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2-3 どんな人でしたか



 よければ上がっていきませんか、とは真代が口にした言葉である。


 実際には、自分より随分年上の、大して面識もない人間に対して提案を投げかける子どもがみなそうであるように、もう少したどたどしい口調ではあったが――とにかく、真代は階に、そう提案した。


「お姉ちゃんの部屋とか、あの、よければ……」

 すでに車は彼女の家の前につけている。しかしそれでも、シートベルトも外さないまま真代はそう言った。


 少しだけ、階は悩んだ。

 時計を見る。まだ立葵を迎えに行く時間までには余裕がある。そして思い返す。真代が言っていたこと。今日は、家の人は早くに出てしまうから、自分ひとりで留守番だ……と言っていたこと。


 子どもしかいない家に上がり込むのは、という遠慮は、死んだ同級生との記憶が塗り潰してしまった。


「じゃあ、少しだけお邪魔させてもらおうかな」


 そう言えば、大袈裟なくらいに真代は頷いて、早速車を降りた。先導するように、家の方へと歩いていく。階も車の鍵を閉めてから、その細い背中を追いかけた。


 六花家は古河家とは異なり平屋で、遥かに敷地面積の広そうな家だった。

 家とは別建ての物置小屋がある。その屋根の下のぽっかりと開いたスペースを見れば、そこが車庫として使われているだろうことは明らかで、また、それを除いたとしても砂利を敷いた庭先は自動車七、八台は停められそうなスペースがある。いくらでも敷地の中で切り返しのできそうな広さだった。


 かちゃり、と真代が古びた鍵で家の玄関を開ける。階もそれに続く。真代の小さなそれの他に靴は見当たらず、やけに上がり框の背が高い家の中へと、階は脱いだ靴を揃えて入っていった。


 おおむね和室で構成されている様子だった。そして各部屋の仕切りとなるべき障子や襖はほとんどすべてが開け放たれ、視界の中に映る畳が一体いくつあるのか、咄嗟に数えることすらできない。


 真代は廊下を規則的に歩くことをせず、ただ目的の場所に向かうためだけに、各部屋の真ん中を突っ切って歩いた。台所のような居住空間まで進んだときには流石に階も二の足を踏みかけたが、しかし彼女が振り返りもせずに歩いていくので、結局それほど悩む時間も持てずに、そのまま歩いていくことになった。


「ここ、です」


 そう言って真代が立ち止まった部屋も、やはり教えてもらえなければ、他の部屋と何が違うのか、階にはわからなかったはずである。強いて言うならば、その部屋だけが、すべて……壁を除いた残りの二辺の襖を閉ざされて、封をされていた。そのことくらいが、かろうじての手がかりだった。


 中は、ひどいくらいに殺風景だった。

 布団がある。それからローテーブルと、マットの敷かれた上に佇む簡素なデスクがある。どれもこれといった色はついていない。それほど値打ちものとも思われない。あらゆるアクセサリーやインテリアはそこになく、本ですら……高校時代に使っていたはずの教科書すら、残っていなかった。


 すでにそこに、生活の気配は見当たらなかった。


「色々もう、処分しちゃったのかな」

「はい……。あ、でも。部屋自体は、もともとこんな感じで……」


 そうなんだ、と階は笑った。


「あいつ、『ごちゃごちゃしたのは嫌い』ってたまに言ってたし……。そっか。そんなもんか」


 見るべきものは、決して多くない。

 この部屋のかつての持ち主と、何のゆかりもない人間がここを訪れたとしたら、きっと数秒も留まらずに、立ち去ってしまう。


 けれど、階は。

 失われたものを懐かしむように……それを見つめていた。


「お姉ちゃんって、どんな人でしたか」

 真代が、静かに問いかけた。


「私、お姉ちゃんが外でどんな人だったのか、何も知らなくて……」


 ああ、と階は頷いた。

 こう言っちゃなんだけど、と前置きして、


「友達、あんまり多いやつじゃなかったからな。あの感じだから有名人ではあったけど、……俺以外に、誰かいたのかな。俺もちょっと、そのへんはよく知らないや」

「あの感じって、どんな……」

「家だと違ったのかな。なんていうか、人の言うこととか全然聞いてない感じ。王様っぽいっていうか。カリスマ……とも違うし、自己中心的、とかもしっくりこないけど」


 わかるかな、と階は苦笑いしながら訊ねる。

 なんとなく、と真代は頷いて、


「それじゃあ、あの、古河さんはどうして……」

 仲良くなったんですか、と続くものだと、階は思って、


「仲良くなった……って、俺が勝手に思ってるのは高校からかな。あのころ俺、美術部に入ってて……」


 そうして階は真代に伝える。

 そのころどういうわけか、自分たちの通っていた高校の美術部には、本当に人がいなかったということ。


 自分が入ったときにはすでに美大志望の三年生一人しか在籍しておらず、またその人も、夏の明ける頃にはもう諦めて、すっかり美術室は自分一人が使うものになっていた、ということ。


「絵、上手なんですか」

 真代の素朴な問いに、階は「どうなんだろう」と気負うでもなく答えた。


「美大受験はして、一次は受かったんだけど、二次で落ちた。それで、別の大学に後期試験で……って、このへんの話、小学生じゃ全然わかんないか。そこまで下手でもないと思うけど、自分じゃよくわかんないな。……あいつの似顔絵とか書いたこともあるけど、全然感想とか言わなかったし」


 そうなんですね、と真代は頷いた。

「古河くん……えっと、立葵、くんも、図工得意みたいだから……」


 あいつは器用だから、と階は笑って、身内への褒め言葉を受け取った。


 それで、と話の続きが始まっていく。

「あいつ……祭世が、急に美術室に居座るようになっちゃってさ」

 と。


「急にガラガラって入ってきて、それでずっと放課後、そこにいるんだよ。『美術部に入りたいのか』って訊くと、『そんなわけない』とかそんなことしか言わないし。……結局、最後までなんであそこに来てたのかは、わからなかったけど」

「あ、それなら……」


 たぶん、と言いにくそうに、真代は、


「家に、帰りたくなかったから……なんじゃ、ないかと、思います」


 少しだけ、驚いたように階は目を見張った。

 しかしそれを目の前の小さな子どもに悟らせないように、すぐさま表情の下へと押し込める。


「そっか。それじゃあ、確かにちょうどよかったのかもな。図書室とか教室とか、自習してるやつがいるところよりか全然人はいないし。……俺も、全然文句言わなかったし」

「それで、仲良くなったんですか?」

「まあ、一応は」


 俺が一方的にそう思ってただけかもしれないけど、と階は前置きをして、


「でも、学校の同級生の中では、俺が一番あいつと喋ってたと思うよ。……一年の冬くらいからは、結構あっちも話しかけてきてくれるようになったし。クラスが違ったから、忘れた教科書の貸し借りとか……ジャージはサイズが全然違うから、あいつが借りるだけだったな」


 懐かしいな、と記憶を巡りながら。

 段々と、心は悲しみに濡れ始めて。


「あのさ、こんなこと、あんまり訊かない方がいいのかもしれないんだけど……」


 最初に、彼女の死を真代に伝えられたときから。

 ずっと、気になっていたことを。


「祭世ってさ、」


 彼は。


「なんで、死んだの?」


 訊いた。


 それから、たっぷりの沈黙が部屋の中に降りた。

 長く、長く。

 冬の朝露のように濡れたそれは、これから真代が口にしようとする言葉に相応しいだけの静寂を伴っていた。




「自殺、です」


 その言葉すらも、沈黙の名残のように思えるほどに。





 そっか、と溢すのが精一杯だった。

 まだ、階は真代の言葉を受け止め切れていなかったから。


 六花祭世の自殺。

 階の心の中にあるのは、彼女はその方法は取らないだろうという否定と、彼女が死ぬのであればその死に方しかありえないという肯定の、相反する二種の考え。


 あの自我のいかにも強かった彼女が、自ら命を絶つというのは考えづらい。

 そして同時に、彼女の命を奪うものがこの世に存在していたとしたら、それは彼女の意志の他には何もないように思える。


 なんにせよ……もう少し、時間が必要だった。

 自分の中で、その出来事を消化するための、思考の時間が。


 それから、もう一つ。

 この小さな、彼女の妹に、話を聞くための時間が。


 高校を卒業した後の六花祭世がどのようにそれからの時間を過ごしていたのか……それを訊ねて、記憶の中の彼女と、自ら命を絶ったという彼女の間にある溝を埋める、その作業を行うための時間。


 まだもう少し、立葵を図書館に迎えに行く約束までには余裕があるから。

 よければ、と申し出るつもりだった。


 よければ、君の知っている祭世のことを教えてはくれないか――そう、願い出るつもりだった。


 そのための言葉が階の口から出てこなかったのは、それよりも先に事態が動いたから。




 がらり、と玄関戸の開く音がした。





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