朧げな記憶を引っ張り出し、”熱”というものについて考える。
仕事や内部エネルギー、状態方程式など「そんなの習ったなあ」と懐かしい気持ちになる反面、試験前に苦労させられた苦い記憶も甦る。
覚えている限りの公式などを地面に書き出してみるが、それを眺めてもあまり役に立つとは思えなかった。
今必要なのは机上での数字ではなく、目の前の”火球”の状態をどうやって変化させるかだ。
そもそも熱とは何か。
原子や分子の振動や回転じゃなかったか?
温度が上がるのは振動が激しくなるためで、温度が下がるのは振動が収まっていくから。
電子レンジの加熱の仕組みは、水の分子を電磁波を照射することで振動させる、というのは割と誰でも知っていることだろう。
あくまで理屈だけは、であるが。
”振動が激しく”というのが、早くなることなのか、振れ幅が大きくなるのか、回転が早くなることなのか、あるいはこれらすべてなのかは分からない。
ミカは科学者でも研究者でもないので、何かで読んだり聞いたりした、あやふやな知識しか持ち合わせていないからだ。
単純に”火球”に「高温になれ。」と思うだけでは変化しないことは散々試して分かったため、ダメ元でアプローチを変えてみることにした。
「原子の振動に激しくなれってのも、随分と抽象的ではあるけど……。」
具体的なイメージのしようがない。
原子を、そしてそれが振動しているところを見たことがないのだから。
すべての物質は原子で構成され、その原子さえ突き詰めていけばクオークやヒッグス粒子などで構成されるというが、そんなのを聞いたところで「ふーん。」以外の感想などなかった。
だが、他に思いつくこともないので、とりあえずは試してみることにする。
「”火球”!」
右手の手のひらを上に向け”火球”を作り出す。
ゴルフボールサイズの”火球”は、右手の10センチメートルくらい上に浮いている。
メラメラと燃えているが、さほど熱いわけじゃない。
だが、すでに季節は夏となり、そんな中で”火球”が目の前にあれば、熱くはないが暑苦しい。
汗がじわりと浮かぶのを感じ、さっさと試してみることにした。
(原子の振動って言ってもな……。 まあ、やるだけやってみるか。)
目の前の炎の塊をじっと見つめ、振動が激しくなり、徐々に温度が上がっていくところを想像する。
すると、僅かだが変化が見られた。
炎の上がり方が少し大きくなり、燃え方が強くなったのだ。
「ぉお? もしかして効果あり?」
気のせいか?
いや、確かに炎は大きくなったように見える。
俺は目を閉じ、真剣に集中して更にイメージ強める。
振動がより激しくなり、炎の温度が上昇するところを。
するとすぐに変化が起きる。
目を閉じ、またあまりにも急激に変化したので気づくのが遅れたが、”火球”の温度が数倍に跳ね上がったのだ。
俺の右手の、ほんの10センチメートルほど上で。
「あっちー……。 あー……、やばい。 まじで火傷したな……。」
右手を見ると全体的に赤くなり、大きな水膨れができている。
「”水球”!」
左手でバスケットボールほどの”水球”を作り出し、その中に手を突っ込む。
が、まったく冷えない。
常温の水だった。
「どうにかして冷やさないとまずいな。」
冷凍庫など存在しないこの世界で、どうやって氷を手に入れるか?
そういえば、川の水も冷たいと言えば冷たい。
そっちの方が現実的か、と考えたところで思いつく。
「熱エネルギーの操作……。」
右手を突っ込んだ目の前の”水球”を見る。
温度を上げることができたのなら、下げることもできるのでは?
「………………………………、やってみるか。」
眉間に皺を寄せ、一瞬だけ躊躇うがとりあえずやってみることにする。
右手を引き抜き、目の前の水の塊をじっと見つめ、原子の振動が止まるところを想像する。
実際には完全に止まることはないらしいが、まああくまでイメージだ。
右手がじんじん痛むが気にしないようにして、意識を集中する。
振動の動きに急ブレーキをかけるように念じ、氷の塊を想像すると、水の塊が徐々に氷の塊に変わっていく。
目に見えて凍りついていく様子に呆気にとられる。
「おお……。 おおおお? まじか。」
思わず呟くと集中力が切れたのか、宙に浮いていた氷の塊はそのまま地面に落ちる。
どすん、という重そうな音が完全に凍っていることを証明する。
地面に落ちた氷の塊に触れようとして、手が止まる。
「水が凍っただけだよな……?」
水が凍っただけなら何の問題もない。
だが、もしもこれがドライアイスの様な物だったら?
目の前で水が凍っていくのを見たのだから、まず間違いないとは思う。
だが、もしもこれが水が凍った物ではなく、仮に水素と酸素が固体化した物だったら?
火傷を冷やそうとして、もっと悲惨な状況になりかねない。
「いやいやいや、どう見たってただの氷だろ。 固体化した水素や酸素だったら、ばんばん気化して湯気が出てるだろうに。 馬鹿馬鹿しい。」
そう言いつつびくびくしながら氷から少し離れ、”水飛沫”を氷の塊にかける。
目に見えて何かが気化しているような様子はない。
指先でつんつんと突くが、指が張り付いたりもしない。
どうやら、本当にただの氷のようだ。
痛い目にあったせいか、つい慎重になり過ぎてしまった。
願わくば、その慎重さを痛い目にあう前に発揮してほしかったが。
しゃがんで右手をそっと氷に乗せると、熱を持った手が急速に冷やされていくのが分かる。
「あぁーー……、冷めてぇーー……。」
はぁー……と溜息をつき、自分の愚かさを呪う。
熱エネルギーの操作という新たな領域が開けたのはいいが、自分の行動があまりにも馬鹿すぎる。
「ちょっと考えれば分かるだろうに……。」
あんな近くで温度が上がればどうなるか、子供でも分かる。
あまりにも考えなしの自分の行動に、自分で情けなくなる。
「……俺って、こんなに馬鹿だったか?」
実際に痛い目にあうまで分からない。
しかも、この世界に来てからそんなことばかり繰り返しているような気がする。
熱中症で死にかけたのはともかく、この前は魔力不足でぶっ倒れ、今度は火傷だ。
もう少し慎重になるべきじゃないだろうか。
何と言うか、自分の行動に少し違和感を覚える。
これまでの自己評価は、どちらかと言えば「保守的で慎重派」だ。
あまり変化を望まず、山あり谷ありの人生よりは、平坦で穏やかな人生を望む。
もちろん便利になる、自分にメリットのある変化は受け入れるが、その受け入れまでにも時間をかける。
本当にそれは自分のメリットになるのか、と。
そうした生き方をしてきた自分と、ここ最近の自分の行動に乖離がある気がする。
この世界に来てからの行動は、今までの自分の基準で見れば”はっちゃけ過ぎ”だ。
「この世界に来て馬鹿になったか?」
いきなりこんな世界に放り出されたのだから、自分の中で何か変化が起きるのは不思議なことではない。
性格とは、経験によって形成される。
こんな突拍子もない経験が、人に何の影響も与えないということは考えられない。
だが、それにしても変化が大きすぎる。
そうなると思い当たるのは一つしかない。
「……ミカ・ノイスハイムの記憶か。」
経験が蓄積されるのはどこか。
記憶として脳に蓄積されるに決まってる。
そのミカ・ノイスハイムの記憶を持っている俺が、何の影響も受けないわけがない。
今の俺の主体となっているのは久橋律だが、ミカ・ノイスハイムと混ざりあい、すでに明確な線引きなど不可能になっていると考えるのが自然だ。
ここにいるのは久橋律でも元のミカ少年でもない、第三の存在としてのミカ・ノイスハイム。
「あー……冷めて。」
氷から手を離し、水膨れをふにふにと触る。
広範囲に、がっつりと水膨れができてしまった。
火傷は表面だけの問題ではなく、内部にまで浸透している。
冷たいからといって、すぐに冷やすのをやめるのは良くない。
再びぺたんと氷に手を置く。
「どうすっかなあ……。」
何とはなしに呟く。
すでに自分の知る久橋律はいない。
その事実に、一抹の寂しさを覚える。
「まあ、しょうがないよな。 俺は、俺だし。」
もはやどうにもならない。
ならば受け入れるしかないだろう。
「それならせめて、反省して今後の教訓にすべきか。」
すでに久橋律はいない。
そして、ここにいるミカ・ノイスハイムはどうやら結構無茶な性格な気がする。
自己覚知。己を自覚し、知るというのはとても大事だ。
それが分かったのなら、後は意識して慎重に事に当たればいい。
水膨れをふにふにと触り、また氷に戻す。
「こいつをどうするかだなあ。」
もちろん火傷についてだ。
火傷自体やっかいだが、できた場所が最悪と言える。
利き手。しかも手のひらだ。
怪我を治したいなら動かさないのが一番だが、利き手の手のひらとなるとそうもいかない。
何より衛生状態が非常に良くない。
火傷は自然に治るかもしれないが、それまで清潔な状態を保つというのが至難だ。
というか不可能だ。
化膿や感染症は既定路線。そうなるのは確定してると言っていい。
となると、ここで採り得る選択肢は多くない。
というか、一つしかない。
「やっぱラディかー……。」
がっくりと項垂れる。
あの”笑う聖母”ならすぐに治してくれると思う。
だが、きっと聞かれるだろう。
なぜこんな火傷をしたのか、と。
本当のことを話すべきだろうか?
それとも誤魔化すべきだろうか?
どちらを選んでも叱られるのは分かっている。
魔法のことを話せば、禁止されるのは確実だろう。
どちらを選ぶか、なかなか決められず頭を抱える。
「【癒し】は欲しいけど、魔法禁止はきついなあ……。」
だが、ラディに嘘をつきたくない。
アマーリアやロレッタもそうだが、この村にはミカのことを真剣に想ってくれる人が多すぎる。
あんなに真っ直ぐ愛情を向けられては、ちょっとした嘘でも罪悪感が半端ない。
ただでさえ、ミカ・ノイスハイムに成り代わっているという負い目があるのだから。
【癒し】は欲しい。
だが、嘘はつきたくない。
でも、魔法禁止は嫌だ。
そうした葛藤の中で、ふと悪魔の囁きが聞こえる。
そう、悪魔のような解決方法。
(待て待て、待てって。 それはない。 それはあかんて。)
ふと浮かんだその考えを即座に否定する。
だが、しばらく頭を抱えて考えても、それ以外の方法が思い浮かばない。
(馬鹿か俺は。 慎重になるって決めたばかりじゃないか。)
頭では否定する。
それでも、心が悪魔の囁きに惹かれているのが自分でも分かった。
左手で頭を掻きむしり、その考えを追い出そうとする。
だが、すぐにまたその考えに魅入られる。
「あーっ、くそっ! 本当に馬鹿垂れか俺は!」
自制心が足りな過ぎるのを自覚しながら、それでも自分を止められない。
「……やってやるよ、くそったれが。」
腹を決め、自分に対してまた悪態をつく。
だが、いくら何でもぶっつけ本番はさすがに避けたい。
最低限の慎重さだけは働き、まずは実験から試すことにする。
自然治癒力。
ごく単純に言えば、病気や怪我を自分で治す機能のことだ。
病原菌が入れば白血球が攻撃したり、怪我をすれば欠損したり壊れた細胞を排除して、正常な細胞で修復する。
もちろん万能ではないが、ある程度は薬も治療も必要なく自分で治してしまう。
魔力を使って、この能力を引き上げることはできないだろうか。
【癒し】なんてものがあるのだから、確実に可能だと言える。
問題は、それが俺に可能なのか?という一点だけだ。
足元の雑草を幹の部分で引き千切る。
そして、分断された部分が触れるか触れないかというところまで近づけて魔力を送る。
細胞の活性化。
壊れた細胞を排除し、平常な細胞に分裂を促し、分断された部分を修復するイメージを強く持つ。
植物の構造的に、水が通る管のような部分があったりするが、そのあたりは植物のDNAに任せよう。
俺はただ細胞分裂を促し、分断された部分が再び繋がることをイメージするだけだ。
一気に魔力を送ってあまり活性化させ過ぎると何が起きるか分からない。
少しずつ魔力を送って、ゆっくりと修復させる。
そうして2~3分くらいかけてゆっくり魔力を送っていると、分断されていた部分が繋がっているように見えた。
手を放してみるが、千切れていた部分から折れることも落ちることもない。
軽く引っ張るが千切れることもない。
「…………ちゃんと繋がってるのか?」
見た目からは分からない。
繋がっているように見えて、内部的には滅茶苦茶で明日には枯れているかもしれない。
だが、一応は繋がった。
繋がってしまった。
「やれなくは、ない……かもしれない。」
こんな草1本を実験してみただけで、自分の身体を使って人体実験するなんて正気の沙汰じゃない。
だが、治癒魔法の獲得という魅力に抗えなくなってしまった。
なまじ実験が成功したことで猶更だ。
「……蝿男の博士もこんな気分だったのかね?」
とある有名な映画を思い出す。
物質転送の実験をしていて、その実験に自らの身を投じてしまった科学者の話だ。
本番を前に、失敗する未来しか想像ができなくなり苦い顔をする。
治癒魔法と言ってはいるが、実際には新陳代謝を促進しているに過ぎない。
通常ではありえないほどの早さで新陳代謝が進むことにより、結果として早く怪我が治る。
ただそれだけだ。
そういう意味では、手から火が出たり水が出る現象よりも遥かに常識的ではないかと思う。
まあ、その促進される早さが非常識なのだが。
「よし、やるか。」
映画の結末を頭から追い出し、自分のやるべきことに集中する。
「右手に魔力を集めて、火傷が治っていく過程をイメージするだけだ。」
損傷した細胞を少しずつ排除し、分解。
それと同時に正常な細胞の分裂を促し、火傷を内側から修復する。
元々身体に備わっている機能だ。特別なことじゃない。
そう自分を納得させ、治癒を開始した。
水膨れした手を自分に向け、じっと見つめる。
魔力を集め、ゆっくりと修復されるイメージを保つ。
ゆっくりでいい、少しずつでいい。慌てるな。
そう自分に言い聞かせながら、右手に魔力を送り続ける。
青白い光が薄っすらと右手を包むが、以前にミカ少年が見た【神の奇跡】の【癒し】は、黄色い淡い光の粒がふわふわ漂う感じだったはずだ。
(青白い光は魔力そのものの色だよな。 今やってるのは【癒し】とは別物ってことか?)
そうして5分ほどすると、少しだけ水膨れしていた皮膚に皺が寄ってきた。
一旦集中を切り、治癒を中断する。
水膨れに触ってみると、明らかに皮膚が余っている。
ぱんぱんに溜まっていた浸出液が減っているようだ。
「……治すのに必要な物質が吸収されたってとこか?」
他に何か変化はないか、じっくり観察を行う。
まだ火傷の痛みは続いている。
だが、目に見えてまずいことが起きたりはしていない。
目に見えない部分、感覚としても痛み以外には特に気になることもない。
数回深呼吸をして、再び右手の治癒に集中することにした。
そうして何度も中断し、確認しながら治癒を進めると1時間もかからずに痛みが無くなった。
といっても感覚すべてが無くなったわけじゃない。痛み以外の感覚はちゃんとある。
浸出液はすっかり吸収されてしまったようで、今は手の皮が手首から指まで全て浮いている状態だ。
正直、この状態はとても気持ち悪い。
「この皮……、剥いてもいいよな?」
手のひらを指で押しても痛みはない。
治癒が完了したのなら、きっとこの皮の下に再生した新しい皮膚があるはずだ。
………………たぶん。
端の方を少しだけ破ってみる。
痛みもないし、他に気になるようなこともとりあえずはない。
すべての皮を取ると、すっかり元の状態に戻っている。
手の形を残した皮を見ていると、まるで蛇の脱皮のようだ。
「は、はは……、まじかよ。」
あまりにも凄すぎて、乾いた笑いが漏れる。
精神的には水や火を発現させたことよりも、この火傷が治せてしまったことの方が遥かに衝撃が大きい。
「本当にとんでもないぞ、この力。」
自分でやっておいて何だが、改めて唖然とする。
「…………そういえば、あの映画でも異常が起きたのは時間が経ってからだったな。」
そんな、余計なことを思い出すミカだった。