8-2 蜘蛛
洞窟の中にずっといたから、暗闇に目が慣れたらしかった。
外に出た瞬間には、何の人工灯もないはずなのに、急に明るくなったようにすら思えた。月と星――夜空に冴えて煌めくそれらの光が、階の行く道を照らし上げていた。
よく立葵たちは逃げ切れたものだ――と、そのとき階は、自分の楽観を反省する。
じっと地面を見つめれば、足跡のあるのがわかってしまうのだ。ぬかるんだ道。あるいは枯葉の砕け方。目敏い人間なら、気付くことができるはずだ。
「こっちか……!」
もう動くな、としきりに頭の中で騒ぎ立てる声を無視しながら、階は走る。
が、その途中、男も当然、備えはしていたらしい。
白灰色の蜘蛛が、三匹。
ぞろり、と首を揃えて、待っていた。
「ここで――」
まずい、と階は思う。
遠目から発見できたのは僥倖だった。そのはずだ。
が、これでは進めない。
自分の身体のことを省みる。
気絶する前、二匹までなら相手ができた。……しかし、それも万全の状態で、かつ高所から落とすやり方を利用できる環境にいたからできたことだ。
平地で三匹。
しかもこっちは、満身創痍。
無理だ、と悟った。
これを相手にすることはできない。自分が突っ込んだところで、刺し貫かれて死ぬだけだ、と。
迂回するか。しかし、足跡を見失ってしまえば、男に追いすがるのは難しくなる――
「……え?」
そんなことを考えていた、そのときだった。
蜘蛛が、頭を下げたように見えた。
気のせいだったのかもしれない――たまたま、威嚇の行動が、人間の目にはそう映った。それだけだったのかもしれない。
けれど蜘蛛は、階に背を向けた。
三匹が、ぞろぞろと歩いていく。枯れ枝をぱきぱきと踏みつけながら、先を行く。
そしてしばらく進んだところで――振り返った。
「……まさか」
そんなわけがない、と思う。
これまで散々見せられてきたこの事態の最後に、そんなことを思うこと自体が間違っているように思う。
けれど、それでも。
階には、彼らがこう言っているように思えてしまった。
ついてこい。
階の手の中で、金庫は冬風に晒されて。
゜。゜。゜。゜。
「なんだ、ありゃあ……」
そう、茫然と源隆は溢した。
集まった中で一番視力の良かったのが朱里で、だから最初に気が付いたのは彼女だった。
こっちこっち、と彼女が言うのに従って、一同は歩いた。そして次に見つけたのが源隆。次いで立葵、加藤、真代の順。
それは、岩場のように見えた。
「あれ、全部あの蜘蛛ですか」
震える声で、加藤が言う。信じられない、嘘なら嘘と言ってほしい、というような声で。けれど、朱里がそれを、見たままに口にする。
「だと思いますよ。あれ……」
数百は下らないと思われた。
森の奥に、びっしりと。
とても数える気にならないほどに無数の蜘蛛が、座って、音も出さないで、佇んでいる。
「あそこから出してたのかな……」
朱里が推測を口にすれば、源隆も重々しく頷いて、
「だろうな。……道理で、やってもやってもキリがないと思ったんだ」
「いやいやいや。落ち着いてる場合じゃないですよ」
加藤が心底焦ったような口調で言う。
「あんなの、うちじゃ絶対相手できないですよ。それこそ自衛隊でも連れてこないと……。ていうかあれ、本当に見えてるところだけにしかいないんですか? もっと森の奥の方に潜んでるんじゃ……」
たぶんな、と源隆が頷けば、加藤の顔色はさらに悪くなった。
「どうすんですか、古河さん」
「落ち着け。……よく考えろ。ここは俺達の世界じゃない」
そうだろ?と源隆は朱里へと問いかける。
「うん。……あのさ、真代ちゃん」
「は、はいっ」
「わかったらでいいんだけど……あの蜘蛛って、カガミワタリは使えるの?」
真代は一瞬、記憶を探り出すようにして、
「できない、と思います。その、小さい蜘蛛はできなくて、」
「カガミワタリを使える人の手を借りないと?」
「は、はい」
彼女はこくこくと頷いて、
「元々は、カガミワタリはそういう、洩れだした力らしくて……。その、大きな蜘蛛が起きると世界の結び目が緩んじゃって、ごくたまに、それを通れるようになる人がいるみたいで」
「……その、緩めるっていうのは?」
「収まり切らない、って聞きました。起きちゃうと、ひとつの世界をこう……布の中で風船を膨らませると、そのうち隙間ができるみたいにって、お姉ちゃんが……」
とても会いたくはない相手だな、と源隆が苦い顔をする一方で、朱里は「なるほどね」と頷いている。
「あれ、でも、この世界はまだ……。隣が緩んでるから? ……真代ちゃん、もしかして飛びやすい飛びにくいみたいなのも、カガミワタリの中でも人によってある?」
「ある、らしいです。その、大きなのにも眠りの周期みたいなものがあって、完全に目が覚めなくても、浅くなっただけでカガミワタリを使えるようになっちゃう人も……」
「教団にいたカガミワタリがそれ?」
はい、と真代が頷く。
読めてきた、と朱里は考えていた。本来の依り代……六花祭世がただ生きているだけで世界を滅ぼすというのは、その周期の問題だったのだろう、と。
大蜘蛛の眠りが浅くなるタイミングで依り代が存在していたら、それだけで世界が終わる。
そしてこの世界はそうはならなかったものの……例の傷の男。あの男が、カガミワタリに目覚めた。そして自分も、おそらく例の六十六本の手首や、あるいは男が平行世界から連れてきた小蜘蛛の存在の影響を受けてか、それとも隣の世界が滅びたことによって境目が緩みでもしたのか――とにかく順に、目覚めた。
おそらく、学園に伝わっているという初代学園長のカガミワタリの逸話――それもまた、蜘蛛の眠りが浅くなったときにたまたま、その力に目覚めたということなのだろう。
それらを理解して朱里は――「よし」と頷いた。
「なんにせよ、あの傷の男が号令をかけない限り、あの蜘蛛は私たちの世界とは関係ないってことでしょ」
「そうなるな」
源隆が頷く。
「あ、あと」
立葵が、口を挟んだ。
真代を見ながら、問いかける。
「もしかして、あんまり多いと扱いきれない?」
こくこく、と勢いよく真代は頷いた。
「そ、そう……! その、命令するための呪文、みたいなものがあるんだけど、大きな蜘蛛がいないところだと、百匹が限界だって」
「まあそりゃそうか」
源隆が頷いて、
「そうじゃなかったら、あれを全部投入して警察ごと磨り潰しゃいい話だ」
「怖いこと言わないでくださいよ」
「まあ、予備戦力ってことなんだろうけど、」
そこでようやく、朱里は話を切って、
「降りよ」
「えぇ!?」
驚いたのは、加藤。
「ちょっと、今の話聞いてた?」
「聞いてました。……あそこに控えがいるってことは、絶対に鏡の出入り口がある。で、困ったらそこを使うはずなんで」
ちゃちゃっと行きましょう、と朱里は言った。
「あそこ潰しておけば、しばらく安全になるわけじゃないですか。だったら、鏡割っといた方がいいですよ。走って行って、飛び込んで、で、向こうで割っちゃえばそれで終わり」
「んな、簡単に言うけどね」
「いや、でも加藤さんはさっき言ったとおりこの子たちを連れて行ってもらって、私とお父さんで……」
「いや、俺と加藤のふたりだ」
「え?」
源隆が言うのに、朱里が訊き返した。
彼の目がある一点を睨みつけていることに気付き――その先を、追って。
「うそ」
「もう来やがった。お前の読み通りだな」
そこには、なりふり構わず、というように走る男の姿があった。
もう、頭上からでもわかる。
傷の男。
どういうわけか、ずぶ濡れの。
「潰しに行くぞ、加藤!」
「は、はい!!」
源隆が走り出す。
「ちょ、ちょっと、私がいなくてどうやって……」
「片付けたら戻ってくる! お前らはそこで待ってろ!!」
男の走り出した場所から、抜け道のある場所を察したらしい。懐中電灯を持って走る源隆の進みに迷いはなく、それに加藤も思い切り腕を振ってついていく。
だから、と呆れたように朱里は呟いて、
「鏡の中に逃げられたら、私がいないとすぐに追いかけらんないでしょうに……!」
そして、ちら、と立葵と真代の、ふたりを見た。
「……あのさ、」
「どうせ、どっちに行っても変わんないよ」
立葵が、そう言った。
手元の鏡で元の車の場所に戻っても、それを運転する人間はいない。
ここに置き去りにするのと大して変わりはしない――教団本拠地の近くで、いつ蜘蛛が彷徨い出てくるとも限らないのだから。
「どっちに行っても同じなら、俺、一緒に行きたい」
「私も、です」
そうなるよね、と朱里は呟いた。
「言っとくけど、私、普通にしたら足、すごい速いからね」
「頑張る」
「頑張り、ます」
そうして、と朱里は走り出す。
源隆と加藤の進んでいった道を、さらに追いかける側にわかりやすいように、足跡を深くつけ、そしてときどき道標のように枝を折りながら。
その後ろをふたりの子どもたちが、ときどき肩を支え合いながら、ついてきた。




