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8-1 遺



「このへん?」

 と朱里が訊ねれば、立葵も「うん」と言って頷いた。


 森の中。

 冬枯れの気配などまるで見当たらない、温度の高い、誰もいない世界でのこと。


 崖の上から朱里たちは、地面を見下ろしていた。


「しっかし……」

 呆れたように、源隆が呟く。


「信じられんな。鏡の中の世界……そんなもんがなあ」

「あれ、でも古河さん、例の傷男は鏡の中に消えたって、自分で言ってたじゃないですか」

「あれは見たままを言っただけだ。しかし、自分が実際に入ってみるとなると……」


「そういう話は後にしてもらって、」

 朱里は源隆と加藤の会話をばっさりと切って、


「場所はわかったけど……これだるいなあ。どうする? ここ、お父さんならちゃっと降りられたりする?」

「あのさ、」

 朱里の問いかけに反応したのは立葵で、


「ん?」

「どっかに抜け道、あるんじゃないの」


 立葵は言う。

 さっきの兄との電話。洞窟、と言っていたこと。それから祠。


「普通、こんな崖降りないといけないようなとこにそんな祠とか、作らないでしょ」

「だから抜け穴みたいな道があるだろう、って?」

「たぶん……」


 どうかなあ、と朱里は首を傾げた。

 それには源隆も同感だったらしく、


「いや、普通に遠回りするような道なのかもしれんぞ。ああいうやつらが祀ってるような相手なんだ。見つからないように、奥の方に引っ込めてた方が都合がいい」

「洞窟っていうのが、確かになんか引っかかるといえば引っかかるんだけどね」


 でも地道に行くしかないかなあ、と朱里は溜息のように溢して、

「向こう?」

「ああ、湖の方を通りすぎて回っていく感じだな」

「湖? へえ、そんなのあるんだ」


「あ、あの……」

 控えめに、真代が声を上げた。

 朱里の背中に乗ったまま。


「ん? どうかした?」

「あの、カガミワタリで向こうに戻るのって、どうするんです、か」


 彼女の体調は、かなりよくなってきているらしかった。

 そうでなかったら、たとえどれだけ本人が同行を強く希望して、かつこのあたりの地理を把握しているという強みがあったとしても、連れてくることはなかった。


 幸い、立葵の辿った複雑なルートは、直線に直せば十数分で歩き通せる距離だった。高低差も、途中から朱里が真代を、源隆が立葵を背負いあげてもなんとか越えられる程度のものでしかない。


 だから彼女も、疑問を口にすることができた。

「鏡がないと、元の世界に戻れないですよね。それだと、近くに鏡がないと、どっちにしろダメなんじゃ……」


 ああ、とそのもっともな指摘に朱里は頷いて、

「あると思うよ」


 あっけなく、そう答えた。


「なんで?」

 立葵が訊けば、朱里はさらに説明する。


「だって、あそこに祠だとかなんだとか、そういう重要な場所があるんでしょ? だったら鏡くらい置いてるよ。あったら便利だから」

「でも、」


 立葵の反論は、論理的に、

「こっちの世界にまで置いてあるとは限らないんじゃないの。だってあいつがここを移動用に使ってなかったら、そんなの用意してなくてもおかしくないじゃん」

「あー……」


 困ったように朱里は、

「そのへん完全に感覚の話なんだけど……なんていうかな。チャンネルみたいなのがあって、ここが一番飛びやすいんだよね。だからたぶん、使うんだったらこの世界のこの道、だと思う」


 ものすごく嫌そうな顔を源隆はして、

「お前、そんないきなり、インチキ霊媒師みたいな……」

「お母さんに言ってよ、それ」


 だからさ、と朱里は気を取り直して、

「ここに鏡、置いてると思う。だからまずはそれを見つけにいく感じかなあ。……じゃあ、加藤さん、お願いしちゃっていいですか?」

「え、僕?」

 急に振られた加藤は、自分で自分を指差して、


「何?」

「小学生たちのお守り……というか、元の世界で車のところに戻すので、それでこのふたり、避難所の方に連れていってくれませんか?」


 ああ、と加藤は頷いて、

「ようやく、僕が必死こいて運んできたこれの出番、ってわけだ」

 足元に置いた鏡を、ごとりと動かした。


 朱里がここまで持ち込んできた鏡。

 元いた世界では車のところに置いたままだから、それを使ってカガミワタリを行えば、この森の中からすぐさまそこまで戻ることができる。


「……ていうか、近くの民家から姿見なんて、よく借りられたね。おかげでここまで、すんなり来られたけどさ」

「案外頼み込んだらあっさり貸してもらえましたよ」

「うーん……」加藤は朱里と源隆を交互に見て、

「なんだ」

「いえ、なんでも」


「俺、ついていっちゃダメ?」

 立葵が、口を挟んだ。


「迷惑かけないから……。最後まで、行きたいんだけど」

「あ、あの、私も……。私が、」


 ダメだ、とまずは源隆が言った。

 加藤も合わせて頷いた。


 すると立葵と真代の視線は、自然と朱里へと向かう。

 ここまで同行するというのを決めたときも、同じ流れだった。まず源隆と加藤が反対する。けれどそこから、ふたりの味方についた朱里が押し切ってくれた。


 しかし、今回は、

「うーん……」

 朱里も、渋い顔で。


「……ダメ、かな」

「正直、そんなにボロボロになってもまだ、っていうのは気持ち的には後押ししてあげたいんだけど……」

「ダメだからな」

 源隆が横から念押しするのに、朱里は構わず、


「でも、これから降りて鏡探ししなくちゃいけないでしょ? そうすると、ふたりのこと背負ったりしながらだとちょっときついし……」

「それなら、俺……!」

「あと、真代ちゃんがまた捕まるとまずいから」


 それには、子どもふたりも口を噤んで、


「ごめん。ここから先は、私もフォローできないかな」

「……わかった」

「ごめんなさい。我がまま言っちゃって……」


 いいのいいの、と朱里は苦笑して、

「連れていけたらいいんだけど――――あ、」

「え?」


 唐突にバッと視線を外した朱里に、加藤が疑問の声を上げて、

「どうし――」

「ごめん。そんな余裕ないかも」


 立ち上がった。

 おい、と源隆が声をかけようとするよりも先に、彼女は動き出している。





゜。゜。゜。゜。





「……そのまま、それを戻して、両手を挙げろ」

「嫌だ、って言ったら?」

「殺す」


 銃だ、とわかっていた。

 自分の背中に突きつけられているのは銃だと、見ずとも階には、わかっていた。


「お前、うちに来たやつだろ」

 声が、同じだったから。


 昼間、あの雨の中で「女はどこだ?」と何度も繰り返していた、口元に白い傷のある男――それと、いま自分の背後にいる人物の声が、そっくり同じだったから。


 知っていた。傷の男が警官から銃を奪って逃走していたことは。


 だから、想像がつく。

 自分はいま、殺されかかっている。


「……だとしたら、なんだ?」

「ただの確認……いや」

 違うか、と会話しながら、階は思い直して、


「お前が元締め、って認識でいいのか?」

「質問をする権利が、自分にあると思うか?」

「あるだろ」


 強気な言葉に、背後で息を呑む気配がする。

 もちろん階も、考えなしに喧嘩を売ったわけではなかった。


「お前が変なことしたら、この金庫、叩き割るぞ」

「……そのくらいで、壊れるはずがない。それにその前に、お前を殺すことだってできる。引き金を引くのと、物を投げるの。どっちが速いか試してみるか?」

「別にいいけど。銃を撃ってから、これが地面に落ちるまでの間に拾える自信があるなら」


 撃ちたいなら、勝手に撃てばよかったのだ。

 母は撃たれた。だから、傷の男は発砲に対して抵抗を抱いていないこともわかっている。


 それなのに。

 自分をいきなり殺さず、脅し付けるところから始めたということは。


「それとも、他に理由があるのか? 俺を貫通して弾が祠を傷付けるかも、とか。それとも、あの蜘蛛に……」

「黙れ!」


 そうしなければならない、理由があるということで。


「そのまま金庫を祠に戻せ!」

「嫌だって言ってるだろ。人の話を聞かないやつだな」


 状況は、見た目ほど悪くない。

 そう、階は気付いていた。


「お前が離れるんだよ。離れて、銃を捨てて、俺にお願いする。話はそこからだろ」

「ふざけるのも大概にしろ」


 男は、階の背骨に強くねじりこむように、拳銃を押し込んだ。

 当然、痛みが走る。が、階はそれを声には出さない。弱みを見せても、この場面では何の役にも立たない。


「……いいか、教えてやる」

 低い声で、脅し付けるように男は囁いた。


「十年前のあの事件……覚えているか」

「……母さんが、刺された事件のことか」

「あれの犯人は俺だ」


 階の無言を驚きととったのか、男は、

「懲役を終えてな、出てきたんだよ。……数ある平行世界で、お前はいつも俺に殺される。忌々しい親子だよ。お前が死ぬか、母親が死ぬか……毎回毎回ただ居合わせただけで、あの巫女を守ろうとする。大抵はそれも虚しく、巫女ごと死ぬが……。ざまあないな、偽善者」


 はは、と嘲るように男は笑って、

「どんな気分だ? お前は獲物で、俺は捕食者……それを知らされる気持ちは。え?」


「もしかしてお前、それで脅かそうとしてるつもりなのか?」

 しかし、階の言葉は冷たく。


「逆に、安心するけどな。……お前、たくさんある平行世界の中でも、俺のことも母さんのことも殺せなかったレアケースってことだろ? よかったよ。お前みたいなダメなやつが相手で」

「……てめえ」

「蜘蛛の一匹でも連れてくればよかったのに。それとも、この場所には連れてこられないのか?」

「黙れ!!」


 男が大きく叫んだ。

 そして、銃口の位置が変わる。

 ついさっきまでの腹部から、より殺意は高くなり……次は、後頭部へ。


「殺す……! 殺すぞ、お前!」

「いいのか? この金庫は」

「落とした程度で、割れるわけがない!」

「俺もそう思うよ。けど……怖がってるってことは、理由があるってことだろ?」


 見せ付けるように、階はその金庫を持ち上げる。

 銃口が、僅かに震えて、


「……怖がってる? まさか、俺に言ってるのか」

「それ以外に誰がいるんだよ。……怖がってるんだろ? なんだよ。中に何が入ってるんだ。ガスか? 生物兵器か?」

「お前に関係があるか?」

「別に。ただ、興味があるだけだよ。世界を滅ぼそうとしてるやつらが、それでも恐れるものが何なのかって」


「訂正しろ」

 男は、銃を押し込みながら言う。


「俺は、恐れてなんかいない」

「…………ふうん」

「お前ごときが触っていいものじゃない。ただそれだけだ」

「御神体なのか? こんな新しいものが?」

「……祭世様の、遺産だ」


 一瞬、息が止まった。


「……は?」

「お前らがどこまで掴んでいるか知らんがな、」


 吐き捨てるように、男は。


「偉大な方だった。依り代としての力は、今のあんな出来損ないとは比べ物にならない。この世を統べる神の贄となれるのは、あの方だけだった」

 階は、言葉を返せないまま。


「その祭世様が、死ぬ数日前にこの祠の中に隠した遺産が、それだ」

「……誰も、中身は知らないのか」

「遺書も何もなかった。誰も、その開け方を知らない」


 いいか、と男は言った。

「これが最後だ――。遺産から手を離せ。お前みたいな、神に背く薄汚い人間が、触っていていいものじゃないんだよ。離せ。――離せ、人間ごときが、それに触れるな!」




「――そうか」




 それは、まるで予兆のない動きだった。


 ついさっきまで、確かに階は、この男と鍔迫り合いにも似た会話を行っていた。

 挑発、無視、脅迫――そのすべてが結局、お互いに主導権を握ろうとする争いの一環として、現れていた。


 そしてその構図を対等に保つための象徴的な道具が二つ――男の側は、当然拳銃。そして階の側は、手に持ったその金庫。



 それを階は、何の予備動作もなく、元の場所へと戻して、手を放した。



 ありえないことだった。

 自分の持つ唯一のアドバンテージを自ら捨てたに等しい。こうなれば拳銃を突きつけられているという一方的な不利だけが階には残る。ここから逆転する芽を、わざわざ自分で摘んだことになる。


 けれど、それは。

 その唐突さという点において――一秒にも満たない、ほんの僅かな空白を生んだ。


 男が呆気に取られた声を出すよりも、前の出来事だった。

 目の前に対峙している人間が唐突に打ち出した自滅手……それを理解して、脳が反応するよりも前の出来事だった。


 ぐ、と階は左の膝を抜いた。

 ほとんど崩れ落ちたのかと思えるほどに素早い動き。挑発と脅迫の果てにすでに銃は、面積の広い背中から頭にその銃口を移していた。


 だから、その動きだけで外せるように、なっている。


「な――」

 男がようやく反応する。

 そのとき、階はすでに動き出していた。


 銃口が動こうとしている。それを、階の血まみれの左手が押さえ込む。握ったわけではない。そこまで強い力は込められない。だから、前腕の外側の骨で、ただ触れるようにして、どけるだけ。


 身体を起こしながら、階はその腕に上側から体重をかけた。男が腕の先でそれを持ち上げようとしても、力の量が違う。動かない。銃口は祠に向けられ、引き金の上で男の指は躊躇っている。


 男の意識は、己の手――そこだけに向いていて。



 だから、階の右の拳が、その鼻面に思い切り刺さり込んだ。



「があ――ッ!!」

「ってえ……!」

 骨と骨がぶつかる。引き抜いた階の拳には、すでに血が滲んでいる。


 男が仰け反る。距離が開く。その間を階は逃がさない。

 そのまま、右脚で中段を蹴った。


「くそ、ガキが……!」

 が、それは受けられる。


 男は咄嗟に、銃を持たない方の腕でそれを防いだ。骨まで響かせた感触はある。が、仕留め切るにはまだ足りていない。


 続ければ掴まれる――そう思った階は、蹴り足を引っ込めて。

 銃を持つ手を、上から叩いた。


 ご、と鋭い音がして、銃が男の手から取り落とされる。思った通りだった。引き金に触れた指での誤射を恐れるがあまり、持ち手それ自体に力を上手く入れられていなかったのだ。


 拾いに来るはずだ、と思った。

 だから階はそれを蹴り飛ばして、洞窟の中を滑らせるように真横に、暗闇の向こうへと移動させて――


 その間に、男は背を向けて走り出していた。


「待――」

 ぐらり、と。

 そこで。


 階の身体が傾いだ。祠に手を突かなければ、そのまま崩れ落ちていたかもしれない。


 崖から落ちて負傷した身体での、激しい運動……一旦の休息が訪れたことで、それは遠慮なしに階に目眩をもたらした。


 一瞬の、思考があった。

 銃は落とさせた。突きと蹴りをそれぞれ一撃ずつくれてやった。


 一方で、こっちは何も被害がない。


 大丈夫だ。状況はプラス。自分を仕留めにきた――邪魔者を排除しにきた男は、目的を達成できずに、敗走した。


 敗走、させた。


「び、びった……!」

 はぁあ、と深い息を吐いた。


 当然のことだった。普通に生きていて、普通に学生として暮らしていて、拳銃を突きつけられる場面なんてあるわけがない。明確な命の危機に陥ることなんて、想定しているわけがない。


 足が笑っている。

 日常ではまず感じることのない緊張……それを乗り越えるために脳内で分泌されただろうアドレナリンが、筋肉を制御できないでいる。


 危なかった。

 もう少しで、死んでいた。


「でも……」

 階は、祠に置かれた金庫を、再びその手に取った。


 これがなければ。

 自分がこれを手に取る前に、男に拳銃を向けられていたら。


 きっと命はなかっただろう、と思いながら。




「助、かった……」


 祭世の遺した、もののおかげで。




 正直な気持ちで言えば、もうあの男を追いかけたくはない。命の危機なんて、一度でも経験すれば十分すぎるほどだと思う。


 けれど、自分を迎えに朱里たちが来る以上、またあの男と鉢合わせをする可能性があるから。


「……行く、か」

 息を吐いて、階はそう決めた。


 それから――少し迷って、金庫も手に取った。

 何かに使えるかもしれないと、そう思って。


 そして同時に。


 この場所に置き去りにしたくないと思って……彼は彼女の遺産を手に取って、走り出した。




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