5-4 したくないもんな
「立葵、私が出たら部屋のチェーン閉めといて」
「え」
階がシャワーを浴びているときのことだった。
「なんで、」
「いや、外から開けられるかもしれないし。部屋の中の鏡は全部床側に付けてるから平気だと思うけど、一応ね」
身支度を整えて立ち上がった姉に、そうじゃなくて、と立葵は言う。
「母さんが……」
「それはそれ、これはこれ」
悪びれもせずに、朱里はそう言った。
「さっきお母さんが言ってた『佐倉英梨花』――あの、引き金役の子? あの子、私の友達なんだよね」
「――――、」
「まあだからさ、あんまり人任せにしてるのも、何かあったときに気分悪いでしょ。それに、昼間の寮の方のあれの後、警察の事情聴取とかでろくに話せてないし……」
それにほら、と朱里は小さな鏡に指を通して、
「私の場合、ほら。こんなのもあるしさ」
「……怖くないの?」
「いや、まあ怖いけど……」
朱里はちらり、と浴室の方に目をやった。シャワーの音は途切れていない。そこからまだ兄の姿が現れないだろうことを確かめるように、
「仕方ないでしょ。本当に動かなきゃいけないときって、そりゃ怖いときばっかりなんだから。怖くてもやんないと」
「……………」
「何。立葵、どうかした?」
俯く弟に目線を合わせるために、朱里は少しだけ膝を折って、
「怖いんならお兄ちゃんとここにいればいいじゃん。大丈夫だって。あの人、無駄に何でもできるから。子どものころならともかく、今は……」
「そうじゃ、なくて」
「ん?」
「…………俺、姉ちゃんみたいになりたかった」
ものすごく驚いた顔を、朱里はした。
口元を手で押さえて……それから。
ふ、と笑った。
「……下の子って、みんなそんなもんか」
ぐしゃぐしゃ、と立葵の髪を、手のひらで撫でまわした。
「あんたは要領よすぎ」
え、と立葵は顔を上げた。
「そんだけ。別に、私みたいになんなくていいよ。あんたにはあんたのいいところがあるんだから。……でも、もし何かやりたいことがあるなら、」
その額を、朱里は指で弾いて、
「ちょっとだけ、考えなしになってみたらいいんじゃない? ちょうど保護者になる人も近くにいるんだし」
「え――」
「あんまり言うとあれだから、もう行くね」
浴室からシャワーの音が止む。
やばいやばい、と小さく呟いて、朱里は扉へと向かっていく。
最後に、彼女は、
「あ、お兄ちゃんになんか訊かれたら、心配すんなって言っといて」
それだけ言って、部屋を出ていった。
後には、立葵ひとりが残されている。
゜。゜。゜。゜。
姉みたいになりたい、と立葵は思っていた。
あんな風に、友達のために自分の恐怖を押し殺して、進んでいきたい。
兄みたいになりたい、と立葵は思っていた。
あんな風に、危ないことがあっても何とかするだけの力が欲しい。
でも、実際の自分は、どちらにも似ていないから。
だから、いまだにホテルの部屋で、こうして座って佇んでいた。
あんな話を聞いた後なのに。
六花真代に何が起こるのか……それを、聞いたはずなのに。
「風呂空いたぞー……ってあれ、」
髪を拭きながら、階が浴室から出てくる。不思議そうに、室内を眺めまわしながら、
「立葵、朱里は?」
「……友達のところに行くって」
「えぇ?」
驚いて、階は、
「なんだよもう、あいつ……」
携帯を取って操作し始める。プルルル、と呼び出し音が鳴って、しかしすぐに『おかけになった番号は……』の言葉が流れ出す。
はあ、と溜息を吐いて、携帯を置いた。
「昔っからこうなんだよなあ。……あー、どうしようかな。友達ってどこの誰とか、立葵聞いてるか?」
「……あのさ、兄ちゃん」
「ん?」
言うんだ、と立葵は思う。
言うべきなのだ、と自分に言い聞かせている。
俺も友達のところに行きたい。
実際に友達かどうかなんてわからない……いや、きっと言えやしないけど。
でも、行きたいんだ、と。
真代のところに、自分も行きたい。連れて行ってほしいんだ、と。
もうこんな風に。
彼女が傷つこうとしているのを、遠巻きにしているのは嫌なんだ、と。
俺、あの子のこと――、
「……ううん。なんでも、ない」
「そうか?」
うん、と立葵は頷いた。
どうするかな、と言いながら階がとりあえずと髪を乾かし始める。安っぽいドライヤーの音。暖房のかかった部屋にさらに増えた熱源。ぼわっと膨張した空気が、部屋の中を満たし始める。
かち、とそのドライヤーの電源が切られてから、不意に。
「なあ、立葵」
「……なに」
「行くか」
驚いて、立葵は階を見た。
「え」
「本当はこういうこと、言っちゃダメなんだろうけど……」
バツが悪そうに、口元に手を当てながら、
「真代ちゃんのところ。行きたいんだろ?」
「なんで……」
「わかるよ。そりゃ、そんだけ悩んでたら」
「でも、」
「危ないことはわかってるんだけどさ」
困ったように、階は笑う。
「本当は、こういうのやっちゃダメなんだけど……。大人としてもそうだし、家族としても。俺が連れてったせいで立葵に何かあったら、一生後悔するから」
「…………」
立葵自身、わかっていた。
自分は、自分ひとりで生きているわけじゃない。
自分に何かあったら悲しむ人がいる。それに、ここから病院まで……歩いていったのでは絶対に間に合わない。財布も持ってきていないから、移動には誰か、親切な人の力を借りるしかない。
自分の危険な行為に、誰かを加担させなければならない。
説得するのも難しいし……それに、自分に実際に被害が出た場合、その人の責任になることも、間違いはない。
子どもは、自分で自分の責任を取ることができない。
かといってこれは、人に背負わせるにはあまりにも大きく、身勝手で――、
「俺、」
それでも。
開きかけていた扉を、自分以外の誰かがそっと押してくれたら。
「俺、六花のこと、好きなんだ」
もう立葵は、耐え切れなかった。
「ずっと前から、好きで、でも、何もしてやれなくて」
「……うん」
「あいつ、いっつも、教室の花瓶の水、ひとりで替えてて……」
「うん」
「誰も見てない、ときも、誰に褒められなくても、ちゃんと、してて……俺、」
ぼたぼたと、涙が膝の上に落ちていく。
頭の中には、記憶が流れ出す。今日あったこと。一生忘れられないようなこと。情けない自分。
何より、彼女が苦しんでいる姿――
「俺、こんなところで、じっとしてたくないよ……」
そうか、と階は。
短く、応えた。
「じゃあ、ひとつだけ約束をしよう」
涙を流して応えられないながら、立葵はそれに顔を上げた。
「俺はたぶん……これから行った先で、お前たちに危ないことがあったら、それを引き受ける」
「……うん」
「たとえそれに命の危険があっても、絶対にお前たちを庇う。……それこそ、母さんみたいに」
でもな、と階は言った。
「そうなっても、立葵は責任を感じるな。これからやることは、全部俺の……大人の責任だから。自分のせいでとか、そんなこと、絶対に考えるな」
立葵は、それに頷こうとして、
「……できない、と、思う」
無理だと、そのことをわかっていたから、安易にそうとはしなかった。
無理だ。自分を庇って兄が傷ついたら……いや、傷つくだけならともかく、命を落としたりしたら。
絶対に、自分はそれを負い目に思うに決まっている。
忘れたり、都合よく目を背けたりなんて、できない。
「……だよな」
けれど、兄はそれを聞いて、笑った。
「でも、そうしてほしい。そうできなかったとしても、俺がそうしてほしいと思ってたことは覚えておいてほしいし、そうできるよう、努力もしてほしい。……これなら、できるか?」
立葵は、服の袖で涙を拭いて、
「がん、ばる」
よし、と階は、頷いた。
「じゃあ、行くか。車出してやるよ。……病院の中にはもう入れないだろうけど、駐車場で待機してれば、何かあったときすぐに駆け付けられるだろ」
「……兄ちゃん」
「ん?」
立ち上がろうとする兄の服の裾を、少しだけ立葵は引っ張って、
「ありがと」
はにかんで、そう、礼を言った。
「……いいよ」
階は、それに微笑み返して、
「知らないまま――何もしないで後悔なんて、したくないもんな」
゜。゜。゜。゜。
加藤が蒼白の表情で電話に出ているのを、源隆は見た。
署に戻って一息を吐いて、さてこれから長い夜、一体どこから手をつけようか……と自販機で缶コーヒーを二本買ってきて、席に戻ると。
「どうした」
「こ、古河さん……」
電話は繋げたまま。
加藤は、通話口を手で押さえて、源隆に言う。
「病院で、あの蜘蛛が出たみたいです」
「な、」
事態の急転に動揺しながらも、
「怪我人は?」
「いえ、古河さんの指示で張ってた警官がいたんで、被害はないまま食い止められたんですけど」
「けど? けど、なんだ?」
「六花真代ちゃん、行方不明だそうです」
ぎ、と歯を食い縛った。
机を叩きたい衝動に駆られる――が、冷静さを発揮して、源隆は、
「指示待ちの電話か?」
「そうです」
「一旦切って折り返せ。上に繋がなくちゃ話にならん」
了解です、と加藤が受話器に再び顔を近づける。
一方で、別の電話が鳴り始めた。
「はい古河」
源隆はその一コール目が鳴り終わるよりも先に、すでに大股でその電話機に近寄って、電話を取っている。
しかし、彼の第一声は、電話の向こうからの大声にかき消されてしまった。
「なんだ? よく聞こえない!」
受話器に付けていない方の耳を、源隆は抑える。背を丸めて、隣の加藤の声を聞こえないようにして、向こうの声に集中する。
やがて、彼は信じられないというように、こう訊き返した。
「市街地に大量発生?」




