6-1 火
「なんだ? あれ」
階が言えば、助手席の立葵が身を乗り出して、フロントガラスの向こう……暗い道路にちかちかと点滅する赤い光に目を凝らした。
「ホテルに来るときは、あんなのなかったよな?」
「……あれ、警察じゃない?」
「マジか」
階たちの乗る車は徐々に速度を落として、それに近付いていく。そしてそれが工事現場を報せるための灯りなどではなく、本当にパトカーのそれであることを確かめると、ウインカーを点滅させて、路肩へと停まった。
ちょっと待ってて、と立葵に言って、階は外へと車を降りていく。
「あのー! すみませーん!」
「ん?」
声を上げれば、階たちに気付いた警官が一人、こちらに近づいてきた。
「ここの道って、通り抜けできないですか?」
「ダメダメ! ていうか、何? 今、どうしても出歩かなくちゃいけない用事があるの?」
「あー……」
そういえば、と階は思い出す。
外出自粛の指示が自治体から出ているんだった、と。
「ちょっと、妹を迎えに行くつもりで」
「妹ぉ?」
「そうなんです。ちょっと今、連絡が取れなくなってて」
すまん、と心の中で朱里に謝りながら、階は言う。
けれど、同時にこうも思っている。お前が何の相談もせずにいなくなったのも、まあまあ悪い。だから、こうして言い訳に使われるのも許せ、と。
「どこ行くつもりなの」
「病院なんですけど……」
警官の顔が、急に険しく変わった。
「妹さんの名前、なんて言うの」
「え、」
少しだけ迷って、しかし父に迷惑をかけても……という思いから、
「病院で、何かあったんですか?」
「ニュース聞いてないの、君?」
「ニュース? ああいや、外出自粛のやつはさっきからラジオで何回も……」
「……まだ報道出てないのかな? まあいいや。ちょっと今は、迎えに行くの控えてもらった方がいいなあ。一応向こうも警備体制敷いてるから、こっちにいるよりは安全だし……」
むしろ、と警官は言う。
「こっちから先、ちょっと危ないから。お兄さんも早く家、帰った方がいいよ」
「何かあったんですか?」
「ニュースでやってるでしょ。あの蜘蛛。あれがわらわら出てきちゃって」
「え」
驚いて、階は、
「大丈夫なんですか」
「まあ、色んなところから応援呼んで害獣駆除、って感じよ。しばらくこのへん物騒になっちゃうから。家に帰りな」
「はあ……」
となると、と階は考えた。
こっちの道は、大きく封鎖されそうだ。そしてたぶん、その中に入っていくことも難しい。
となると病院までの迂回路を探すしかないか……そう思いながら、警官に頭を下げたところで、
「あ、ちょっと、」
と警官が呼び止めてきた。
「はい?」
「妹さん、ひょっとしてマシロって名前?」
いえ、と冷静を装いながら、内心では大きく動揺して、
「違いますけど……。その名前の子、どうかしたんですか?」
「いやね……、ここの状態がニュースに出たらたぶん一緒に流れると思うから言っちゃうけど、」
少しだけ声を潜めて。
警官は、言った。
「その子いま、病院からいなくなって、行方不明になっちゃってるみたいなんだよ」
゜。゜。゜。゜。
駅から学園まではまあまあ歩くけれど、走ればその時間もだいぶ短縮することができた。
「警察、多っ……」
校門近くの植え込みで足を止めて、彼女は膝に手を当てて、真っ白な息を吐く。ただでさえ冬は寒いが、冬の夜はそれをずっと通り越して、冷たい。ここに来るまで存分に風に当たってきたものだから、耳が千切れそうなくらいに痛かった。
校門は開いている。
が、その近くにパトカーのランプが回っているのも、朱里には見えた。
「どうしよっかな……」
考えながら、物陰で彼女は息を整える。考えているのは、もちろんどうにかして英梨花のところへと向かう方法。
別に、自分がいなくても。
当然彼女も、そんなことを思わないわけではなかった。
別に、自分がいなくたって平気のはずだ。
他の世界ではどうだったか知らないけれど……これだけ警察が動き出している中で、自分みたいな人間が動く必要は、特にないように思える。
だって、どうせできることなんて、そんなにない。
でも――、
「とりあえず、電話してみるか……」
携帯の電源を入れた。兄からの着信数件に「げ」という顔をして、一旦無視して、それから英梨花に電話をかける。
「出ない、か」
仕方ない、と朱里は携帯をしまった。
自分にできることは、あまりない。
でも、まあ。
こういうとき友達に来てもらえたら、自分だったら嬉しいだろうな、と。そう思うわけだから。
こそりこそりと足音を消して――、とりあえずは、入り口にどのくらい警官が立っているか、見てみようとして。
「……ん?」
眉を顰めた。
もう少し近付く。
さらに疑問は濃くなっていく。
「……誰もいない?」
パトカーは、確かにそこにあるのだ。
けれど、それに乗ってきたはずの人影が、どこにも見当たらない。
一瞬、またなのかと思った。
自分でもそうとわからないうちにカガミワタリでも使って――また人のいない世界に迷い込んでしまったのかと思った。
けれど耳を澄ませば、向こうの世界とは違って音が聞こえてくる。それに、凍えるような夜の風。自分がいるのは、もちろんいつもの世界の方に間違いはなくて。
だから、そうっと、朱里は校門を越えていった。
学園の敷地は無闇に広い。が、この夜の中だから、明かりのついている方は一目見ればわかる。
生徒寮のある場所だけが、煌々と明かりを洩らしている。その周りにもパトカーがあることは、その明かりの一部が赤く染まっていることからも見て取れる。
「…………?」
そして、向こうだけが、やけに騒がしく感じられた。
ここにいるはずの警官たち……校門のパトカーに乗ってきたはずのその人たちは、みな向こうにいるのだろうか。
それは奇妙なことのように、朱里には思えた。だって、人がこの学園の中に入ってこないか見張るなら、まずこの場所にひとりは見張りを置いていたっていいはずだ。ここ以外の出入り口は、あとは裏門くらいしかないのだから。
それじゃあ、どうして。
考えている間にも歩みは進んでいたから、女子寮はすでに程近く……だから答えを出すよりも先に、実際にどうなっているのかが、朱里の目に映った。
「な――!」
蜘蛛の、大群だった。
あの蜘蛛だ。人とさして変わらないほどの大きさの、あの蜘蛛。それがわらわらと数十近く現れて、生徒寮を取り囲んでいる。
パトカーはそれらを近づけないように防衛線らしきものを敷いてはいるが……なにせ寮は広い。蜘蛛が横に大きく広がりながら前進すれば、それに対処し切れずにいた。
たとえば、今だって。
その防衛線を迂回して……裏から回ろうとしている蜘蛛を相手に、警官が必死になって発砲している。
近付くのは危険だ、と誰が見てもわかった。
蜘蛛に襲われる、というだけのことではない。流れ弾に当たって死んでしまう可能性だって、それなりにある。
「応援、これだけじゃ足りません!!」
警官が必死に叫ぶのが聞こえてくる。
そうだろうな、と思いながら朱里は、ふと。
自分だけができることに、気が付いた。
父のように拳銃を使うことは、自分にはできない。
兄がやったらしいように、素手で蜘蛛を倒すなんてもっと……いや、できるのかもしれないけれど、ここで一匹二匹を仕留めたところで、大勢には一切の変わりがない。そのくらいのことは、自分でもわかっている。
でも。
自分には、知識がある。
「……こっちかな……?」
蜘蛛に気付かれないよう……しかし蜘蛛たちの姿を視界に入れたまま、彼女は動く。
目的は、この蜘蛛たちの出どころだった。
母は言った。この蜘蛛は、別の世界から連れてきたものなのだ、と。
それだったら……カガミワタリを使っているのだったら、その入り口となるはずの大鏡がどこかにあるはずなのだと、朱里は気が付いた。
校門のあたりには、蜘蛛はいなかった。
しかし今、この場所では明らかにその蜘蛛の数はぞろぞろと増えている――事態を急に好転させることはできずとも、自分なら悪化を防ぐことはできるはずだと、そう思って。
そして進んだ先は、もっとずっと、奥……学校裏手の、森の中だった。
フェンスが破られている。そしてそこから、蜘蛛がぞろぞろと這い出てきている。
「面、倒なっ……!」
流石にその穴は使えない。朱里はそこから少し離れた場所……蜘蛛の進行方向とは逆側に距離を取った場所からフェンスを上った。防球ネットほどではないが、相当高い。こんな機会でもなかったら、まず普通の人間はこれに上ろうとは思わないだろう高さだった。
飛び降りて足を捻ったりしてもつまらない……そう思って慎重に下りながら、しかしそのとき、朱里は奇妙なことに気が付いた。
「……ガソリン?」
特徴的な、その臭い。
下り切って彼女は、携帯を取り出してライトを点けた。
そして実際に、自分の予想が当たっていたことを確認してしまう。
「こいつら……!」
蜘蛛が、濡れている。
それは明らかに、ガソリンのために。
無理やり肯定的に考えられなくもない。こいつらを燃やせば一気に無力化できる。そんな風に。
けれど、普通に考えれば。
森の奥から、この蜘蛛たちがわらわらと集まる寮に向けて、炎の導線が引かれているということに、他ならない。
どう考えても、蜘蛛が自ら考えた行動ではない。
走った。
森の中を、獣道すら使わずに。
革靴なんか履いてるんじゃなかった、と思う。これからは一生スニーカーで通してやる、と思う。冬の、ぬかるんだ土の上を足を挫きそうになりながら走って……長い靴下はあってよかった。これがなかったら、枝に引っかけてもっと散々傷がついているはずだから。
ガソリンの臭いで、ついに咳き込みそうになる。
その近さ。
とうとう、見つけた。
同時に、向こうも、朱里を。
「またお前か……!」
それは、白い傷のある男だった。
ガソリンの入っているらしいポリタンク――それを、歩いていく蜘蛛にどぼどぼとかけている。少し離れた場所には大鏡。
自分たち以外の、カガミワタリ。
教団関係者。
男は、じっと朱里を見ていた。
朱里は思案する。どうする? ダメでもともと、突っ込んでみるか? だいぶ体格は違う。力ではまず勝ち目はない。ナイフでも持ってくればよかった。運動神経の勝負になるとして、こちらが向こうのそれを圧倒的に上回っている必要がある。
見ただけでは、向こうの運動神経まではわからない。
出たとこ勝負だ。
迷いは、ほんの一瞬にも満たず。
だから朱里の機先を男が制したのは、おそらく純粋に、こうなった場合にどんな行動をとるか、あらかじめ向こうは決めていた――その差だったのだと思う。
朱里が駆け出す。
男が作業服のポケットに手を差し入れる。
出てきたのは、使い捨てのライターだった。
「んな――!」
飛び込んで、朱里はそれを捕まえようとした。
が――それよりも、火が点いたそれを男が投げる方が早い。
行進する蜘蛛によってできた、ガソリンの導線に。
一気にそれは、燃え広がった。
「うあっ……!」
急な光量、熱気。それに朱里が怯んだ一瞬に、男はすでに背中を向けている。
「待て!」
追いかけようとして、しかし朱里は足を止めた。
それよりも、と思ったために。
鏡の向こうに消えていった男よりも――何より重要なことがある。
このままでは、寮まで一気に、火が回ってしまう。




