エピローグ-3(終) 雪が降る、あなたのいない世界では
「冬風が傷に沁みるわあ」
「……それ、本気で言ってるやつ?」
「ううん。冗談」
心臓に悪い冗談はやめてくれ、と芯から階は、母に零した。
家から駅に行く途中の少し値段の高い回転寿司。そこで家族全員の食事を終えたあと、父の「コーヒーが飲みたくなってきたな」という言葉をきっかけにして停まったコンビニエンスストア。
地方都市に特有の、異様にだだっ広い駐車場――どう考えてもその駐車台数が埋まったとき、店内にその人数を捌けるだけの店員は存在していないだろうと思わせるような場所で、階と母は、店内に入っていった源隆、朱里、立葵の三人を待っていた。
アスファルトは冗談のように冷たい。
が、母が車の外に出て行ったのに釣られて階も一緒に外に出て、今にも降り出しそうな冬色の曇り空を、コートのポケットに手を入れたまま、眺めていた。
一月十日、日曜日。
結局、試験期間の直前まで、階は実家に留まっていた。
今日はその階が東京に帰るために、源隆が駅まで車を出してくれている。母と妹と弟は、ついでだからどこかで昼飯でも食べよう、という提案の下、ここまで一緒になって連れ出されていた。
「本当に、その傷大丈夫?」
気遣うように、階が言った。
「退院したばっかりなんだからさ……」
「全然、平気平気。このくらいのことでお母さんだけ最後寝てたのが悔しいくらい」
「いや、いらないからその負けん気……」
なんで現役刑事の父よりも薬局勤務の母親の方が危なっかしいんだ、と改めて階は思う。
すべてが終わった後にずたぼろの姿になっていた家族を全員纏めて叱りつけていた父の姿が思い浮かぶ。朱里が「私はちゃんと安全に気を遣ってたから無傷だし」「だいたい、めちゃくちゃ役に立ったでしょ」と口答えをして「お前はいつも結果論だ」と倍怒られていたのも、一緒になって。
母も、相当絞られたはずなのだけど。
「お母さん、身体鍛えようかな。お父さんと同じとはいかなくても、階くらいには」
「やめてくれ、本当に……」
「えー? でも、なんだかお母さんだけ消化不良で終わっちゃったからなあ……」
「いや、そもそも母さんがいなかったら俺たち何も知らないままで、何もできなかったんだから。それだけで十分だって……」
そうかなあ、となおも弥生は、不満げな顔。
勘弁してくれよ、と階は冬風に首を竦めた。
「階も、もう手、大丈夫?」
一転、気遣うような口調で。
「右手とか、特に。法学部の試験って結構書き物多いんじゃないの?」
「まあ、別に骨に罅とか入ってたわけじゃないし……。刺されたのが利き手だったらしんどかっただろうけど、こっちは殴って痛めただけだから」
そう言いながら、朱里に散々文句を言われたのを思い出す。「私が殴るはずだった」とかなんとか。一方で立葵はしばらくの間、その手の包帯を見るたびに「責任を痛感しています」と顔に書いてあるような表情になって……態度こそかけ離れていながら、ふたりともよく、完治までの生活のサポートをしてくれたけれど。
「単位、落としても気にしなくていいからね。今回は」
「いや、落としても普通に三年で回収すればいいから。そっちこそあんまり気にしなくていいよ」
「あ、そうなの?」
「そう。うち、卒業までに帳尻合えばオッケーだから」
便利ねえ、と弥生は言った。
俺もそう思う、と階は答えた。
そして、ふと。
「……父さんたち、遅いな」
「中で喧嘩でもしてるんじゃない?」
「いや、流石にそんなことはないだろ……」
外から中の様子を覗きこむ。
……確かに、母の言うとおり、父と妹が口論しているように見えなくもなかった。それをよそに弟が別の棚の前に立っている姿も。
見なかったことにした。
見たとしても、「調子が戻ってきたみたいだな」と好意的に捉えることにした。
しばらくは戻ってこないらしい、とわかったので。
「……あのさ、」
階は、自分と母親のふたりだけの時間だと気が付いて。
「母さんって、いつから?」
ずっと訊こうと思っていたそのことを、口にした。
「…………」
「たぶん、俺、気付いてるんだけど」
入院中に、言おうかと思ったこともあった。
けれど、ただでさえ弱っているときにそんな言葉をかけるのも……そう思ったから、ここまで取ってきておいた。
いつから。
「母さんって、この世界の人じゃないよな。
――――いつから、こっちの世界に来てたの?」
母は隣で、静かに目を閉じた。
そして、落ち着いた口調で、応え始める。
「……逆に、階はいつから、そう思ってたの?」
「いつ、ってほどはっきりしたものがあるわけじゃないんだけど……」
階も、ぽつりぽつりと語り出す。
「そもそも、この世界が滅ぶとかさ、カガミワタリが使えないとわからないわけだろ?」
「刺された後に、不安になって調べたのかも」
「それも考えたけど……普通、実物を見ないとそんなの、信じないだろ」
「……それで?」
「カガミワタリができるようになるには、周期があるとか、そんな話、してたじゃん」
階は思い出しながら、話している。
蜘蛛の眠りのサイクル。それが浅くなったときに、カガミワタリを使える人間が現れる、ということ。
「あの傷の男がカガミワタリができるようになったのって、つい最近のことだろ。そうじゃないかったら、釈放されてからもっと早くに事件を起こせただろうし」
「私の方が、適性が高かっただけかもしれない」
「確かにそうなんだけど……」
言葉を選ぼうとして、しかし、
「俺には、母さんが最初から全部を知ってて……滅びた世界からこっちの世界に来て、この世界も危なくなったのに気付いたから動き出したように、思える」
滅びた世界の住人は、きっとあの大蜘蛛の目覚めを目にしている。
カガミワタリがその大蜘蛛と関係した力だというなら、その実物を見た母の方が、傷の男よりも力を強く持っていたとしても不思議ではないし、今回起こった出来事のその基本的な条件を知悉していた理由の説明もつく。
それに、何より、
「十年前、重傷だった母さんが突然――」
「階は鋭いけど、探偵には向いてないね」
言葉を遮って、母が言った。
微笑みながら、彼女は、
「いくらでも、言い逃れができちゃう」
「……別に、追い詰めようとしてるわけじゃないから」
ただ、と階は言う。
「もし、誰にも言えなくて、抱え込んだりしてるんだったら……俺だけでもわかってるって、そう、伝えておきたくて」
「……階がそれをわかってくれてると、どうなるの?」
「どう、ってわけでもないけど、ただ……」
横目に、階は店の中を見た。
レジに三人がかりで並ぶ家族たち。朱里が源隆と話していて、その隙に籠の中に何かを入れる立葵の姿。
幸せそうな光景。
「……ひとりよりは楽になるかなって、思ったんだ」
源隆たちが、ドアを開けてコンビニから出てくる。
袋をがさがさとやりながら、三人で何かを押し付け合っている。
結局、源隆の手にそれは渡って、どういうわけか彼は階を見つめながら、まっすぐに近付いてくる。
「階、」
「え、」
何、と驚いて訊き返せば、
「お前、ほら……誕生日、なあなあで済ませちゃっただろ。ほら、色々あったから……」
「ごめんなさいってちゃんと言う……!」
「俺たちはちゃんとおめでとうって言ったから」
後ろからこそこそと話しかけてくる朱里と立葵を、うるさいうるさい、と源隆は手で払って、
「だから、まあこれ。誕生日プレゼント。……仮のな! 試験が終わったら、改めてまた欲しいもの買ってやるから」
ほれ、と袋が突き出されてくる。
階はそれを受け取るより先に、
「なんだよ。別にそんなのよかったのに。もう大学生だし……」
「そんなのってお前、二十歳の誕生日なんだから……」
「父さんは忘れてたけどね」
「ていうかお兄ちゃん、成人式も行ってないし」
「おい、お前ら……、いいから階、ほら、受け取れ」
ん、ともう一度源隆が突き出してくるものだから。
さすがに階も、「ありがとう」とそれを受け取って。
中身を覗き込んだ。
三百円の、アイスクリーム。
「……いや、別に本当にこんなのよかったのにって感じ」
「ほら、だから言ったじゃん! 絶対お酒の方がいいって!」
「ばっかお前、これからこいつ電車に乗って東京に戻るんだからな!」
「煙草ならいいじゃん、って俺言ったのに」
「吸わないだろ、こいつはそういうの……吸わないよな?」
「ああうん。たぶん吸わないと思うけど……」
三人がわいわい騒ぎ始めたのを見ながら、これはまた長くなりそうだな、と階は呆れるような、笑えるような気持ちでいて。
レジ袋の中を覗き込みながら、自分の横に立っている母に、話しかけた。
「ていうか、アイスってさ。俺これ、車の中で食ってから行かないと……」
「階」
「ん?」
顔を上げる。
母は、優しい顔で笑っている。
笑って、階と、朱里と、立葵と、源隆を見て。
これ以上ないくらい純粋な声で――彼女は、言った。
「お母さん、みんなのこと、大好きよ」
゜。゜。゜。゜。
走ろうか、とも思ったが、結局階はその電車を諦めた。
改札を抜けた瞬間に発車のベルが聞こえてきて、乗るはずだった時間の表示が電光掲示板から消える。次の電車は三十分待ちで。一旦事情を話して場内から出してもらおうか、それで本屋で時間でも潰していようか、と思う。
しかしそれも億劫だったから、大人しく階は、エスカレーターに乗ってホームへと降りて行った。次の電車はこの駅から出る。だからもう二十分もすれば発車しないまでも中に入って座るくらいのことはできるのではないかと思って。
プラスチックの椅子の上に、腰を下ろした。
ホームに人の姿はほとんど見当たらない。ついさっき電車が出て行ったからというのもあるだろうが、この町はたとえ日曜日でもいつもこんなものだ。駅の広さは常に人の多さを上回っていて、それが覆るのはせいぜい花火大会でもやるときくらい。
人影はなく、吹きさらしのホームに風は冷たく通りすぎる。
線路の向こうには幾台かの車とタクシーが停まるロータリーがあるけれど、しかしそこにも動きはない。空を覆う分厚い雲と合わせれば、冬の風景はひたすらに寒々としたモノトーンに染められていた。
こんな日だったな、と。
階は、思い出していた。
美術室から見ていた風景――放課後。日が暮れるのも早くなって、薄暗い部屋の中で階が絵を描けば、それを何を言うでもなく後ろから祭世が見つめていて。
あの日、自分は勇気を出して言ったのだ。
そして、彼女の答えは――――。
そのことを階は、ぼんやりと、思い出していた。
「――ん?」
ポケットの中で、携帯が震えている。
誰だろう、そう思いながら階はそれを取り出す。ついさっき家族と別れたばかりだから、何か自分の忘れ物についての連絡だったりするんじゃないか。そんな心配もそこそこに、誰からのメッセージなのかを確認する。
霧寺、と表示されていた。
東京の、今通っている大学の、サークルの後輩。
『いま、電話しても大丈夫ですか?』
電車が来るまでには、まだ長い時間がある。
どうせ暇していたところだ。それも構わないだろう――そう思って、『いいよ』とメッセージを打ち込んで、送信ボタンを押そうとしたところで、
「――――あ、」
それが、目に入った。
階は立ち上がらなかった。だから初めは、幻なのかとも思った。
が、そうではない。それは確かに、そこにある。空から地面へと、風に揺れながら降り落ちている。
それは、雪だった。
冬の寂しい景色の中に舞い散る、白い雪。
それを見れば、思い出す。
初めて人を、好きになった日のこと。
ふたりでバス停まで歩いて……結局、いつまでもそれがやってこないから駅まで歩くことにして、重たい傘を畳んで、お互いにその白い花にまみれるのを笑い合いながら歩いた、あの日のこと。
彼女と過ごした、日々のこと。
メッセージを打ち直した。
ごめん、また後で。それを送って、さらに続けて。
電車がもうすぐ来るから――そこまで打ち込んで、さらに消す。
そこから先は、心の中でだけ、呟いた。
何も、ないはずだけれど。
そこにはもう、何も残ってないはずだけれど。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、このままで――――。
ひとりきりのホーム。
風が吹いて、青年の髪に、真っ白な雪の花が揺れていた。
(了)




