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1-3 こんなことしか



 三者面談に兄が来た。


「生徒会とかやってたんだな。知らなかった」

「そりゃそうでしょ。言ってないもん」


 滅多に帰ってこないくせに。



 そもそも少しくらい不安に思っておくべきだったのかもしれない、と。

 兄と二人で並んで学園の廊下を歩きながら、朱里(じゅり)はそう、ひそかに考えていた。


 基本的に約束を違えない母と違って、昔から父の方はよく「急な仕事が入った」だとかなんだとか言って用事をすっぽかした。学校行事なんかはほとんど母が来るのが普通になっていたから、警戒の心を十分に持っていなかったのだ。


 もしかしたら突然父は来れなくなるかも……そのくらいのことは、あらかじめ予想しておくべきだったのかもしれない。そう、古河朱里は思う。


 でも。

 だからと言って、まだ十九歳の兄が突然、高校一年生の妹の三者面談に顔を出すなんて、いくらなんでも予想できるはずがない。


「……担任、めちゃくちゃびっくりしてたんだけど」恨みがましく朱里が言えば、

「そりゃそうだよな。俺が先生でもびっくりすると思う」なんて、悪びれもしないで階が応える。


 朱里は端的に言って、この兄のことがあまり好きではない。


 積極的に嫌いというわけではないけれど――とにかく、あまり好きではない。


 目の上のたんこぶみたいなものなのだ。

 まずもって、小学校に入学したとき……自分の評価はすでに「階くんの妹」だった。


 見た目は結構良い。途轍もなく明るい性格というわけではないけれど、穏やかで、人と軋轢を起こすタイプではない。そしてテストでは百点以外を取る方が珍しくて、リレーは大体アンカーで、そのうえ絵を描いたら少なくともどこかのコンクールに入賞するくらいは日常茶飯事と来れば、弱みがなさ過ぎてかえって嫌みだとすら思える。


 別に、兄妹仲がものすごく悪いというわけではない。

 兄が自分をそれなりに家族として思っていることもわかる。


 でも、それはそれとして、朱里は兄が苦手だった。

 何をやっても「階くんの妹だからね」で済まされては溜まったものではない。そう思って小学六年生の貴重な期間を受験に費やして、この『なんたら女子学園』なんて兄とは縁もゆかりもなさそうな中高一貫校に苦労して進学したというのに――、


「……なんか、流石にじろじろ見られるな。居心地悪いや」

「だろうね」


 面談室から玄関まで歩く、その僅かな距離ですら注目を集めてしまっている。

 ついでに遠くの方から「男だ」と女山賊みたいな声が聞こえてくる。


 嫌だなあ、と小さく溜息を吐いた。

「紹介して」なんて直接的なことはないだろうけど――どうせこの女子校にいる箱入りたちにそんな積極性はないし、そもそも物珍しくて見ているだけだ――これから何かあるたびに「でも朱里には美形のお兄ちゃんがいるからなあ」と話題に出されることは想像に難くない。考えただけでうんざりする。


「ていうか普通、妹の三者面談とか来る?」

「父さんに言ってくれよ。俺なんてさっきラーメン二杯食わされたんだぞ」

「なんで」

「仕事とか言って注文したの食いもしないで外に行っちゃってさ、」


「じゅーりっ」


 ぼすん、と背中にやわらかい感触。

 抱きつかれた。そして、その髪から香ってくる匂いだけで、それが誰なのかわかる。


 佐倉(さくら)英梨花(えりか)


「お、彼氏連れとる」

「んなわけないでしょ」

 抱きつかれた姿勢のまま、肘で彼女の鳩尾を軽く突く。「ぐええ」なんて大袈裟な悲鳴を上げながら、しかし彼女は全くその姿勢を崩さない。


 朱里にとってはそれはいつものことだったけれど……ふと兄の顔を見ると、そこには驚きの表情が浮かんでいた。


 ああ、そうか、と。

 そこで面白がるような気持ちも、朱里の中に生まれた。


 佐倉英梨花は、朱里がこの学校に入学した当初からの友人で――そして、絵に描いたようなお嬢様だ。髪の毛がふわふわで、スタイルが良くて、顔立ちが整っていて、たぶん小学校低学年くらいの子どもが想像する「お姫さま」がそのまま形を取ったら、彼女のような姿になる。


 そして、わかりやすくスキンシップが激しい。大体話をしているときは人のどこかに触っているようなタイプで、よくころころと笑う。


 羨ましかろう、と。

 不敵な笑みを浮かべながら、朱里は兄を見て、


「何? どうかした?」

「いや、ええと、」


 いつもは冷静な兄が珍しく戸惑っている。それに朱里が内心、ほくそ笑んでいると、


「――お前、ちゃんと友達作れるようになったんだな」

「いつの話してんのっ!」

 思わず、兄の脛を蹴っ飛ばした。


 小学生の、ほんの小さなころである。確かに、朱里には友達がいなかった。だから兄と、兄の友達と一緒に家まで帰っていた。


 事実ではある。が、それも遠い昔の話だ。いくら学校で自分と過ごした記憶がそれ以降はないからと言って、いつまで経ってもそのままの認識でいられてはたまらない――兄が咄嗟に受け足を取ったせいで、かえって自分の方に戻ってきた足の痛みをじんじんと堪えながら……ふと、朱里は考え付いた。


「誰、この人? お兄さん?」

 面白がって訊いているような英梨花の声にも構わず、朱里は言う。


「私、今日、この子――英梨花の部屋に泊まるから」

「え」と、階。

「え」と、英梨花。


「ダメ?」

 抱きつかれたまま、振り返りきれもしないで朱里は訊ねる。


 躊躇いは、ほんの一瞬。

 ぎゅう、と抱き締める力が強くなって、


「全然いいよ! 大歓迎。私の部屋、いまチョー綺麗だからね。先週掃除したから」

「先週……?」


 衛生観念の違いに首を傾げながら、しかし、

「え、なんだよ急に」

「別にいいでしょ。どうせお母さん、家にいないし……お父さんもそれ、帰ってこないでしょ」

「まあ、そうだけど……」

「んじゃいいじゃん。そういうことだから、よろしく」


 じゃっ、と手を胸の前に挙げて、さらりと別れの挨拶。

 英梨花を背中に抱えたまま、朱里は踵を返した。


 数歩も歩けば、兄の溜息が聞こえてくる。それから、諦めたように歩き出す音。


「いいの?」と英梨花が訊いた。

「いいの、いいの」と朱里が応えた。


 兄との三者面談、なんて気まずい思いをさせられたのだ。こっちだって、相手を困らせる権利はあるはず。そう、朱里は思っているし。


 それに。


「あ、私、部屋行く前にコンビニ寄ってきちゃうね」

「おーけー。それじゃ私は先に寮に帰って、見られちゃいけないものを隠しておきます」

「何……?」

「ひみつ」


 母のいない家に帰るのは、なんとなく寂しい気持ちがして、嫌だったから。


 母が「ちょっと」と言うからには、それほど時間を置かず帰ってくると、信じていても。




゜。゜。゜。゜。




 自分のいる教室にいじめがあることを、今日、このとき、古河立葵(りつき)は初めて知った。


 機会がなければひょっとすると、ずっと知らないままだったかもしれない。父が「階も帰ってくるし、朱里の三者面談が終わったら飯でも行くか」なんて言い出さず、自分がその迎えの車のために図書室で時間を潰すなんてことをしていなければ、一生。


 死ね。

 キモイ。

 宗教女。

 学校やめろ。


 そう、目の前の机に書かれた文字を前に、立葵の身体は凍っていた。


 だって、想像もしなかった――自分のすぐそば、たかが小学校六年生の教室の中に、こんな悪意があるなんて。そしてそれを受けて、黙っている人間がいるなんて。


「あ……」


 入口から声がして、弾かれたように立葵はそこに目線を向けた。


 立っていた。

 六花(むつはな)真代(ましろ)


 いかにも繊細で、儚げで、枯れかけの花のようなクラスメイトが、そこに。


 手にはバケツと雑巾。

 この机に普段座っている、少女が。


「えっと……」

 困ったように、彼女は微笑んでいる。それは喜びから来る表情では、もちろんない。いつもそうだった。彼女は人と顔を合わせるとき、いつも笑っている。それ以外の表情を、知らないかのように。


 見ていたから、知っていた。


「あのさ、」


 いじめられてんの、とか。

 いつから、とか。

 先生に言わないの、とか。


 様々な言葉が、立葵の頭の中に思い浮かんだ。

 けれど……そのどれも口にしていいことのようには思われなかった。


 いじめられているのは間違いなかったし、いつからと訊ねることで得られるのは、自分がそれにどのくらいの間気付かずにいたのか、それがどれだけ間抜けだったかという情報のみ。そして、先生には、


「……いや、なんでもない」


 言えるわけがない。

 自分がもし同じ立場だったとして――大人に何か言うことで、子ども同士のことが何か変わっていくとは、到底思われなかった。


 時計を見た。

 もうすぐ、父が迎えに来るはずの時間だった。


 だから立葵は、自分の席に戻る。ランドセルを取って、机の中のものをそれに詰め込んで、蓋をして背負う。真代も自分から視線が外れたことにほっとした様子で、教室の中へと入っていく。水を溜めすぎているのか、よたよたとバケツに振り回されるようにして、自分の席へと進んでいく。


 それに背を向けて、立ち去ろうとした、そのときに、


「こが、くん」


 彼女の声に、呼び止められた。


 ぎくり、と立葵の身体が固まる。

 自分が何をしようとしているのかは、よくわかっていたから。


 見て見ぬふり……道徳の時間に散々習った。いじめは、見ているだけでも加害者。その言葉を正面から取るとしたら、いま自分は、彼女のいじめに加担している。

 そしてもし姉の言葉――「いじめって、なんかやわらかい言葉にしてるからダメなんだよ。人を傷つけてるってことでしょ」――それを信じるなら、いま自分は、彼女を傷付けている。


 そうわかったから――彼は、ほとんどその罪の意識に怯えるような気持ちで、振り向いて。



「あの、また、明日……」


 そこに、思わぬ微笑みを見た。



 ランドセルを、近くの席に下ろした。

 教壇の横、雑巾かけのスペースから『古河立葵』と書かれたそれを手に取って、ずんずんと、自分の気持ちが萎えてしまわないように、大股で歩いた。


「え、と、」

 戸惑った様子の真代に構わず、立葵は雑巾をバケツに浸す。思い切り絞って、彼女の机に書かれた悪言をごしごしと擦る。


 思いのほか容易く落ちていくのは、きっと水性マジックで書いたから……そして、それなら証拠が残りにくいから。そんな意図を、立葵は簡単に汲み取ってしまって。


「あ、ありがとう……」

 そう言ってきっと笑っただろう真代の顔を、正面から見ることはとてもできなかった。


「……別に」


 だって、あまりに。

 こんなことしかできない自分が、あまりに情けない――そう、思っていたから。




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