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8-4 淡い色



「帰ってきたぞ!」

 そう、信者が叫ぶ声を聞いた。


 階はすぐさまそちらに目をやる――男が帰ってきたのだと思ったから。

 そして、ふくらはぎに力を込めた。飛び掛かって、今度こそ決着をつける。相手の状態次第では、そうすることも選択肢に入れて。


 が、そうではなかった。


「おい、依り代が――」

 信者たちの戸惑った声。


 そこにいるのは、男ではない。

 階の弟と、その友人――ふたりの子どもたちだった。


 目を見開くより先に、階は走り出している。


「立葵! 真代ちゃん!」

「兄――」


 駆け寄ると、階は湖の中から顔を出したふたりの手を取って、一息で持ち上げた。

 くらり、と急な動きに目眩がする。が、そんなことはおくびにも出さず、かえって鋭い目線で、彼らを囲む信者たちを睨みつける。


「な、なんだ……こいつ」

「おい、誰か、依り代の確保を、」

「貴様――」


 肩を掴んできたその手を、階は振り払って。

 相手の襟首を掴んで、湖へと放り投げた。


 ざわめきが起こる。が、その一連の流れが歯止めとなって、膠着状態になる。

 子どもたちを庇うように立ちながら――しかし、その状態も、長くは続かない。


「こっちに! 走って!」

 真代の手を引く立葵が、階にそう言って、湖から離れるように指示したから。


 理由はわからない。が、この状況で家族の言うことを無視して立ち止まるようなことは、階もしなかった。立葵の言葉通りに、周囲に「どけ!」と叫んでふたりに並走する。


 ざば、と背後で音がして、


「姉ちゃん! 父さん!」

 立葵が、振り向いて叫んだ。


 階も遅れて振り向く――確かに、湖の中から朱里と源隆、加藤が顔を出していた。

 信者たちの思考はまだ追い付いていない。その間に三人とも、たった一瞬すらも無駄にできないとでも言うように、素早く湖から上がって、同じく離れるように走り出す。


「あんたらも、死にたくなかったら――!」

「離れろ! 群れが来るぞ!」

 朱里と源隆の忠告は、その場にいた信者の誰にも届かなかった。


 誰も、予想していなかったのだ。

 その直後、水面が信じられないほどに盛り上がり、弾け――


 そこから、数百を超える蜘蛛の群れが、降ってくることなど。


「おい、なんだよこれ!」

 辺りの阿鼻叫喚に、かき消されないように階は叫ぶ。


「追い込まれて自爆し始めたんでしょ!!」

 朱里が負けじと叫び返す。


 走りながら、階はその背後を見た。

 現れた蜘蛛に、信者たちが襲い掛かられている姿――確かに、朱里の言うとおり。それは自爆と言って差し支えない。


 血、肉、悲鳴――それが冬枯れの森の中へ散乱する。瞬く間に、辺りは呼吸も躊躇われるような臭気に染まり返る。


 蜘蛛は、階たちのことも追いかけてきていた。


「立葵! 真代ちゃん!」

 当然、小柄なふたりが最も遅れることになり。


 いくら階でも、ふたりを抱え上げることはできない。


「父さん、立葵を――」

 体重がより重いであろう立葵を父へ、そして軽い方の真代を自分が。


 そう思って、しかし、そのたった一瞬すらも許してはくれない。


 ふたりを抱え込もうと、階と源隆が速度を緩めたその一瞬――、



 目の前で、蜘蛛が跳ねた。



 避けられない、と階は直感した。

 どうやっても、避けられない。もしも避けられたとしても、ふたりの子どもを犠牲にすることになる。


 けれど――それと激突することは、その後に蜘蛛に集られて死ぬことを意味しているのだ。


 朱里が叫ぶ声が聞こえる。

 加藤が銃を抜くのが、視界の端で見える。


 父の方が動きが速く、だからこそ彼はすでに立葵の身体を掴んでいて、今からは対応できない。


 だから、と階は思った。

 自分が、庇うしかないのだと。


「お兄――」

 朱里が、こちらに駆け出そうとしている。


 それで安心する。それなら、大丈夫だと。

 自分の代わりに、朱里が真代を抱えて逃げてくれるはずだと。


 だから、蜘蛛を受け止めるようにその手を前へと突き出して――。




「え――」

 その蜘蛛が、自分へと向かうはずだったナイフを弾くのを、見た。




 何が起こったのか、誰にもわからなかった。

 思考の空白――次に取るべき行動が何なのか、誰にもわからなくなっている。それはこの危機的な状況で致命傷となるはず……なのに。


 階たちを避けるようにして……そこに見えない聖域でもあるかのようにして、蜘蛛たちは彼らのすぐ傍を、流れていった。


「……なんでだ」

 低い声は、階たちのものではなく。



「なんで、死なねえんだよぉおおおお!!!」

 地に伏した、傷の男のもの。



 その手の形を見ればわかった。さっきのナイフが、男の投げたものだったこと。もしも蜘蛛が自分を庇わなければ、それがきっと、階の命を奪うはずだったこと。


 別の世界で、十歳の階が、刺されて死んだのと同じように。


「なんで――なんで上手く行かねえ! 制御を失った蜘蛛は、すべてを――あがッ!!」


 男もまた、蜘蛛の下に組み敷かれている。

 その喉元を、蜘蛛脚が抉った。


「くそ、が、てめえら、道連れ、に……」

 執念が、もう一歩分だけ、男の手を前に進めさせた。


 けれど、結局それは一歩分だけ。

 階たちのいる場所には、いまだ遠く。


 そして、祠や――この世界そのものには、まして、まるで手も届かず。


 もう一度だけ悲鳴を残して、男はその身を自分の呼び出した小蜘蛛たちに食われ――死体と化した。


 あたり一面、すべて。

 気付けば、信者はみな、その命を奪われて。


 蜘蛛たちは取り囲むようにして、階たちを見ていた。


 正確に言うなら、階のことを。


「何、これ」

 朱里が、茫然として言った。


「助かったの……?」

「いや、俺にも……」


 わからない、と言いかけて。

 ふと、階は気が付いた。


 小学校、それから崖の上。

 ふたつの場面では対峙して。


 その後――祠を出てからと、いま、この瞬間。

 そのふたつの場面では、明らかに蜘蛛に特別として扱われている。


 そのふたつの場面で、自分に起こった違い――それが、あるとするなら。


「あっ……!」


 持ち上げると、階のすぐ近くにいた真代が、その存在に気が付いた。


「それ、お姉ちゃんの……」

「知ってるのか」


 はい、と頷いて。

 それからひょっとすると、と彼女は言った。



 それが、この悪夢のような出来事の幕が引かれたことを知らせる、合図だった。




゜。゜。゜。゜。




「指揮権、か」

 手に持った金庫を眺めながら……階はそう呟いた。

 そして傍に座っていた真代は、独りごと染みたその言葉に、「はい」と律儀に相槌を打った。


 目の前の湖では、どんどん蜘蛛がその水面に身体を沈めていくのが見える。

 その水のほとりには朱里がいて、ずっとその手を水の中に沈めている。傍に立つ源隆からコートを押し付けられて、さらにそれを立葵が湖に落ちないように調整しているのが見える。


 辺りは、駆けつけてきた警官だらけだった。

 惨状に吐いてしまう者も何人もいた……が、階たちはこの夜の出来事で麻痺してしまったのか、この最後の後片付けを、緊張から解き放たれたような気持ちで、こなしていた。


 終わったのだ、と。

 そんな安堵ばかりが、胸に溢れていた。


「あんまり、そんな感じはしないけどな」

「そう、なんですね」


 真代が言ったことである。

 ひょっとすると……その姉の遺した金庫が、蜘蛛に対する指揮権の証になっているのかもしれない、と。


 階はそこで初めて、教団が蜘蛛を操る仕組みを聞いた。呪文を使う。そしてそれは、大蜘蛛が目覚めているときと目覚めていないときで、対象に取れる数が違う。


 つまり、小蜘蛛を従える力の源は、結局何かしらの形で大蜘蛛に繋がっているのだ。


「たぶん、その金庫が代わりに色々、やってるんだと思います」

「……正直、あんまり高そうなものには見えないんだけどな。小さいし」

「お姉ちゃんが、きっと自分で買ったので……。雑貨屋さんで、売ってるものなんじゃないかと思います」


 ますます信じられないような気持ちが募る。


 強力な依り代だった祭世の遺産――それが教団の操る微弱な呪文を遥かに上回るだけの力を持っている。だから、その持ち主になった階に対して、ひいては階の味方に対して、蜘蛛は手出しをしない。そういう風になっているんじゃないか、と真代から推測を聞かされても。


 こんな手持ちの金庫が、そこまでの力を持っているだなんて……とてもではないが、信じられない。


 しかし、目の前で大人しく湖の中に飛び込んで、元の世界へと戻っていく蜘蛛たちは、どう見ても現実のものだから。


 だから階は、とりあえず、その真代の話を信じるしかなかった。


「でも、誰でもいいってわけじゃ、ないんだよな」

 ぽつり、と呟いた。


「だって、誰でもできるなら初めから呪文じゃなくて、これを使えばいいわけだし。……なんだっけ。カガミワタリっていうのと一緒で、こういうのも使える使えないがあったりするのかな」


 隣に立つ少女を見て、

「真代ちゃんが持ったら、もっと強くなったり……でもない、か。わかってたら、祭世もこれ、直接渡すだろうし」

「……もしかしたら、私も、使えるかもしれませんけど……」


 歯切れ悪く、真代は、

「……ごめんなさい。これ以上はちょっと、言えません」

「……悩み事、っていうか、人に言うのを遠慮するようなこと?」

「あ、いや。そういうわけじゃ、ないんですけど」


 ならいいよ、と階は笑った。

「言いたくないなら、別に。抱え込んでるってわけじゃないなら、無理には訊かないから」


 ありがとうございます、と真代は三角座りのままで頭を下げた。

 こちらこそ、と言って階も、同じくらいに頭を下げた。


「教えてくれて、ありがとう」


 そのまましばらく、時間が流れた。

 規則的に蜘蛛が水の中に沈んでいく音。寒くて手が千切れそう、と朱里が足を震わせながら言う声。ときたま警官がやってきてカイロを手渡していくやり取り。彼らの腰に付けた無線がザッとなって、いかにも職務らしい会話をする様子。


 それらを見て、聞きながら……ぼんやりとふたりは、冬の夜風に身を晒していた。


「お、」

 沈黙は、階が破った。


「え?」

「立葵が見てる」

「うそ」

「いや、全然嘘じゃない」

 ほら、とこちらが気付いているとはわからせないままに、階は声だけで真代の目線を誘導する。


 確かにその先には、こちらを見ている立葵がいた。

 真代と目が合いそうになって、一瞬視線を逸らそうとして……しかし結局、そうすることなく、真っ直ぐに見つめ返した。


「俺は、もうちょっと休んでいくから」

 と、階が言った。


 自分と同じく湖にほとんどの体温を奪われただろうに――それでも仄かに耳を赤くした、真代に向かって。


「もし体調、平気なら」

 行っても、とまでは言葉にしなくても。


「じゃ、じゃあ……」

 そう言って、真代は立ち上がった。


 数歩、立葵の方へと歩いていく。

 しかしその途中で、「あ……、」と言って振り返って、


「あの……えっと、階、さん」

「ん?」

「その金庫、もし開けられるなら……」

 開けても、とまでは、やはり言葉にしなかった。


 困ったような表情で、真代は背を向けて、歩き去っていく。

 その表情の意味を、階は少しだけ考えて、しかし、わかるはずもなく。


「開けられるなら、って言われてもな……」


 八桁の数字だ。


 解錠に必要なのは、八つの数字。考えられるのは、


「十の八乗通りだろ? ……一億通り、かな」

 仮に一秒に一通りずつを不眠不休で試したとしても、全てのパターンを調べるまでに三年はかかる。


 となると、当てずっぽうではまず不可能。

 心当たりのある数字を入れてみるしかないが……。


「……さすがに、誕生日ってわけでもないよな」


 一度だけ訊いていた、彼女の誕生日。西暦から日付までを、ゼロを含めた八桁で。

 まさか、と思ってダイアルを合わせてみたが、やはり金庫はびくともしなかった。


 今時、暗証番号に自分の誕生日を入れるだなんて誰もやらない。わかっていた。

 それに、そんなもので鍵が開くなら、きっとこれまでに教団の誰かがそれを解いていたはずだと思ったから、大して期待もしていなかった。


 一億通り。

 その途方もなさに気が遠くなりながら、階はもう少しだけ、ダイアルを動かした。


 祭世が学校に来るのを辞めた日。

 開かない。


 彼女が死んだその日。

 これもまた、開かない。


 携帯の下八桁……は、彼女が携帯を持っていなかったから試せなかった。

 八桁の数字を構成できるような彼女にまつわるもの――それが思いつかずに、階はぼんやりと、偶然を頼ってダイアルを回していた。


 だから、最後に作ったその数字も、まるで期待はしていなかった。


 もしも誰かに、どうしてその数字を入れようと思ったのかを訊かれたら、階は口を噤んだのではないかと思われる――だってそれは、祭世自身に関わるものではない。



 20001221。

 二〇〇〇年、十二月二十一日。


 一度だけ、伝えたことのある日付。



 自分の、誕生日。


「――――、」




 それが、金庫の暗証番号だった。




 かちり、鍵の回った音がする。

 階はゆっくりと、それを開く。


 そこに入っていたのは、絵だった。


 葉書よりも少し大きい。書かれているのは、部屋と人、それから雪。


 部屋は、美術室で。

 制服を着た長い黒髪の少女は。


 その、少女は――――。



 それ以外には、箱の中には一つだけ。

 小さなメモ用紙が折り畳まれて、入っていた。


 震える指で、階はそれを手に取る。

 そしてはっきりと折り癖のついた――素っ気ない彼女だったら決して使わなかっただろうと思える、淡い色の飾り絵のついたそれを広げた。


 そこには、ボールペンで、こんなことが書いてある。



 全然似てない。

 でも、ありがと。



「なんだよ、それ……」

 そう溢したのが、精一杯で。


 涙がその紙を濡らしてしまわないよう、服の袖で顔を隠して。



 それから――すべての蜘蛛が消えて、この世界が閉じるまでの時間を。


 静かに階は、泣き続けていた。




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