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4-4 今日、お兄ちゃんが



 飛び掛かってくる蜘蛛を、朱里は扉を閉めることで躱した。

 が、二回、三回と突進を繰り返し、容易く扉が軋むのを見れば、もう選択肢はほとんど残されていない。


 走った。

 一階へ。


 英梨花が言うところの、カガミワタリとやらの力を使うために。


 幸い、蜘蛛は瞬発力こそ高かったが、長距離走は苦手らしかった。

 飛び掛かってきた動きよりも、随分緩慢に後ろをつけてくる。


 だから、何とか。

 朱里は手傷を負うことなく一階廊下の鏡に辿り着くことができた。


 けれど――、


「――は?」


 その鏡の先は、元の世界ではなかった。


「ちょ、どういう――」

 そのことがどうしてわかるかと言えば、理由は明らかで、周囲一帯見渡す限りが未だに荒廃していたからだった。


 それは、どう見ても自分が元いた世界では、なかった。


 もう一度鏡の中に潜り直すべきか――朱里は迷ったが、結局はそれを取りやめた。向こう側で蜘蛛が待ち構えている可能性を、どうしても否定し切れなかった。


「どうなってんの、これ……?」

 先ほどまでいた場所とは、少し異なっている部分もある。


 窓に、木板が張られていない。

 ということは、と玄関までいけば、やはりバリケードも存在していなかった。


 元の世界ではない。

 かといって、一度目に移動した世界でもない。


「どこ? ここ……」

 ふたつの世界を行き来するのが、カガミワタリなのかと思っていた。


 しかし、目の前に現れたのは三つ目……今まで見て来たどちらとも、違う世界のように思える。移動の法則性も、そもそもこの世界が何のかもわからないまま、しかし朱里はその外を歩いた。あの寮を起点にカガミワタリを繰り返して、いつか目の前にいた蜘蛛にバクリ――そんな間抜けな未来は避けたいと思ったから、どこか別の場所で自分が通り抜けられるような大きな鏡のある場所を、探して歩くことにしたのだ。


 今度は、学校の中にバリケードが築かれているらしい。

 学園校内を歩き回ることで、それが理解できた。


 しかし人の気配も感じない……やはり校舎それ自体もどこか古さが目立ち、廃墟を訪ねているような気分を覚えつつ、彼女は歩いた。


 さらにそこから出て、いくつか店の前や、あるいは駅前の歩行路――そうした場所にある大鏡に、自分の身体を沈めてもみた。しかし、ほとんどその結果は変わらない。滅びたような世界が広がっているだけ。そのどれもが、冬とは思えないほどに暖かい。


 ほとんどあてもないまま歩き続けて……そして彼女は結局、最終的な場所へと辿りついた。


 古河家。

 足が棒になるほども歩いて辿り着いたそこにも、やはり人の気配はない。自分の家を覆う空虚に身を震わせつつ、同時に「帰ってきた」という安堵感に包まれながら、彼女は家の敷地の中へと入ろうとして、


「ん……?」

 奇妙なことに気が付いた。


 確かに、自分の家だ。見慣れている。

 そのはずなのに。


「表札が……」

 古河家は、家の玄関前に律儀に表札を張り付けている。

 そしてそこには、こんな風に名前が書かれているはずなのだ。


『古河 源隆

    弥生

    階

    朱里

    立葵』


 けれど今、目の前にあるのは――、


『古河 源隆

    弥生

    朱里

    立葵』


「お兄ちゃんの名前が……」


 そこから、階の名前だけが抜けたもの。

 よくよく目を凝らしてそれを見つめるが、しかし見当たらない。そもそも表札のデザインが違う。付け替えたのだろうか? 階の名前があったはずのスペースが詰められて、四人の名前だけが整然と並んでいる。


 変な話ではない、と朱里は思う。

 兄はひとりだけ東京に出ていったのだから。今はいない人の名前だけを表札から抜くのは、妙な話ではない。仮に自分が旅しているのが無数の平行世界――パラレルワールドだったとして、ひとつくらいはそういう世界があっても、おかしくはないはずだ。


 しかし、何かが引っかかる……。

 そう思いながらも、彼女は進んでいった。いつまでもぐずぐずはしていられない。もしも何か思いつくことがあるなら、ここに留まらずとも、いずれ頭に浮かぶだろうと、そう思って。


「……あれ?」

 けれど、中に入っても、やはり奇妙な感覚が拭えないでいた。


 まず一つ目に、あまり埃を被っていない。

 最近まで誰かが住んでいたように思える……今までの廃墟と化した場所とは、何かが違う。そんな風に感じる。


 そして同時に、もう一つ。


「……やっぱり、ない」 

 靴箱を試しに開けて、それで確信を強めた。


 階の靴が、そこに一足もないのだ。

 帰省したときに使う用の、くたびれた靴すら、一足も。


 土足のまま、朱里は家の中を歩き回った。

 やはり生活跡がここにはある……しかし、奇妙なくらいに兄の匂いが感じられない。


 まるで最初から、いなかったかのように。


 薄気味の悪いものを背中に感じ始めた。

 これまでも訳の分からない状況だったけれど……これは少し、その質が違う。


 人間が丸ごと消え去っている、というのは大きすぎてさほどの実感が湧かない出来事だが、近しい兄、たった一人だけに狙い撃ちのように異常が見られるのは、規模が小さいだけに何か、自分の身にも降りかかりかねないものを感じる。


 恐る恐る、朱里は二階へと上がった。

 そして階の部屋を開けて……確信する。


 物置と化したその状態を見れば、明らかだった。

 この世界は、兄のいない世界なのだ、と。


 扉を閉めた。

 なんだかんだ言って……他人に比べられてきた苦い思い出と切っても切れない兄だとしたって、それ以外のところまですべて嫌いというわけでもない。コンプレックスはあるが、嫌いというわけではない。そんな兄の存在が消えた世界――嫌な気持ちになるには十分だった。


 そして、そのとき、ふと思い出した。

「そうだ、日記……」


 彼女は日記をつけている。

 といっても、毎日毎日持ち歩いているわけではない。印象的で、記憶に留めたいことがあったときだけに書き込むものを。中学生になってから初めての三年間で、まだ一冊分も使い切っていない、それを。


 自分の部屋でそれを見つければ、何かがわかるかもしれない。

 そう思ったから、朱里は階の部屋だったはずの場所から出て、自分の部屋に入っていった。


 眉を顰めたのは、それがあまりにも殺風景だったから。


「生活感、ないな……」

 物が少なすぎる。


 元々朱里も、あれこれ物を置きまくるタイプではない。それでも、これは置かなすぎだ、と思う。机とベッド、そのくらい。あとはその机の上に無造作に乗せられたシャーペンだけがこの部屋にあるもので、手に取れば近くの大手予備校のネームが刻まれている。


 これではひょっとすると、日記すら――そう半ば諦めながら朱里は机の引き出しを開く。


 一段、二段、

「あ、」

 三段目で、見つかった。


 大学ノートだった。教科書に紛れて入っているのをぺらぺらと捲っていたら、日付の書き込まれているのを見つけた。自分が持っている、文具店でそれなりに小遣いを費やして買ったものと比べると随分淡白なものだったが、しかし、見つけることには見つけられた。


 その薄っぺらい一冊は、二〇一〇年の日付から始まっている。

 こんな言葉とともに。




『きょう、お兄ちゃんがしんだ。』




「は――?」

 しかし彼女は、その内容を吟味するよりも先に、動き出す必要があった。


 がしゃん、と玄関先で音が聞こえてきたから。


「な、」

 日記を引っ掴んで、とにかく外へと飛び出した。


 階段を駆け下りていく――すると、玄関のすりガラスの向こうに、シルエットが見えた。


 あの廃墟と化した寮で遭遇した人面蜘蛛に、そっくりの。

 しかも、一体や二体ではない――わらわらと、大量に。


 一瞬だけ、朱里は尻込みをした。

 けれど、もうやることは決まっている。だから彼女は、すぐに足を前へと踏み出した。


 玄関。その姿見の中へと。

 カガミワタリを使って。


「また――もういい!」

 次々に、彼女は姿見の中へと身体を沈めていった。


 もういい。もう、手がかりは十分集まった。自分ではもう処理し切れない。どこか落ち着いた場所でこの日記を読み込みたい。何かあったらまたこっちに来ればいい。


 それなのに、どれほど分け入っても――、


「何――なんなの、これ!」


 あらゆる出口の向こうで、人気のない、暖かく静かな世界が待っている。

 幾重にも重ねられた静寂の箱――その一番奥に押し込められてしまったように、彼女はここから出ることができない。


 ひょっとして、と思ったときだった。

 ひょっとして、自分の元いた世界も、こんな風に滅びてしまったんじゃないか――。


 そんな風に思ったとき、とうとう彼女は耐えられなくなって、家の外へと飛び出した。


 でたらめに走った。もう自分がどこにいるのかもわからないほど必死で走って、鏡を見ればすぐに身体を沈めていった。もう何度カガミワタリを使ったのかわからない。帰りたい。とにかく、本当の自分の世界に帰りたい――その一心で、彼女は無我夢中で走っていって。


 そして、出会った。


「は――――?」


 彼女の住む町の外れには、森が広がっている。

 きっと、その真ん中のあたり。


 巨大な人間が、座っていた。


「は、え、何、これ――」

 二メートルだとか、三メートルだとか、その程度の話ではまるでない。


 森の外から見上げていた。外からでも、見上げることができたビルだとか、そういうものを見つめようとするときと、同じ角度で。

 ぺたり、と地面の上に座り込む、何キロメートル先からだろうと目に入るような、巨大なその人間を。


 人間ではないのかもしれない、と朱里は思いたがっている。

 ただの、巨大な像なのかもしれない。だって、あの巨大な蜘蛛と同じで、金属のような質感が肌に現れているし、それに、座っている姿は微動だにしていなくて、置物とほとんど変わらないし――、


 けれど、感じてしまう。

 それは、間違いなく生き物なのだと。

 眠っているだけの――自分より遥かに強大な、生き物だと。


 そうと感じてからは、もう朱里も我を失って、何がどうなったかわからない。

 ただ、意識を取り戻したときには、あの学園の寮の中に帰ってきていた。


 あの蜘蛛を見た瞬間に真っ先に尻尾を撒いたはずの場所だったが、それでもあんな人間がいる世界にずっと足止めを食らっているよりかはマシだった。もう一度、一階の鏡の中――始まりのあの鏡の中へと、身体を沈めていく。


 違う。

 違う。

 これも違う。これじゃない。これでもない。


 自分の世界が、どこにも――


「あった!!」


 彼女が叫んだのは、とうとう寮の造りが自分の知っているものに戻ったからだった。


 古めかしい感じが消えている。自分の知っているそれに戻った。たったそれだけのことで――彼女は安心した。自分自身を、安心させた。


 そして安心したことで、心配が溢れ出した。

 あれが平行世界での出来事だったとしたら。


「英梨花……」

 あの蜘蛛のいた部屋のことを思い出す。

 よりにもよって、それは自分の一番の友人の部屋だった。そのことを思い出す。


 そんなわけがない、と心の底では思っていた。

 あんな壊れた世界は、ホラーの話だ。自分のいるこの世界とは違う。パラレルワールドですらない、悪趣味な幻覚だ。


 そう思うのに。

 母の留守。家に来たという不審者。町で発見された猟奇殺人らしき痕跡――。それらが彼女の頭を掠めて、足を急がせた。


 だから、間に合った。


「な――」

 英梨花の部屋の前に、その巨大な蜘蛛が、立っていた。


 しかもその警備をしていたはずの女性警官――その人を、いま、組み敷いて。


「何、これ」

「誰か――逃げてください!! 応援を呼んで!!」

朱里の声に反応して、その警官がこっちを見た。朱里にそう叫ぶけれど、しかしこちらの意識は、すぐに逃げることへは向けられない。


 これは、現実なのか?

 今まで見てきた光景が、悪夢が、こんな風に現れるとしたら。


 自分の生きている場所は――、


「早く!! 逃げて!!」

「――っ!」

 警官の二度目の叫び声に、ようやく朱里は意識を取り戻した。

 

 しかし、同時にこうも思う――逃げるわけにはいかない。


 あれはただの巨大な蜘蛛なんかじゃない――人を襲う。見て来たから知っている。

 ここで自分が逃げ出したら、目の前の警官は死ぬ。


 そして、同時に、英梨花もきっと。


「く、そっ――!」

 警官は蜘蛛の腕から逃れようと、がちゃがちゃと身体を動かしている。が、おそらくは相当の体重差があると見えた。まるでそれは通用しない。身体を浮かせることすらろくにできず――、


「お前っ! やめろっ!」

 その警官の腰から、拳銃が抜き取られた。


 警官が抜き取ったわけでも、蜘蛛が抜き取ったわけでも……ましてや、朱里がそうしたわけでもない。


 この場には、三人目の人物がいた。

 口元に白い傷のある、作業着の、短い髪の男。


 にやりと笑って、それから警官には目もくれず、目の前の扉の鍵に向けて銃を構えて――、





「朱里、どいてろ!」


 聞き慣れた声がして肩を抱かれたのは、朱里がそれを阻止すべく走り出す、その瞬間のことだった。





 反射的な安心を覚える――だって、それは、


「お父、さん」

 父親の――源隆の声だったから。


 発砲音は、傷の男よりも先に源隆の手元から響いた。


 きん、と朱里の耳に痛みが走る。どうやら咄嗟に父が手で覆ってくれたらしいということはわかったが、それでも。


 続けざまの発砲音。

 男は、蜘蛛の影に隠れてそれをやり過ごした。


 蜘蛛が身をよじる。穴が開いている。流石に銃弾に勝てるほどの肌の硬さはしていないらしい。それでようやく、組み敷かれていた警官が自由になる。男に飛び掛かるべく、彼女も素早く身体を起こして――、


「待て!!」

 しかし、男の動きの方が早かった。


 二階から一階へと下る階段は二つある。男は背を向けて走り去っていく。源隆もさすがに、背中に向けて発砲はしない。


「ここにいろ」

 朱里にそう告げて、


「あんたも部屋の警備を続けてくれ! 応援が来る!」

「は、はい!」

 警官にもそう呼び掛けて、男の後を追って走り出した。


「お父さん!!」

 朱里は、思わずそれを追いかけて、駆け出そうとする。


 が、それよりも先に。


「こら、ここにいてって言われたでしょ」

 朱里の肩に置かれた手があった。


 この声も、朱里はよく知っている。

 それは――、



「お母さん……?」



 失踪していたはずの母が、そこにいた。





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