2-2 迎えに行くよ
娘の顔を見て「おわ、」とは失礼な。
「なんだお前、知り合いだったのか」
「普通に友達だけど」
「それにしたって、こんな朝っぱらから……」
ひょっとして、と思ったのだ。
このあたりで警察が来るとなったら、父である可能性はなくもない。だから朱里はひそひそとクローゼットから出て、ドアスコープから部屋の前にいる人間を確かめた。
そして、予想はぴったりと当たったのである。
「お父さん?」
朱里の背中にぴったりと張り付いた英梨花が訊く。二人の身長は同じくらいだから、それではまるで姿を隠せていないけれど。
「うん」
安心させるように、朱里は振り向いて言った。
「大丈夫だよ。顔怖いけど」
「よく見るとちょっと似てるね。目元とか」
「おい」
その流れでその感想はおかしいだろ、とこめかみのあたりに拳を当てれば、ようやく英梨花も、緊張が少しほぐれたように笑った。
「んで、何」
朱里が、英梨花に代わって訊く。開いたドアの向こう、廊下にいまだ立たされていた源隆を、とりあえず入り口のところまで招きこんで。
「何の疑い?」
「いや、お前……ちょっと外出てろ」やりづらそうな顔で源隆が言うのに、
「でもこの子、昨日の夜ずっとここにいたよ。私泊まってたから知ってるし」
それに、と朱里は付け加える。
「ここ、昼間はともかく夜中の警備すごいから。外出ようとしたら警報鳴って警備員の人飛んでくるもん。で、昼は普通に学校にいたし。アリバイ完璧」
うんうん、と英梨花は後ろで激しく頷いている。
が、源隆はひとつ溜息を吐いて、
「別に、そっちの佐倉さんが何かしたってわけじゃない。むしろ……」
「むしろ?」
「……やっぱお前、ちょっと外出ててくれ。人に聞かせていい話じゃない」
ちら、と朱里は英梨花を見た。
すると不安そうな顔で彼女は、
「あの、朱里ちゃんがいてくれた方が安心するんですけど……」
「だってさ」
源隆は少しだけ悩むそぶりを見せた後で、
「……わかった。それじゃ、こっちも譲歩しよう」
渋々ながら、そう言った。
「朱里、ちょっと外に出てくれ」
「全然譲歩してないじゃん」不満を口にすれば、
「違う。最初のところだけは、どうしてもひとりで聞いてもらう。……それでもし、佐倉さんがその先をお前と一緒に聞いていいって言うんだったら、ちゃんと呼ぶ。それならいいだろ?」
思いのほか大胆な譲歩に、かえって朱里の方が驚いた。
そして同時に察する。父がいま自分の同席を拒んでいるのは、単に警察の規則であるとか、そうしたことのためではないらしいことに。
慮っているようだった。
たぶんこれから英梨花に話されることは、彼女自身が「朱里には聞かせたくないこと」と認識しうる……そういう類の話らしい。父はそのことを気にして、自分を部屋から追い出そうとしている。
そのことがわかったから、朱里もそれ以上は食い下がらなかった。
「大丈夫?」
と英梨花に訊ねる。
「……割とすぐ呼ぶかも」
そう、彼女は不安そうに答えた。
とりあえずはそういうことになって、ふたりを部屋に残して、朱里は外に出ていった。
すると近くの部屋の扉が二つ三つほど開いて、様子を窺ってくる。
時間はもう日中。すでに外部の生徒の立ち入りも許可されている時間帯だから、朱里はそれにもさして動揺することなく、簡単に挨拶して応える。その妙に堂々とした姿を見て興味をなくしたのか、あるいは詮索する気持ちが萎えたのか、向こうも気の抜けたような挨拶だけを返して、部屋の中へと戻っていった。
女子寮二階の廊下には、大きな時計がかかっている。
その秒針の刻む音に耳を澄ましながら――朱里は英梨花が、自分を呼びつけてくるのを待っていた。
けれど結局、英梨花が彼女を呼ぶよりも、全ての用事を終えた源隆が部屋から出てくる方が、先のことになる。
゜。゜。゜。゜。
立葵がこの冬の日の昼前に再び家にひとりで戻ってくるまでには、少しだけ複雑な経路が存在していた。
まずは朝――まだ少し空も暗く、電気を点けてからではないと動きづらいような時間帯。すでに起きてきていた兄と、リビングで会った。
ピザトーストを焼いてもらって、それをココアと一緒に摂って、歯を磨いて……そこで、兄が言った。
「俺、今から六花さんの家に行くんだけど」
ああ、と立葵は頷いた。
昨日の時点で、話は聞いていた。学校から家まで、兄が六花真代を送り届けたとき――彼女の姉である六花祭世が死んだということを、兄が知ったとき。
墓参りに行ってもいいかな、と兄は言って。
もちろんです、と真代は答えたのだ。
簡単な約束を取り付けたのも見ていた。朝九時ごろなら、と真代が言ったこと。それじゃあそのくらいの時間に、と兄が応えたこと。
だからこの兄の言葉は、特段突飛なものではなかったけれど、
「でも、あれだよな。昨日の不審者」
そう、兄は心配そうに言った。
「父さんも流石に二泊はしてこないだろうと思ったんだけど、まだ帰ってきてないみたいだし……。朱里もいないし。立葵ひとりってわけにもいかないから、」
「図書館で下ろしてよ」
だから、先に立葵から、そう伝えた。
「一緒に墓参りに」なんて提案をされるよりも先に……兄の性格なら、自分ひとりを家に残すことはないだろうと思ったから。
先にそうして伝えることで、自分は真代と顔を合わせなくてもいいように、立葵は自分から、提案をした。
「そうか? まあ、知らない人の墓参りにっていうのもあれだもんな。立葵がそれでいいなら、いいけど」
「いいよ。ちょうど借りたい本もあったし」
「昼ごろには迎えに行くよ」
「うん」
いまだにショックを受け続けていたのだ。
自分の知らないところで、学校にいじめがあった。しかもそれが、六花真代に向けられていた。
そして自分は……それに対して堂々と正面から「やめろよ」と言えるようなタイプではない。そのことを、自覚してしまって。
たとえば月曜日に学校に行ったとして、おそらく自分は、何も変わらない生活を続けるのではないかと立葵は思う。普通に、土日に何をして遊んだかとか、最近読んだ漫画がどうだとか、そんな話をして。中休みには適当にドッジボールに混ざって、ハヤブサや三重跳びの練習をして……。
そして何も、言うことはない。
六花さんがいじめられています、だとか。そんなことは言わない。
いじめとかつまんないしやめたら?とか。そんなことも、言えない。
今の「それなりに居心地の良い学校生活」を捨ててまで……人のために動くことはできそうにない。そのことが自分でわかってしまって。
そんな格好悪い、小狡い自分が嫌で……しばらく、真代の顔をまっすぐ見つめられそうになかった。
兄は要求を呑んでくれた。ついでに、それほど遠い距離にあるわけではない図書館まで、車で送り届けてくれた。入口で下ろしてもらって、中に入って、本を読んで時間を潰していた。
ヤングアダルトの棚から適当な本を抜き出して読んで……百ページほど進んで、話が学校での人間関係に差し掛かってしまったところで、集中が切れて。
そしてふと立葵は、思い出した。正確に言うなら、思い出せなかった。
ベッドに敷いた電気毛布の電源を、消したかどうか。
大過ないはずである。
点けっぱなしにして母に怒られたことが何度かある。が、そのどれも電気代が少し嵩むとかそういう内容だけで、火事になるとか、そんなことは言われなかった。そう、記憶している。
けれど、ちょうど落ち込んでいたときだから、不安になった。
不安になって、家まで立葵は戻ることにした。
歩いて十五分……それほどの距離ではない。時間も時間だから、兄が迎えに来るまでには図書館に戻ることができる。何の心配もない。
そうした複雑な経路を辿って、立葵は自分の家……誰もいない家に、ひとりで戻ってきた。
「……切ってあんじゃん」
心配して損した、とばかりに立葵は自分の部屋で、そう零した。
これなら戻ってくる必要もなかったな――結果論ながらそういう風に、ここまでの道のりを残念に思う。さっさと図書館に戻ろう。そして本の続きを……いや、別の本を読むことにしよう。そう思って、階段を降りていく。
リビングから声が聞こえてきた。
一瞬、びくりと立葵の肩が震えた。
男の声だった。そして自分を安心させるために、こう考える。父だろうか。
そうっとリビングの扉を開いて、中を窺った。
きっとそうだ、と自分に言い聞かせて、僅かばかりの隙間を開いて、覗き込んだ。
父ではなかった。
が、それ以外の人間でもなかった。
それはただのテレビの音だった――美術特集? そんな言葉が画面に表示されているのが見える。自分や姉の趣味ではない。そして父や母のものでも。犯人がいるとしたら、中高と美術部に入っていた兄に間違いない。
そして、そうなるだけの流れも、立葵には理解できた。
父が同じことをよくやるのだ。あのテレビは録画予約と視聴予約のボタンの位置がすごく近い。だから、録画していたつもりの番組が突然流れ出して、リビングにいる人間をびっくりさせたり、あるいは朝起き出した時点でなぜだかテレビが点いていたり、なんてことがたまにある。
家を出る前にテレビは消したはずだから……きっと、兄がそうして間違えたのだろうと、そう思って。
可哀想だから、今からでも録画に切り替えてやろうと、そう思って。
中に入ろうと、リビングのドアを大きく開け放とうとした瞬間に、気が付けた。
窓の外に、男が立っていた。
四十絡みだろう、父とそう年齢に差はなさそうな、短く傷んだ髪の男だった。作業着のようなものを着ている。そしてその服は泥か、あるいはそれ以外のもので汚れている。
よく見れば口元に白い傷があるようにも見えたが、それすら誤魔化すような汚れも顔にそのままで、じっと。
微動だにせず、じっと、リビングの中を覗きこんでいた。
ひ、と声が洩れ出そうになるのを止める。
割ろうと思えば、向こうはガラスを叩き割って家の中に入ってくることだってできるのだから。
立葵は息を殺した――中に自分がいるのが、バレてしまわないように。ひょっとするとこちらから姿を現した方がよかったのかもしれないけれど、しかし、そうする勇気も、根拠もなかったから。
空き巣?
いや違う、となぜだか確信していた。
だって、あの顔は。
昨日の夜、玄関にいた……。
やがて男は、ふいと顔を背けて、そこから立ち去っていった。
立葵はその後も動くことができず……源隆が帰宅してくるまで、今起こったことのストレスにただ懸命に対処して、荒い息を吐き続けていた。
テレビの電源は消されないまま、美術特集が終わる。
その次のニュース番組では、この街で見つかった「六十六本の手首」についての報道が流れていた。




