8-3 湖
嘘だろう、と階は目を疑った。
蜘蛛によって案内された場所――そこは信じがたいことに、もうひとつの教団集会所と呼んで差支えのないところだったからだ。
誘い込まれたわけではない。そのはずだ、と階は思う。
実際に、男の足跡はその場所まで確かに続いていたし……今のところ、ここまで辿り着いた自分のことを、蜘蛛が信者たちに知らせる様子もなかったからだ。
何食わぬ顔で、蜘蛛はその信者たちの輪の中に加わっていく。
階は物陰から、その様子を見ている。
そこは、湖だった。
森の奥にある、小さな……泉と言い換えてもいいかもしれない。一周を十数分もすれば回り切れてしまうような場所。
そのほとりに、信者たちはたむろしていた。
耳を澄ます――焦りの声が聞こえてくる。
どうするんだ。蜘蛛もほとんどはやられてしまった。だから今、補充を連れてこようとしているんだろう。依り代も引き金も確保されて……一体あの男は、何をやっている。いっそ、私たち自らが警察と対峙しようか……。
口だけだな、と階はそれを聞いていた。
今までの動きを見ていてもわかる。実行犯は、おおむねあの男だ。
カガミワタリだから、というのもあるだろうが、それだって数人の同行者は連れていても構わないはずだ。
それをしないということは、結局、ここにいる人間たちに、それだけの覚悟がないから。直接警察と向き合ったり――蜘蛛を操って、事態を変えようとするだけの決断力がないから。
もちろん、そんなものはなくていいものだけれど。
この場では、それは教団側には弱点として働くだろうことは想像に難くない――実働は、あの男たったひとりだということなのだから。
あの男さえどうにかできればいい。
が、この人混みの中では、それすらも難しい。
まずは、男を見つけるところから始めなくては――、森の影に隠れながら、階は湖の傍に立つ人々をじっと見つめている。
「――――、」
そのとき、ふと。
ん、と声に出すことこそしなかったけれど、階の視線が止まった。
蜘蛛。
ついさっき、自分をここまで連れてきた三匹のうちの一匹。
それが、湖の方に向かっていって。
小さな水音を立てて、そこに身を沈めて行って。
そのまま、浮かんでこない。
その一部始終を、階は見ていた。
゜。゜。゜。゜。
「姉ちゃん!」
その大声に朱里は振り向いて、同じくらいの声量で返した。
「見つけたの!?」
父たちに追いつくことは、すでに諦めていた。
本心から言えば自分もあの男のことを殴り倒してやりたい――それでも背中を追ってくる弟たちのことを思えば、完全に振り切ってしまうほどの速力を出すのは、口では何と言っても心情としてはあまりやりたくないことだったし、
それに。
鏡――男が走ってきた方向に必ず設置されているだろうそれを抑えれば、上手く行けばその場所で待ち伏せすることもできるだろうとも思っていたから。
だから朱里は、途中からは自分のすることを切り替えた。
弟、それから弟の連れている少女とともに、辺り一帯の捜索を始めていた。
そして今、探していたのは湖の付近――男がずぶ濡れだったことから、ひょっとしてと思ったのだ。
ひょっとして、水の中に、見えない形で鏡を隠しているのではないかと。
だから朱里たち三人は、特に湖の中を重点的に探して――ひょっとすると水面に溶け込んでいるのではないかと手を入れて確かめてみたりして――立葵が声を上げたのは、そのときだった。
朱里は弟の下へと駆け寄る。まだまだ脚力には余裕があったから、この滅びた世界の熱さも大して苦にはならない。土を蹴って、葉を舞わせて、ふたりの下へと走り着く。
「あれ、」
と、立葵は言った。
そして、その先を指差す――人間大の、そう立葵たちと背丈の変わらないような蜘蛛が、ぽつんと佇んでいるのを。
その身体は、濡れている。
「もしかして……」
「うん」
立葵は、頷いて言った。
「湖の中から、出てきた」
そんなはずがないのだ。
朱里は、そう思う。
真代の話では、世界を移動するためにはカガミワタリの力が絶対に必要になる。小蜘蛛は単体ではそれを行うことができない。
カガミワタリは三人。
母は避難所にいて、男はいま、父たちに追い詰められている。
だとしたら、いま、この蜘蛛が出てきたのは。
この蜘蛛がこっちの世界に来るのを手助けできたのは、たったひとり、鏡になど触れていなかったはずの自分しかいないはずで――。
「真代ちゃん、」
朱里は思っている。
勘違いしていたのではないか、と。
もしかして、自分たちが壊すべき鏡なんて、この場所には初めから存在していなくて――、
「水面って、カガミワタリに使えたりする?」
自分の姿が映るなら、たぶん。
真代はそう、自信なさげに答えたけれど。
朱里には、目の前にいる濡れた蜘蛛が何よりの証拠である気がして、ならなかった。
゜。゜。゜。゜。
「動くな!!」
ふたりの男が、銃を構えて並ぶ。
びくり、と傷の男は肩を震わせた。
ゆっくりと振り向く……鼻の骨の歪んで、血を乱暴に拭った形跡のある、その顔。
そして、ずぶ濡れの身体。
「古河さん」
隣に立つ源隆に、加藤が小声でささやいた。
「どうします? 蜘蛛、かなり近いですよ」
「わかってる」
それに源隆も落ち着いて返す。
顔にはまるで、動揺を見せないまま。
ふたりの刑事が男に追いつくまでには、それなりの時間がかかってしまった。
どうやら男は手傷を負っているようで足はそれほど速くなかった――あるいは、この場所まで誰かが追跡してくるとは思っていなかったために移動が遅かったのかもしれないが、しかしそれでも、こうして拳銃を突きつけるまでに、もう随分と蜘蛛の群れまで近付いてしまった。
「なんだ、お前ら。どうやって……」
「――カガミワタリだかなんだか知らんが、もうお前らの計画は全て潰した。逃げ場はないぞ」
投降しろ、と。
源隆は、強い口調でそう言った。
男のすぐ後ろには、確かに蜘蛛の群れがいる。こちらは拳銃。向こうは怪物。数の差を考えれば、確かにこちらが不利には違いない。
けれど、これが今取れる選択の中では、もっともよいものなのだと源隆は思っている。もしもこの中の蜘蛛を数十匹でも連れてこの男が元の世界に進軍を始めたら――そのときは、絶対に自分と加藤のふたりだけでは太刀打ちができない。
だから、どんなに不利だとしても、この瞬間。
男がまだ蜘蛛を操っていない、この瞬間こそが、自分たちにとってもっともいいタイミングのはずだと、銃を構えている。
「……なんなんだ、次から次へと」
余計な邪魔ばかり、と男は懐に手を入れようとして、
ぴたり、と止まった。
「……銃、出さないですね」
加藤が小声で言うのを受けて、
「どうした。銃は弾切れか?」
源隆がそう問えば、
「……お前らは、何もわかっちゃいない」
男は俯いて、肩を震わせ始めた。
まともな状態の声ではない……源隆は男の押し殺したようなそれを聞きながら思う。その身体の奥に、ふつふつと感情の熱が湧き上がっているのが見て取れる。
「お前らは、一度も見たことがないから……誰だって! あれを見れば、俺達みたいになる」
「何を言ってる?」
怪訝な顔で、源隆が訊けば、
「お前たちは何も知らないんだ!!」
男は、叫んだ。
「神がどれだけ偉大か――その意志を叶えることがどれだけ尊いのか、お前らはわかっちゃいない……だから俺達の邪魔をするんだ! そうだろう!?」
自分の肌に、爪を突き立てている。
それは単なるポーズではない。爪が皮膚を突き破る。そのままぎっ、と指が滑り、血が流れ出す。爪の隙間に肉が詰まって、顎を抜ければ地面にぼたりと音を立てて落ちる。
「こいつ……正気じゃ……」
加藤が冷や汗を流しながら、しかし銃口は外さないままに言う。
「狂ってるのはお前らだ! お前らは悪魔……神の意志を冒涜する悪魔だ! 敵わないなら、これで終わりならせめてお前らだけでも――!」
その後、男は誰も聞き取れないような奇声を上げて。
まずい、と気付いたのは、源隆が先だった。
「くそっ!」
パン、と乾いた音がする。
発砲。が、その銃弾は男に吸い込まれることはなく、代わりにそれを庇い立てた蜘蛛の身体を貫いた。
「残念だったなあ!!」
男の錯乱――それが本当だったのか、それとも演技だったのかはわからない。
ただ、最後に男が口にした叫び――それは、刑事ふたりの耳にとっては、というだけで、
「呪文を唱えられた――!」
「こ、こっち来ますよ!」
「一旦引くぞ!」
もう、これでは望みも何もなかった。
その場に踏みとどまって、刺し違えてでも男を止める――その選択肢すら、どう見ても実現できない。男は白灰の蜘蛛の群れに取り込まれるようにして姿を隠し、そして群れは、波のように押し寄せる。
森が、揺れていた。
地響きのような音が立つ。山雪崩のような、そんな、人ではとても太刀打ちできないと思わせるような巨大な流れが、いま、ふたりの目の前に現れている。
背を向けて走る。
ただ、生き延びることだけを考えて。
「お父さーん!」
それに、手を振る少女がいた。
「朱里! お前――」
「早く! 走って!!」
朱里が、彼らの進行方向に立っている。
蜘蛛の群れに追い立てられるようにして行ったまさにその先――湖の手前に、立っている。
逃げろ、と源隆は手ぶりをした。
が、むしろ朱里は、ふたりの方へと走ってきて――
「お前――」
「ちょ、何を――」
「いいから、信じて!!」
ふたりの刑事を捕まえて、そのまま。
揺れる水面へと、引きずり込んだ。




