3-1 あまりこの世界は、良い場所ではないんじゃないか
心の整理がまるでつかないまま、また月曜日が来た。
「父さん、全然帰ってこないな……」
朝七時には、古河家の三兄弟はすでに全員起き出していた。
階の用意した朝食を三人でもそもそとやりながら、テレビの流れる音と、かすかな冷たい冬雨の音を耳に、テーブルを囲んでいた。
「お母さんもね」
階の呟きに同調するように、朱里はそう言った。
この土日――母は一度たりとも姿を見せず、そして父も、ほとんど寝に帰ってくるだけだった。
おかげで朱里は、金曜日の夜から自分に起こった奇妙な体質の変化について、誰にも相談できていなかった。兄に相談するのも何か癪だし、弟の方は――、
「……あんた、大丈夫?」
「……え?」
「全然食べてないじゃん」
朱里に指摘されてから、立葵はゆっくりと自分の皿を見た。トーストとベーコン、スクランブルエッグ。それがほとんど一口ずつしかたべられていないのを、じっと見つめた。
「食欲ないのか?」
心配そうに、階が訊く。一方で朱里は、もう少し違うことを思っている。
何やら、この弟は弟で、別の悩み事を抱えているらしい。この二年の間東京で離れて暮らしていた兄よりも、やや年の近い朱里の方が、そのあたりの機微に勘付けていた。
土日、そしてこの月曜の朝――段々と表情から起伏が失われていくのを見れば、どうもそれが学校に関係していることなのではないか、という推測もついた。
「調子悪いんだったら学校休む?」
「え、大丈夫か」
「いや……」
大丈夫、と立葵は答えたが、それはどう見ても大丈夫そうな調子ではなかった。
珍しいな、と朱里は思う。立葵はあまり、そういうタイプではないと思っていたから。末っ子らしい、飄々とした要領の良いタイプで、あまり何かに深刻に嵌り込む性質ではない――そういう風に思っていたから。
しかし、本人が大丈夫と言う以上、それ以上過保護にはなるまい、と朱里は思う。このお節介焼きの兄にかつて自分がやられて、ときどきはあまりいい気のしなかったことを、弟にまで押し付けるつもりはなかった。
「いまインフルとかも流行りだしてるらしいから、なんか怪しいなと思ったら早引けしなよ」
「うん。そうする」
「そうしな」
それで、姉弟の会話は終わる。階が「無理するなよ」とそれに付け加えた。
テレビに映る番組が占いのコーナーを終える。
次には、ニュースキャスターが深刻そうな顔で、こんなことを語り出した。
『人の手首が複数本見つかった事件について、警察は捜査を続けています――』
「あ、父さん映った」
「え」
階が言うのに驚いて、朱里はテレビに目線をやった。
しかしすでに映像は現地リポーターへと切り替わっていて、その発言の真偽のほどはわからなくなっている。
「本当に出てた?」
「出てたよ。嘘吐く必要ないだろ。……なんかめちゃくちゃ怪しくなってた。髭生やしっぱなしだし」
「お父さんって着替えどうしてんの?」
「土曜に寝に帰ってきたときに持ってったんじゃないかな。一応、籠に入れてたワイシャツとかは洗ってアイロンかけといたんだけど……。あの浴室乾燥機ってすごい便利だな。この天気で乾くと思わなかった」
ふうん、と朱里は気のない返事だけして、最後のベーコンを胃に収め込んだ。ココアの入ったカップがすでに空になっていることを確認してから、「ごちそうさま」と言って席を立とうとする。
「送っていくよ」
とは、そのとき階が言った。
「いいの? ラッキー」
「なんか最近物騒だからな。あ、あと帰りも。何時くらいになる?」
「え。それはいいや……」
「なんでだよ」
「待つのも待たせるのもめんどくさいし……」
言ってから、しかし朱里は思い出す。
金曜日と土曜日のこと。
この家の周りで不審者を見たと、立葵が言っていたこと。
確かそれはすでに父に伝えて――今回の事件のこともあるからと、それなりに警官が家の周りをパトロールに来てくれるようになるとか、そんな手はずになったということ。
自分が実際に遭遇したわけではないから大して危機感は湧かないけれど、確かにそれに帰り際に遭遇したら嫌か、という思いから、「まあじゃあ迎えも……」と頼もうとしたとき、ふと思う。
立葵は、それならどうしてこんなに憂鬱そうな顔をしているのだろう、と。
普通、不審者に立て続けに二回も会ったりしたら、家にいるよりも学校にいる方が落ち着くのではないだろうか。
不審者の来るかもしれない家にいるよりも、学校に行く方が嫌だとなると、相当悩み事の根は深いのではないか……。
そう思って、ぼんやりしている弟の頭を、軽く小突いた。
大してそれに反発するでもなく首を曲げながら、立葵が朱里を見る。
「なに」
「なんでも」
ぐしゃぐしゃ、と髪の毛を撫でまわして、それから朱里は席を立つ。洗面所に行って、歯を磨こうとする。
当然、そこには鏡があって。
当然、自分の姿が映り込んでいて。
けれど、たったひとつ……。
何の気なしに触れてみた指は、やはりその鏡の向こうに、吸い込まれていった。
゜。゜。゜。゜。
一番会いたくない顔が昇降口で待っていた。
兄の運転する車から降りても、しばらく立葵は教室に向かうことをしないで、校舎の周りをずっとうろうろと彷徨っていた。一番人気がなかったのは百葉箱のあたり。道路に面しているはずの道で、生垣だけが視線を遮っている。冬場の間は霜が降り積もっていて、雨の降っている日は特にぬかるみが長く続く。そんな場所に、傘を差したまま、ぼうっと突っ立っていた。
金曜日から色々なことがあった、と立葵は思う。
一番恐ろしかったのは、家を覗きこんでいたあの不審者との遭遇。
そして一番対処に困るのは、六花真代に対するいじめの問題。
そのふたつ――これまでのそれなりに穏やかだった人生に急に降り注いできた暗い出来事は、視界に映る景色全ての意味を変えつつあった。冬の薄黒い雲から雨が落ちてくる。サイズの合わない、大きな手袋の下で指先が冷えていく。
そして思う。
あまりこの世界は、良い場所ではないんじゃないか、ということを。
予鈴が鳴れば、さすがにもう動き出さないわけにはいかなくなった。朝の会の時間が終わるまでに教室に入れば遅刻の扱いにはならない……というのは昔に姉から教わっていたけれど、わざわざそんな悪目立ちをしたいとは思わない。だから、嫌々ながら――立葵はその場所に留まることを諦めて、校舎の中へと足を運んでいった。
そうしたら、六花真代が立っていた。
いつもだったら、挨拶くらいは交わす。おはよう、とかそのくらいのこと。ほんの些細で、取るに足らなくて、誰でもできるようなこと。
するべきなのだ、と立葵は思う。
状況は昨日今日で急に変わったわけじゃない。きっと自分が気が付いていないだけで、真代に対する仕打ちは以前から教室に存在していた。
そして自分は、これまで彼女に対してそれなりの態度を取りながらも、少なくとも同じくいじめの標的とされることはなかったわけだから――だから、理屈で言えば、今まで通りで、構わないはずなのだ。
これ以上前進するのはともかく、後退する必要はないはずなのだ。
しかし、それでもやはり、気が引けてしまうのは――、
「あ、古河くん……」
そうして立っていると、やがて真代が気付いて、向こうから声をかけてきた。
「おはよう。あ、ちょっと濡れてるね。雨、結構降り始めちゃったもんね……」
そう言って、どこか困ったように彼女は笑う。
俺は、と立葵は彼女に見えないように、背中で拳を握った。
どうしてこんなに、情けないんだろう。
「うん」
それだけ短く答えて、立葵は靴を脱いだ。
自分の下駄箱にそれを突っ込んで、代わりに上履きを取って、床に投げだす。それに足を入れて、もうそのまま教室まで早足で進んでしまおう……そう思ったときに、気が付いた。
「…………行かないの。遅刻になるけど」
真代がその場から、まるで動きもしないということに。
立葵が来るよりも先にこの昇降口に辿り着いていたはずの彼女は、しかし上履きを取り出すことすらしないまま、ただ下駄箱の前に佇んで、立葵の背中を見送ろうとしていた。
まさか、と思うことがあった。
「六花、上履き――」
「わ、」
立葵が言いかけたのを、真代が遮った。
「忘れてきちゃって。家に……」
もちろん、それが真実ではないことは簡単にわかって。
けれど、立葵は――、
「……そう」
馬鹿馬鹿しい、と思う。
上履きを隠したり、捨てたり……そんなことが楽しいなんて、ひとつも思わない。漫画やドラマでそんなシーンを見るたびに、立葵はずっと不思議で仕方がなかった。
どうしてわざわざ、人を傷つけようとしたりするんだろう。
そんなことで、一体何の幸せが得られるというんだろう?
明らかに「正しくない」とわかっている方向に、なぜ進んでいってしまうんだろう――。
「スリッパ、職員室で借りられるよ」
「あ、そう、なんだ……。ありがとう。行ってみるね」
「……別に」
そして同時に、こうも思う。
それなら……この場で明らかに「正しくない」選択肢を取っている、自分も。
同じくらい、馬鹿馬鹿しくて、不思議で、どうしようもないやつなんじゃないか……。
真代の顔をこれ以上見ていたくなくて、視線を外した。背中を向けて、これ以上は何もしない、という意思を見せたつもりだった。
それでも、一瞬だけ。
職員室へと向かうはずの彼女が、どんな姿でいるのか気になって……立葵はほんの少しだけ、振り返ってしまった。
廊下の真ん中で、真代が倒れているのが目に入った。




