2-4 奇妙
びくり、と真代の肩が震えたのを、階は見た。
玄関の扉の開く音。
この家――六花家に入ってくるとき、確かにその錠を閉めたはずだから、入ってきたのは合鍵を持った人物のはずである。
だから、階はこう推測した。
真代の家族が、帰ってきたのだと。
「挨拶に――」
驚かれるだろうことは、何となく予想していた。
小学生に連れられて大学生が家に上がり込む、というのはあまり一般的な出来事ではないように思う。自分と目の前の真代を繋ぐためには、少なくともひとつ――それぞれの姉弟という点を経由しなければならない。その関係の遠さが、自分をこの家にとっての異物足らしめるだろうと、階はわかっていた。
だから、いきなり家の中で見つかってしまうよりは、こちらから挨拶に出向いた方がいいだろうと、そう思ったのだ。
しかし。
「あ、あの……」
小さな声で囁くようにして、真代は階の服の裾を引いていた。
「ん?」
「こ、こっちに、別の出口が……。あの、家に上げること、知らせてなくて……」
それならなおさらなんじゃないか、と最初には思った。
伝えていないというなら、かえって逃げ出すような真似をするのは不誠実なのではないか。別にやましい目的で来たわけではない。真正面から向かっていって、ここにいる理由を説明すべきなのではないか――。
そう考えていたら、気が付いた。
真代の手が震えている。
ひょっとすると、という予感も、同時に芽生えることになった。
階もこれまでの二十年弱の人生の中で、いくつか気付くことがあった。
自分は随分、良好な家庭環境の中にいるということに。
虐待、あるいは両親との不和。そうしたものは何も特殊ではなく、多くの家庭の中にありふれて存在しているものなのだと……友人知人との交流の中で気が付いていた。
ひょっとすると、と思うのだ。
彼女は自分が考えている以上に、ここに自分を招き入れたことを家族に知らせるのを怖がっているのかもしれないと。自分の基準――単に「友達来てるから」「ああ、そうか」で済むなんて、そんな軽さでは捉えていないのかもしれないと。
けれど、彼女の提案には、従えそうにもなかった。
「でも、外に車停めちゃってるから。向こうも俺がいることはわかってると思うよ」「あ……」
指摘すると、そこまでは考えが及んでいなかったらしい。真代はぴたり、と動きを止めた。
自分の心配が的外れならいいけれど、と思いながら、階は真代を安心させようと笑って、
「まあ、なんとか説明してみるよ。怒られないようにさ」
「あ、の。でも……」
「中にいるのは誰だぁ!!」
階はぎょっと目を丸くしたし、真代は肩を縮めた。
とても家の中で出す声ではないと思った――少なくとも階は、家の中でこの種の攻撃的な声が発される場面に、今まで遭遇したことがなかった。
知らない人間が家に上がっていることを考えれば、そのくらいの反応はしかるべきものなのか……考えてもどうせ栓のないことで、だからとにかく階は、一刻も早く事情を説明しなければならないと、その場から声のした方へと飛び出した。
待って、と真代が口にした声は、「出てこい!!」という再びの怒号によって、かき消されてしまう。
「すみません」
声の主の姿を視界に収めるや、そう言って階は頭を下げた。
いくつもある和室――その障子や襖の開け放たれて、少し遠いところ、別の部屋にその人物は立っていた。
男だった。
フレームの太い黒縁の眼鏡をかけていて、顔の印象はおおむねそれに吸収されている。針金のように痩せていて、年の頃は中年から初老――源隆よりもやや上のように見えた。
「お邪魔しています。僕は――」
祭世さんの友達で、と続けるつもりだった。
しかしそれが続けられない。男は階の姿を認めたその瞬間から、ずんずんと大股で近づいてきて、何の躊躇いもなく階の襟首を掴み上げたからだ。
身長は、階の方がやや高い。
そして体格も、この痩せぎすの男よりかは階の方が、ずっと。
けれど男のその迷いない動きは、彼の態度を如実に示すもので――
「出て行けぇえええ!!」
凄まじい声量だった。
至近距離での絶叫。耳がきんとなる。それに眉をしかめながら、しかし同時、階はその男の瞳も視界の中に捉えている。
ぞっとした――まともな目には、とても見えなかったからだ。
自分を睨みつけているはずなのに――その瞳は焦点が合わず、どこの世界も映していないように見えたのだ。
男はそのまま、掴み上げた階の身体を振り回そうとした。その動きに何の感情的抑制も感じられない。階がもう少し目の前の驚愕から立ち直るのが遅かったら、無数にある家の柱の角に後頭部を思い切りぶつけられ、血の一つでも流していただろうと思われた。
仕方なく、階は男の手首を取った。
男の力はさほど強くない。だから、力さえ正しく込めれば、抜け出すのは難しいことではなかった。
「わかりました。出て行きますから」
刺激しないように、階は男にそう語り掛ける。
男は据わった目で、いまだにこちらを見ていた。
これはまともな、理性ある人物なのだろうか?
階はそんな風に思わずにはいられなかった。だってこれではあまりに――。
視界の端、男の背後に、申し訳なさそうに俯いている真代が小さく目に入る。
言い訳しても逆効果だろう……そう階は思ったから、大人しくその場を後にすることにした。
そうするほか、なかった。
奇妙な後味を残して――階は、かつての片恋相手の家を、去っていった。
゜。゜。゜。゜。
「ごめんね」という英梨花の言葉には、「いいよ」という短い言葉でもって返した。
英梨花の部屋から源隆が出て行ったのを見届けた後……再び、朱里は英梨花の部屋を訪れた。
訊きたかったのは、もちろん何を話されたのか、ということ。
けれど英梨花はどうしても話したくない様子だったから――無理に詮索を続けることもなく、一旦は家へと帰ることに決めたのだ。
彼女の様子は、明らかにおかしかった。
いつもへらへらしている彼女の顔から、笑みの色は完全に消えていた。そしてその代わりに現れたのは、深刻そうな、沈痛な顔。
何か、重たいことがあった。
それは、わかったけれど。
「話したくないなら、無理にはいいって」
「うん……。ありがと」
時には、そっとしておかれたいときもある。
ちゃんと反抗期を通ってきた朱里は、そのことをわかっていたから。
また連絡して、と伝えるだけで、英梨花の部屋を後にすることにした。
女子寮の廊下には、またも人影は見当たらなかった。
人の気配がない、というわけではない。わざわざ廊下に出てくる人間が少ない、ということだ。活発な生徒たちはすでに外へ繰り出していてもおかしくない時間だし、そうしない生徒たちは、ただ部屋の中に籠り続けているだけだから。
そのときふと――目に留まったものがあった。
廊下にある、大きな鏡。
そうだ、とそれで思い出す。
朝から警察が来たおかげですっかり忘れてしまっていたけれど、これだって十分奇妙な出来事だったはずじゃないか、と。
試しに近づいてみた。
やはり、自分の姿は映らない。
いったいこれはどういうことなのだろう?
一過性のものなのか、それともずっと続いてしまうものなのか――後者だったとしたら、非常に困る。だって、それじゃあ朝の身支度はどうやって整えればいい?
そもそも、こんな非現実的なことがありうるのか――。
ついさっきまでは、ふたりだったから。
能天気な英梨花とともにいたから無視できていた理不尽な不可思議が、今は恐怖を伴いつつある。
誰に相談してみればいいだろう。再びそのことを考えた。こういうとき、母がいればもちろん真っ先に彼女に相談することを選ぶが、今は家を留守にしていて――、待てよ。本当にただの留守なのか。自分の今のこの不可思議な状態と、母の不在は、何も関係のないことなのか?
「…………いや、いやいや」
頭を振って、その考えを払いのけようとした。
心霊写真と同じだ、と思う。奇妙な出来事がいくつかある……それを勝手に繋げて、さらに奇妙なものへと仕立てあげようとしている。
そんなわけがない。
考え過ぎだ。
案外、こんなものは何か、簡単なトリックがあるだけなのだ。
そう思って――あるいはそう思い込もうとして。
確かめようと、朱里は鏡に手を伸ばした。
指先が触れれば魔法が解けるはずと信じてでもいるかのように――純粋な気持ちで、そっと。
「え――――」
そして、その指が鏡の中に沈み込んでいくのを、見た。
慌てて朱里は、その指を離した。
庇うように、その指を胸の前に抱えて。
その姿は、今はちゃんと、鏡の中に映っていた。
ただし、それと同じくらい奇妙な光景――ついさっきの一瞬を朱里の脳裏に、記憶として残して。
廊下には誰の姿もなく、静けさだけが漂っている。




