6-3 行け
そこからは、ひどく目まぐるしい展開が待っていた。
儀式の場所で唐突に響いた子どもの声。
それに反応して、信者たちの動きが止まる。
そして、人数が多いだけに誰が様子を見に行くか戸惑った結果だろう――階と立葵のいる物陰を誰かが捜索しに来るよりも先に、玄関から揉み合う声が聞こえてきた。
「お前ら――ふざけるな! こんなの法律で許されると思って――」
「どきなさい!!」
それは、警官と、表の見張り役が出している声。
信者たちがざわつき始める。興味の向く先は、むしろさっきの立葵の声よりも、警官の方へと向いた。
さすがに、警官を止めることはできなかったらしい。
中年と青年のふたりが、どたどたと家の中に乗り込んでくる。そして当然、彼らはすぐにその儀式の部屋を目にすることになり――、
「なんだこれは! いったい何をしている!」
「動くな!」
その異様な状況を見て中年の方が叫び――そして青年の方は、銃を構えた。
いけるか、と階たちが思ったことすらも束の間のこと。
その警官ふたりに、四匹の蜘蛛が、激しい勢いで駆けて行く。
今しかない、と瞬間的に判断した。
「立葵はここにいろ!」
階が叫ぶ。数人の信者がその声に驚いたように振り向いたが、こちらは不意打ちだ。止められることもなく、階はその信者たちを押しのけて真代の下へと辿り着く。
「誰だ!」
「おい誰か止めろ!」
「蜘蛛を使え!!」
信者が口々に叫ぶ――が、幸いにもその儀式の形にまだこだわっているのが多いのか、手を繋いだまま、こちらにすぐさま襲い掛かってくることはなかった。
階は真代を抱えて――そして一瞬だけ、警官のふたりを見た。
この人だかりの中、安易に発砲することもできないまま蜘蛛との格闘を強いられるふたり――そして間違いなく、この後に信者たちに取り囲まれるふたりを。
「逃げなさい!!」
中年の方が叫んだ。
「――すみません!」
階はそれだけを言い残して廊下に出る。
「行くぞ、立葵!」
その頃になってようやく、信者たちが動き出す。一番わかりやすい出口である玄関側を塞ぐようにして広がりながらこちらへと向かってくる。
「こっち!」
だから、立葵は裏口の方へ、真代を抱えた階を先導するように走って行く。
「おぉ!?」
その途中で鉢合わせしたのは、ついさっき裏口を開けて入ってきたのだろう見張りの男だった。
立葵の足が止まる。
が、階の足は止まらない。
「がッ――――」
右の蹴り足が、男の鳩尾に深く刺さった。
滑らかな動きだった。それを行動に移すまでに費やした思考の時間が著しく短い。だから男もそのダメージを予想することはできず、容易く崩れ落ちる。
その手から落ちた携帯を、立葵が上手く拾った。
「立葵、先行ってドア!」
「うん!」
流石に人ひとり抱えた状態なら、階よりも立葵の方が速く動ける。
だから床に倒れた男を避けて通った先、すぐに見える勝手口の扉も、立葵が先行する形で開いた。
飛び降りるように、ふたりは外に出る。
「逃げる方向は……」
階はすぐさま、その道筋を確認し始めた。
一番望ましいのは、もちろん車まで戻ることだ。
けれど――、
「ダメだ。あっちの方、もう人が――」
立葵の言うとおりだった。
裏口の方へと逃げたふたりを追ってくる気配はある。が、何と言っても数が多い。向こうだってただ背中を追いかける他に、家の入口の方に人を配置して逃げ道を塞ぐくらいの発想は、絶対に持っている。
となると、
「こっちしかないか……!」
森の中へと、ふたりは走り出した。
立葵は走りながら、階の携帯を操作している。
もちろん使うのは、地図機能だった。
「たぶん、こっち!」
とにかく、市街地の方へと戻らなくてはいけない。
進むのは山道。それも、轍も何もない、真っ暗な――枯れ枝から覗く、上弦にも少し満たない月明かりだけが頼りの道の中。
頼れるのは、おそらくこっちだろう、という大雑把な感覚だけ。
それでも彼らは、霜降るぬかるんだ土の上に、足跡を深く刻み込みながら走っていく。
まずい、と口にしたのは階の方。
つまり、彼が立葵より先に、その音を聞き取った。
「え?」立葵が振り向く。
「いい、前向いて走れ! ……後ろから、蜘蛛が来てる!」
自分たちを追いかけてくる、その足音に。
耳を澄ます――しかし人の足音は聞こえない。まだ追い付いていないだけか、それとも向こうは、完全に蜘蛛に追跡を任せたか――。
「立葵、何匹いるかわかるか?」
子どもひとりを抱えての全速力だ。さすがに息を切らしながら、階が訊ねる。
「……たぶん二匹!」
そうか、と階は頷いた。
一匹がよかった、という気持ちと、二匹でよかったという気持ちの両方が湧いている。前者はもちろん、一匹の方がずっと御しやすいため。後者は、あの場に残された蜘蛛が二匹のみであれば、警官ふたりがかりなら何とかできるだろう、と安心したため。
そして問題は、自分たちがこの二匹から逃げ切れるかどうかだった。
足音は、どんどんと近付いてきている。
追い付かれるのも時間の問題だ、と階が思ったとき。
根本的な解決策が、目の前に転がってきた。
「立葵! 代わってくれ!」
戸惑いながらも、立葵が速度を緩める。一方で階は完全に立ち止まって、立葵に背負わせるようにして、いまだに気を失っている真代を受け渡す。
「こっちだ!」
階は立葵を導いて、今まで走ってきた道なき道……そこからも、外れていく。
「何する……って、」
立葵は疑問を投げかけようとして、しかしそれを口にし切る前に、これから起こることを理解したらしい。
崖が、そこにはあった。
ちょうど小学校であった出来事の再現。
叩き落として、破壊する。
「来た――」
階が、立葵と真代を庇うように、重心を低く落とした。
「くっ――!」
蜘蛛が突進してくるのを、身体で受け止める……いや、受け流す。
八つの足を上手く躱しながら懐に潜り込んで、がっちりとその身体に腕を回す。それから、足を思い切り踏み込んで、腰を勢いよく回して。
ぶん投げた。
蜘蛛の足が空を切る。森の中の葉の一片を千切りとって、しかし虚しく、それは崖の下へと落ちていった。
がしゃん、と遅れて音が聞こえる。
「すご……」
立葵が兄を見上げられるのも、ほんの束の間のこと。
もう一体の蜘蛛が現れて、八つの足を素早く動かしながら、再び階へと飛び掛かってくる。
そのとき起こったことを慢心と断じるのは、理不尽なことだった。
確かに、二度も成功していた。
この明らかな怪物を前に素手で立ち向かうことを、階は二度も成功させていた。ゆえにそこに期待する心――つまり、三度目もそれを成功させられるという見込みを持ってしまったことは、否定できない事実ではある。
けれど、もちろん彼は、その巨体の突進を二度も受けるにあたって、その怪物の危険性を、ひょっとすると誰より理解できていたし。
何より、たとえ慢心がなかったとしても、それは避けられないことだったのだと思う。
「いっ――」
「兄ちゃん!!」
階の腕に、その蜘蛛の足が突き刺さった。
金属のような重さをした蜘蛛の足先は、その見た目のとおり刃物となって、彼の左の手を突き刺した。
投げることそれ自体には成功していた。怪物を相手にそれだけの成果を押し付けることはまず間違いなく快挙であるが――しかし、成功していただけに性質が悪い。
階は、蜘蛛を投げ飛ばした。
そして、投げ飛ばされた蜘蛛は宙空で苦し紛れに足を掻き、その結果として現れたのが、階の左腕の燃えるような痛みだったのだ。
だから。
激しい痛みが走った次の瞬間には、階の身体は、自身の二倍近い体重を持つ怪物によって崖下へと引っ張られ。
当然、そこで踏みとどまるべくもなく。
呆気なく、宙へと投げ出され。
かろうじて――自分へ手を伸ばそうとする弟に、こんな言葉をかけるのが精一杯だった。
行け。
遅れて、ぐしゃりとひしゃげた音がする。




