3-4 ごめんね
雨の降る日の昼休みは、教室が騒がしい。
またここにいては江上と話す機会もできてしまうかもしれない――そう思ったから、立葵は図書室へと向かうことにした。
図書室は教室のある校舎には存在しない。音楽室、コンピュータールーム、図工室、家庭科室……そのあたりの設備は、渡り廊下を歩いた先の別棟に存在している。
廊下へと続く扉を開けると、急に冷たい風が頬をなぶって、立葵は肩を竦めた。
瞼と額の温度を奪っていくような冬の空気。それが今は、少しだけ心地よかった。
廊下脇のプランターも、この季節にはひとつも花をつけていない。音も色もなく、遠くに見える校門と、その近くに停められた教職員たちの灰銀色の車に、ぼんやりと目線を向けながら歩いた。
別棟に入っても、やはり空気は冷たかった。
普段使いする場所ではないから、共用部分は外気と大して変わるものではない。むしろ、夜間に溜め込んだ低温をそのまま維持したせいか、かえって外よりも寒いようにすら思えた。
二階へと上がって、図書室の扉を開く。
人影は、ひとつも見当たらなかった。
ほっとそれに、立葵は息を吐く。いつもの光景ではあったけれど、実際に目にしてみるまでは、誰かがいるかもしれないという疑いがどうしても心の中にあったから。
この学校では本を読むことはあまり流行っていない。読む人間が全くいないわけではないだろうけれど、そういう生徒は大抵、家で親に買ってもらった本を読んでいるから、ここまで……黴の臭いが鼻につく、最後に本を入れたのがいつなのかすらわからないような場所までは、足を運ばない。
ひとりになれる場所だった。
本棚に向かうでもなく、立葵は窓辺へと足を運んだ。この別棟のつくりは二階と一階で異なった構造を取っている。そのため二階の方が狭く、図書館の窓の外には一階部分の屋上がある。窓に足をかけて登ってしまえば、そのコンクリートの吹き抜けに歩いていくことだってできる。
その灰色の風景に、雨が降りしきるのを立葵は、見ていた。
小さく円い雫の波紋……それが灰色の黒を深く染めていく様を、見つめていた。
「…………どっか」
ぼそり、と洩れた言葉には、こんな続きがある。
どっか、遠く。
どこか遠くに行きたい、と。
家族仲には、立葵は満足している。これ以上ないくらいだ、とすら思う。
けれど、学校……この場所にいることには、もうすっかり嫌気が差していた。
立葵は自分でもわかっているが、これは真代のことがあったから、ただそれだけではない。小さな町。話の合わない同級生。集団に馴染むために自分を曲げていく感覚――そういうものに、うんざりし始めていたのだと思う。
中学受験をするつもりはなかった。姉ほどの熱意は自分にはなかったし、それにこのあたりの私立中学は公立よりも校則に厳しい。行って、そこにも馴染めなかったらと思うと……。だから、ほとんど持ちあがりのようにして、ここにいる面々とまた三年を過ごすことになる。
どこか遠くに行きたいと思うのは、それが理由だった。
自分が生まれる前からこの場所に置かれている古い書物――それらが記す、自分の知らない場所と時代の出来事たち。人の寄り付かない図書室にはそんな神秘が眠っていて、だから立葵は、どこか……ここではないどこかへ行きたいと、そう思っていた。
もちろん、子どもだからそんなことはできないと、わかっているけれど。
「あ――」
そのとき、がらりと図書室の扉が開く音がした。
突然背後から聞こえてきたそれに、立葵は飛び上がらんばかりに驚く。
そしてそこに誰が立っているのかを認めて……二度、驚く羽目になった。
「六花、」
「ご、ごめんなさい……」
ただ名前を呼んだだけで、けれど彼女は、心から申し訳なさそうに頭を下げた。
「すぐ出ていくから」
「は? いや――」
「ご、ごめんなさい。私のせいで、古河くんにまで変な、あの、そういう風に、なっちゃって」
さっきのことだ、と立葵は思う。
さっきの、江上との会話。あれを真代は気にかけているのだと、そうわかった。
そんなの、彼女のせいではないのに。
「ちょっと待――」
立葵の言葉を聞くよりも先に、真代は扉を閉めてしまう。
追いかけようとする、その足が止まった。
自分で自分に、問いかける声が聞こえたからだ。
追いかけてどうする?
お前があの子に、何をしてやれるんだよ。
何をしてやる、つもりなんだよ。
そんな声が。
慰める、話を聞く――そんなことに何の意味があるだろう。結局自分は、真代の境遇に対して何もできていないのだ。自分は味方だ、だから安心してくれ……そんなことを言ったって、たとえば目の前で、江上が真代を殴ったらどうする? 「ふざけんな」なんて言って、代わりに真正面から殴り合いの喧嘩でもしてやるつもりなのか?
そんな覚悟もないくせに。
足は、止まった。
けれどまた、動き出した。
それに何の意味もないことは立葵自身わかっていたけれど――しかしそれでも、ただそこに立ち尽くしているのはもっと嫌だったから。そんな、消極的な理由のために。
図書室の扉を開く。
二階の面積はひどく小さいから、その先のフロアは人ふたりが両手を広げるくらいが精々で、後は本当の屋上へと続く階段と、一階へと続く階段。それから図画工作室へ続く扉の他には、壁掛けの姿見くらいしか目に入らない。
そこにまだ、真代は立っていた。
よかった、と安心したのも束の間。
彼女は戸惑ったような、追い詰められたような表情で、一瞬だけ立葵を見た。
「何、どしたの」
「あ、や……」
「別に、図書室入ってくればいいじゃん。俺の部屋ってわけじゃ……」
立葵の声を遮るように、大きな話し声が下から聞こえてきた。
それで立葵は、真代がここに立ち止まっていた理由に気が付いた。
「江上?」
真代はそうとは言わなかったけれど、表情の変化を見ればそれで間違いなかった。
下の階に、江上が来ている。
たぶん、取り巻きも引き連れて。
「追いかけられてんの?」
それは「いつもそうなのか」という意味も含んだ質問だったけれど、しかし真代は答えなかった。
ただ一言、こう呟くだけ。
「だ、大丈夫だから……」
そして彼女は、意を決したように、下行きの階段へと、歩みを進めようとした。
ついさっきまで、ここで立ち止まっていた彼女がそうしなくてはならない理由は、これも明白で。
自分がここに来たからだと、立葵にはわかったから。
「こっち」
「え――」
彼女の手首を、はしりと掴んだ。
図書室に行くわけではない。逆向きだった。図画工作室。
どちらも施錠されていないことは、おそらくこの学校で六年間を過ごしたなら誰でも知っている。それでも、図書室よりかは図画工作室の方が「人が来なそう」な場所のようには思えた。
中に入る。施錠しようとして、やめる。立てこもっていると向こうに伝えるようなものだから。
「あの、古河く――」
「いいから」
真代の手を引きながら、その奥――図画工作準備室へと立葵は向かう。
しかしそのノブが回り切らないのを確かめると、静かに落胆した。
ここさえ開いていれば、中から施錠してもバレにくかったろうに、と。
階段下からやってくる声は、段々と近付いてきている。屋上は鍵がかかっているし、今から向かえばフロアで鉢合わせになる可能性が高い。この場所で隠れるしかない。
教卓の裏――論外だった。そんなところは一番最初に探す。机の下はすかすかだからどこにも隠れられない。
「そうだ、外――」
ついさっきまでの図書室での光景を思い出した。この部屋からも一階屋上へと出ることができるはず。
いやダメだ、とすぐに立葵は自分でその考えを否定した。
この雨だ。少し出て行っただけで濡れてしまうのは間違いない。ずぶ濡れのまま次の授業に出るつもりか? 仮にそれを許容したとして、別棟の脇に誰か教員でもいればきっと自分たちが外に出てきたのが丸見えになるし、何より外からは鍵が閉められないから、江上たちが気付く可能性がある。
追いかけてくるだけならまだいい。
でも、もし施錠をされたりしたら、そのまま締め出されてしまう。
「もーいーかーい!!」
江上の大声。それに合わせた、笑い声。
もう時間がない。
立葵が取れたのは、結局、とても単純な行動だった。
「六花、中入って!」
「え」
図画工作室の後部には、作品を置くための棚がある。今は五年生の粘土細工が置いてある場所……その下に、空っぽの物置スペースが存在しているのだ。
中には何も入っていない。ふたりでだって、身体を押し込めれば入ることができる。
「でも、」
「いいから」
真代が入っていく。その後から、立葵も中へと身体を押し込める。自分が江上に見つかって、なんでこんなところにと訊かれたら、芋づるで真代のこともバレてしまう。立葵もまた、姿を隠す必要があった。
慌てて、内側からどうにか、扉を閉めることができた。
真っ暗。
それから、別の扉が開く音がした。
少し遠い……たぶん、図書室側の扉だろうと立葵は当たりをつける。
見つけようと思えば、簡単に見つけられてしまうような場所だ。できればこっちの部屋に入ってこないでくれ……そんな風に、心の中で祈っている。
暗闇だった。
それほど中のスペースは広くないから、ところどころ、真代と足が触れている。冷たい空気の中で、お互いの息する音がひどく近くで聞こえている。
「――――」
何かを、真代が言った。
短い言葉。万が一にも扉の外に聞き取られないようにしたのだろう。立葵にすら、その言葉は届かなかった。
「なに?」
同じく微かな声で、立葵は訊き直す。
すると真代は……暗闇の中で少しだけ体勢を変えたらしい。立葵の頬のあたりに、目の前に何かがあるときに特有の圧迫感が現れた。そして彼女の髪らしきものが、さらりと肩に触れてくる。
耳元で囁くように、彼女は言った。
「ごめんね」
違う、と立葵は言おうとした。
お前のせいじゃない、と言いたかった。
けれど、それを口にするより先に。
扉の外から、江上たちの悲鳴が響いてきた。
゜。゜。゜。゜。
寮の前には、何人かの警官が立っていた。
いったいなんだろう、と口にしようとして、自分の白々しさに朱里は呆れる。そんなことは決まっていた。どう考えても、土曜日に父が来たあの件……それと繋がっている。
呼び止められるかと思ったが、そんなこともなかった。昼休みに忘れ物を取りに来ている粗忽者の寮生たちに紛れて、難なく中に入ることができた。
いったい何のためにここの警備をしているんだ……とも思ったけれど、中に入ってみてその余裕の理由に気が付いた。英梨花の部屋の近くに、女性警察官が立っていたのだ。
これでは流石に……と朱里も思わず尻込みした。
いつからいるんだろう、と不思議になる。まさか土曜日からずっと、あそこに立っていたのだろうか。だとしたら随分ものものしい。
それだけ危険な状況なのだろうか。
真正面から行くのは憚られた。寮外生が寮内に入っていい時間は決まっているのだ。一応生徒会に入っているわけだし、ここでルール違反を見せ付けたくはない。
だから、しばらくその警察官がトイレに行くタイミングでもないかと物陰から様子を窺って……けれど結局、昼休み残り十分になっても、その時は訪れなかった。
ダメだ、とさすがに諦めた。
放課後また来ることにしようと、そう思った。兄の迎えのタイミングを早めに指定してしまっていたのは、あとで携帯で連絡しておけばいい。
そして朱里は踵を返して一階まで降りて――そのとき。
廊下にかけられた、大きな鏡に気が付いた。
「…………」
無言で彼女は、それを見つめる。
あの鏡だった。
あの金曜の夜、自分の姿を映さなかった。
そして土曜の昼、初めて自分の指を沈めた、あの。
たっぷり二日ほど、考える時間はあった。
そして彼女の中には――ひっそりと、温度を持って燃えるものがあった。
好奇心。
家では、なんだかんだと常に兄や弟がいた。そして自室には姿見がない。だから、下手にそれを試すことはできなかった。
けれど、今は。
「……いない、よね」
きょろきょろと、左右を確認する。
人影は、ない。
今なら。
「……うわ」
ずぶずぶと、指が沈んでいく。
やがて指の付け根、手首、前腕とどんどん身体が飲み込まれていく。
どこへ行くのだろう?
指先には、何の感触も覚えない。この鏡の先は、どこへと繋がっているのだろう?
馬鹿げている、と朱里は思う。
こんなことあるはずがない、と思う。
けれど現実、今こうして肩口まで、自分の身体は鏡の中へと沈んでいる。
さすがに顔まで入れるのは怖いから、次は足でも入れてみよう――そう、彼女は考えて。
その瞬間だった。
「あ、」
足先が、何かに当たる。
驚く。体勢を立て直そうとして、しかし鏡の中に突き入れた手は何も掴むことができなくて。
それは本当に、呆気なかった。
彼女は鏡の中へと消えていく。
誰もいない女子寮に、静寂だけが響いていた。