1-2 探さないでね。
駅前の歩道橋から降りていくと、見慣れない白い車の中に父の顔があった。
念のため、ドアを軽くノックしてから階はその車に乗り込む。スーツ姿にネクタイを緩めて、無精ひげ。年齢の割にいかにも活動的な体型をしたその中年の短い髪の男が、階の父、古河源隆だった。
「お、とうとう助手席に乗るようになったか」
いかにもからかうような調子で父の言うのを、「そりゃね」と階は軽くいなして、
「車いつ変えたの? 夏はまだ前のだったよね」
「秋口くらいに中古でな。母さんが、お前もこっちにいなくなったから、もう少し小回りの利く車に変えたいって言い出して……」
階がシートベルトを閉めれば、ゆっくりと車は発進し始める。
駅前自体はやたらに広いが、まだ十二時にもなっていない時間帯なのもあって、ほとんど人の気配はない。すぐ傍のカラオケ屋もパチンコ屋も、休業しているようにすら見える有様だった。
「お前、もう飯食ったか?」
「全然。朝起きて顔洗ってそのまま出てきたよ」
「んじゃ、どっかで食ってくか。……まさかコタツの電源抜いてきたろうな」
「全部抜いてきたって」
二人の乗る車は、やがて駅から家への道の途中にあるラーメン屋で停まった。階がまだこちらに残っていた頃から、何度も来たことがある。店内の椅子数とひょっとしたら同じだけの台数が停められるのではないかという広さの駐車場。そこに駐車して、源隆が先導する形で二人は歩く。
それほどの客数もなかった。ふたり、と告げれば「お好きな席へどうぞ」と店員が言う。迷わず源隆は、一番奥まった席へと進んでいった。
メニューを広げて、お互い言葉少なに悩むこと数分。源隆は豚骨ラーメン大盛、階は煮干し魚介ダブルスープラーメン特盛に半チャーハンセット餃子付きを頼んだ。
「お前、よくその身体でそんなに入るな」
メニューを戻して、細身の階をまじまじと見ながら源隆が言う。
「飯の時間適当にしてたら、なんか胃袋広くなったみたいで」
「それお前、あれだ。二十五過ぎたらどっと太るぞ」
「でも一応、ジムとか行ってるから。週三」
階が自分の脇腹を指で抓もうとする素振りを見せる。けれど、冬服の厚みに遮られて、何も掴むことのないまま親指と人差し指はぴったりと閉じた。
へえ、と感心したように源隆は、
「結構高いだろ。東京のトレーニングジムは」
「いや、大学にあるんだよ。年間一万くらい」
「月じゃなくてか?」
「そう。安いよね。それでプールとかもついてんの」
すげえな、と源隆はグラスに水を注ぐ。
「国立大って、そういうところもしっかりしてんだなあ」
「どうなんだろ。俺、インカレに入ってるわけじゃないから他の私大とかどんな感じなのか知らないし……」そのときふと、階は源隆の服装に目を留めて、「てか、大丈夫?」
「ん?」
「こんなのんびりしてて。仕事、抜けてきてんじゃないの」
「ああ、いや。仕事終わりだよ。今日、当直だったんだ」
「お疲れ様」
「いやいや。疲れるようなことは何にも。平和な一日だ」
そりゃよかった、と階は言う。
「警察がやることないなら、それが一番だよ」
「まあな。……ところで、」
からんからん、と店のドアが開く。四人組の作業着の男たちが店の中に入ってくる。入口近くの席に陣取って、おしぼりを置きに来た店員が去らないうちから、もう注文を始めている。時刻はようやく十二時近く。昼時だった。
「お前、いつまでいられそうだ?」
「限界が一月の二週目まで。三週目からはもうテスト期間入るから……まあ、試験だけならここから通うって手もなくはないけど」
てかさ、と階は、
「逆に、そっちはいつまでいてほしいの。てか母さん、ちゃんと帰ってくるわけ」
「……まあ、そう遠くないうちには」
「何の根拠があって」
「顔文字」
「は?」
源隆がジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。二、三の操作をしてから、それを階に手渡してくる。
そこには、画像が表示されている。
小さな……子どもが使うようなファンシーなメモ用紙に、ボールペンの走り書き。
『ちょっとだけ留守にします。探さないでね。(・×・)』
「…………」無言で、階は携帯を源隆へ返す。
「…………」無言で、源隆は携帯をジャケットへしまい直す。
「……確かにそんなに時間はかからなそうだけど……。なんか心当たりとかないの? 母さん、急に出て行ったりしないでしょ。いつもだったら」
「わからん。一週間くらい前に穴の開いた靴下をそのまま籠に突っ込んだのくらいだな。怒られたのは……」
「それ俺が高三のときも同じことで怒られてなかった?」
まあそれは置いておいて、と源隆は、
「母さんが普段だったらこんなことはしないっていうのは、俺も同じことを思う。……だから、理由があるんだろうな」
源隆は、今度は逆側の胸ポケットに手を入れて、
「しかしまあ、わからん。ここには書いてないし、母さんも不思議なところがあるからなあ」
「それで済ませて大丈夫?」
「携帯は持って行ってるみたいだし、何かあったら連絡が来るさ。それに、職場の方にも『一週間くらい抜ける』ってことで伝わってるみたいだしな。そこまでするなら、たぶん母さんの中で何か計画があるんだろ……んで、ほれ」
言って、源隆は財布を取り出す。そしてその中から、さらに五枚、紙切れを取り出す。
五万円。
「え」
「小遣い」
「いやいやいや」源隆が押し付けてこようとするのを、階は両手で防ぎつつ、「いい、いい、いい。何これ。何?」
取っとけ、と拒絶にも負けず源隆は言う。
「こっちの都合で呼び出したんだから」
「いいって」そして、階もさらに負けず、「家族だろ。いいよ、そんなの」
「ばあっか、お前なあ……」呆れたように、源隆は言った。「大学二年なんて、お前そんな……一番楽しい時期だぞ? それをお前、急に実家に呼び出されて……俺だったら十万貰っても絶対――」
そのとき。
ぴりりり、と携帯が鳴った。
階が何を言う暇もない。あっと言うよりも先に源隆はその五万を階の目の前に置いて、素早い動きで胸ポケットからそれを取り出して、通話のボタンを押している。
「はい古河」
何事かを喋る父の口調から、階はその電話先が誰であるかをうっすらと察した。仕事の関係だろう、と思う。つまり、向こうも警察関係者。おそらく刑事。
「わかった。すぐ行く」
今度こそぎょっとした。
「悪いな、仕事が入った」
ぴ、と通話を切りながら源隆が言う。
「え、ちょ、」
「ほれ」
今度はズボンのポケットから物を取り出して、階に押し付ける。
車の鍵。
「お前、免許は去年取ったよな。免許証はまさか持ってんだろ?」
「いや、持ってるけど、」
「大丈夫。このへんまで来ればペーパーでもなんとかなる」
「いや、そうじゃなくて……。てか、俺が車乗ってったら父さんはどうするんだよ」
ちらり、と源隆は席の隣の窓から外を見て、
「大丈夫だ。同僚がすぐ近くまで来てるらしい。俺はそれに乗り合わせていくよ」
悪いな、と源隆は言った。
そしてついでとばかりにもう一枚、財布から大きい札を引き抜いて机の上に乗せた。
「これ、ここの会計な。うちのことは……あ、やべえ。あいつの三者面談……」
無精ひげをぞり、と指の腹でなぞって、
「悪いな。あとで必要なことはメールする。頼んだ」
「ちょ、」
階が引き留めようとしても、もう源隆は振り向きもしない。
向かいから来る店員を器用によけながら、玄関口のベルを鳴らして外へと出て行ってしまう。
残されたのは階、たった一人で。
「お待たせしましたー」
ちょうどその源隆とすれ違った店員が、注文を持って来る。
豚骨ラーメン大盛。
それから、煮干し魚介ダブルスープラーメン特盛に半チャーハンセット餃子付き。
階はじっと、それを見つめて。
「どうすんだよ、これ……」
茫然と、そう呟いた。