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2-1 墓



 教えてもらうことがなかったら、何の変哲もない石くれにしか見えなかっただろう。


 冬の朝。

 吐く息全てが白く凍るような日に、階はその前に屈みこんで、手を合わせていた。森の中。車では入り込むこともできず、通りがかってもその存在に気付けるかも怪しい、細い獣道。

 その先にある、少し盛り上がった土。それにその身を埋めるような形で置かれていた、大ぶりの石。


 それが、六花祭世――かつての同級生の墓であると、その妹から聞くことがなければ。

 階は一生、ここに辿り着かなかっただろう。


 閉じていた瞼を開く。

 石くれの傍に立てた四本の線香が、頭を白くして、仄かな熱気を放っていた。


「ごめん。待たせちゃったな」

 立ち上がって、階は言う。その後ろに立っていた、彼女の妹――六花真代に向けて。


「いえ、あの。私も、最近あんまり来る機会がなかったので……ちょうど、よかったです」

「まあ、ここだとちょっと、君の家からは遠いもんな」


 階は辺りを見回す。

 どうも、墓らしい墓は他には見当たらない。真代に言われるがままの道を車で辿っていたときはてっきりどこか遠くの寺にでも向かっているのかと思ったが、結局、着いてみればどことも知れない、人気のない森の中だった。


「変わった場所だね」

「あ、そう、ですね。あの、うち、その、家がお墓とか立てないようにって……」

「え」


 少しの驚きとともに訊き返せば、恥じ入るように真代は下を向いた。


 階は、地面に置いた線香の束……自分の分と真代の分で、たったの四本を使ったに過ぎない、余りのそれを手に持って、


「それじゃ、線香はやめておいた方がよかったかな。これってたぶん、仏教だし……」


 数秒経ってから、「あ、いえ、」と真代は顔を上げて言う。


「だ、大丈夫です。それは。その、お姉ちゃんも……喜んでると、思います」

「そうかな」

 階は、少しだけ笑って、

「だといいんだけど」


 寒いから戻ろうか、と階から言い出した。冬の朝は空ばかりが青く、太陽の光は淡い。踏む土の下の霜柱をさくさくと崩しながら、森の入口に停めた車の中へ、二人で戻っていく。


「お」

「え」

「ああいや、なんでも」

 助手席に座った真代を見て、階は少しだけ声を上げてしまう。古河家の子どもたちは大体、二人だけだったとしても助手席ではなく後部座席に陣取る傾向がある。だからその動きが新鮮で、思わず。


 エンジンをかける。

 暖房が点いて、ラジオの音楽が流れ出す。FM。土曜の休日の朝。ゆったりとした声で。


「あの、もしかして、なんですけど……」

 控えめに、真代が切り出した。そのラジオの音声に負けてしまいかねない、か細い声で。


「ん?」

「古河さんって、お姉ちゃんの、恋人だったんですか」


 階の目が、大きく見開く。

 運転している途中だから、視線こそ前方から外さないものの……もしそうできたなら、真代の顔をまじまじと見つめただろうと、わかるような驚きを湛えて。


 しかし、その張り詰めた表情も、一瞬のうちに崩してしまって、


「……いや、違うよ」

「あ、え、そう、なんですね」

「うん」


 しばらく進んでいった先、ほとんど農道めいた交差点に、ぽつんと信号が立っていた。

 何の役に立つとも思われないそれが、赤く灯っている。車はその手前で停まって、タイヤの音どころか、人の話し声一つ聞こえない……そんな静けさの中でふたりは、冬鳥の微かな鳴き声に耳を澄ましていた。


「ただの、友達だよ」

 やがて、階が付け足した。


 信号が青に変わるよりも少し前の、ほんの一瞬。

 隣に座る真代に向けて、苦笑しながら、彼は。


「フラれたんだ」


 そう、懐かしむような声音で、言った。




゜。゜。゜。゜。




「カガミワタリって言うんだって」

 と、寝起き一番に、佐倉英梨花はそう言った。


「鏡渡り?」

「そうそう。えー、本当?」

「本当だって、ほら」


 学園女子寮。佐倉英梨花の部屋の中。

 あの後――鏡に沈み込む自分の指先を見た後、朱里が部屋に戻ると、すでに英梨花は眠っていた。

 流石にこんな見間違いみたいなことを報告するために起こすのも忍びない――そう思って朱里はとりあえず眠り、そして英梨花よりも先に起き、顔を洗って、目線を上げ、そして事態が昨夜と何ら変わりのないことを確認した。


 つまり、自分は鏡に映らない。

 そのことを、確認した。


「えー、すごいすごい。ほんとだ。えー……」

 朱里が目の前で手鏡を振って、しかしそれに部屋の中のふたりのうち片割れの姿しか映らずにいるのを、英梨花は不思議そうに見ている。


「朱里ちゃん、ヤバいね」

「好きでヤバくなったんじゃないんだけど」

「いやー。でも好きでなりたいと思ってもそうはなれませんよ」


 今度は英梨花がその手鏡を手に取る。朱里とふたりで画角に収まるように調整しながら、しかしそれでもひとりしか映らないのに、おー、と驚きの声を上げている。


「何? その鏡渡り?って。学園七不思議?」

「そっちは別。これはなんだろ……」


 英梨花は、顎に手を当てて、首を傾げて、

「……初代学園長の、武勇伝?」


「何それ」

「いや、私も先輩から聞いただけの話なんだけどさ」


 そう言って、英梨花は語り出す。


「なんかね、最初の学園長って、今の朱里ちゃんみたいな感じだったんだって」

「はあ」

「うん」

「……え、それだけ?」


 そうだけど、と英梨花は頷く。

 そんなわけないでしょ、と朱里は反論する。


「だって、鏡『渡り』なんでしょ? 鏡に映らないっていうのとは何か違うんじゃないの?」

「そんなことわたくしに言われましても……」

 先輩から聞いただけですし、と英梨花は言う。


 そう言われれば、朱里も矛先を収めるほかない。絞って出てくるならまだしも、絞っても何も出てこないなら、そんなことをする意味はない。


 ふうん、と頷きながら、朱里はもう一度、鏡の中に手を入れる。

「……ていうか、英梨花。反応薄くない?」

「いや、すごいびっくりしてるよ。夢かなって思ってるし、実際夢だと思う」


 そんなことあるわけないじゃん、といまだベッドに寝そべったままの英梨花は言う。


 確かに、と朱里自身思わないでもない。寝起きにこんなものを見せられて、はいそうですね異常事態ですね、なんて素直に驚ける人も、案外それ程多くはないのではないか。そんな風に思わないでもないのだ。


 たとえば……と自分で考える。

 いきなり朝起きて、目の前で英梨花が「ねー! 私、鏡に映んなくなっちゃたんだけど!」なんて言っていたら……。


 うん、と頷いた。

 まず間違いなく、マジックか何かだと思うはずだ。指が取れちゃったとか、コインが手のひらを貫通してしまいますだとか、そういうのと同じ系統の。


 しかし、目の前にあるのはどう見ても、自分にとっては現実だった。

 鏡の中に、自分の背後にあるはずの壁が透けている。そしてそれには、種も仕掛けもない。自分が一番、よくわかっている。


「どうしよう」

 途方に暮れて、そう呟いた。


「これ、日常生活に支障を来さない?」

「来しますね」

 朱里の不安を、英梨花は寝ぼけ眼で肯定する。


 鏡に自分が映らない、というのはかなり面倒だと思う。なにせ、自分の顔がどうなっているのか、確認する術がないのだ。社会生活を送っていく上でかなり致命的な弱点となりうる。


「あ、写真は?」英梨花が言い出した。

「え」

「鏡はダメでも、写真なら映るかもしれなくない?」


 どうやら多少、英梨花の頭も動き出してきたらしい。

 鏡はダメで写真なら大丈夫なんて線引きがありうるのか、と朱里は思いながらも、しかし試してみる価値はある、と彼女の提案に乗ることにした。


 携帯のインカメラを起動して、セルフィーを撮る。


 確かにそこに、自分の姿が映っていた。ついでに、その後ろでのんきにピースサインを出している英梨花も。


 ほっと朱里は息を吐いた。当然のことのはずなのに、「助かった」という気持ちが強く出る。「おめでとう」と英梨花に祝福の拍手を送られながら、当面はこれでやり過ごせそうだ、と目途が立つ。


「え、ていうかそれ何? どうやってるの?」

 そしてとうとう、英梨花の頭が完全に起きた。


「いやだから、わかんないって」

「マジックとかじゃないの?」

「違う違う」

「マジのやつ?」

 マジのやつ、と朱里が頷けば、英梨花は絶句して、


「え、どうするの。それ。病院行く? 私もついていこっか?」

「いや、病院って……何科?」

「わかんないけど……」


 英梨花はそう言うが、もちろん朱里だってわかるわけがない。

 どこに相談に行けば……と考えたとき、確かに自分も、病院くらいしか考え付かず、それと同時に「絶対に病院に行ったところで解決するような話ではない」ということもわかっていた。


 どうするの――英梨花の質問は確かに的を射ていて、そして同時に、自分はそれに対する適切な答えを持っていないということを教えられる。


 このまま放っておいて治ったりしてくれないだろうか……そんなことを、英梨花と話しながら朱里が考えていると、


「なんか外、うるさくない?」


 ふと、気が付いた。


 土曜日の朝。

 何度か、英梨花の部屋に来て泊まったことはある。けれど、いつも大抵の場合は、寮生たちはこんなに早い時間に起き出したりはしない。


 それが、なんだか妙に。

 廊下の方から、ざわめきを感じるような。


 英梨花はしかし、目の前の怪奇現象の解明の方に夢中なようで、朱里の言葉から周囲に耳を澄ませることもなく、



「気のせいじゃ、」

 コンコン、と。



 ない、と言い切ることができなかった。

 ふたりの動きが止まる――ノックされたのは、まさにこの部屋だったから。


 もう一度のノックが来るよりも少し先に、ふたりは顔を見合わせる。そして、目と目で語り合う。


 見回りの先生?

 かも。


 こんこん、ともう一度。


「あ、は、はい。いま出まーす」


 そう言いながら、英梨花は朱里にクローゼットの方を指差している。わざとらしくどたばたと音を立てているのは、どう見ても「今のうちに隠れて」のサインだった。


 言われなくても、と朱里はクローゼットを開けて、その中に入り込む。幸い、英梨花はほとんど外出をしないから、服が所狭しということもない。コートが幾枚かかかっているだけのスペースに、容易に身体を滑りこませることができた。


「え……。あの、ちょっと待ってください。服ちょっと、着替えたいので」

 クローゼットの中にいれば、やや外の音は聞こえづらくなる。英梨花がそう言うのは聞こえたけれど、しかし誰が訪ねてきて、何を喋ったのか。そこまでは、朱里の耳に届いてこなかった。


 でも。

 それはなんとなく低い、男の声に聞こえた。


「ど、どうしよ」

 クローゼットががらりと開く。

 耳打ちするような小さな声で、英梨花は言った。


「なに、どしたの」朱里が訊けば、

「いや、全然心当たりないんだけど。私、なんかやっちゃったかな」

「何? 誰が来たの? 教師?」


 ううん、と英梨花は、戸惑った表情のままで、朱里に告げる。



「警察」




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