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3-2 雨飛沫



「珍しいな」

 と英語の教師に笑われた。


 学園高等部一年生の教室で、朱里はひっそり物思いにふけっていた。

 後ろ側窓際の席で、ベランダの手すりに雨飛沫が立つのをぼんやりと眺めながら。


 そして色々なことを考えていた――たとえば、手鏡の中に入ってしまう自分の指のこととか、いつまで経っても帰ってこない母のこととか、落ち込んでいた弟のこととか、それから、月曜の朝から教室に姿を見せない佐倉英梨花のことなんかを。


 おそらく、と心の中に推測があった。


 あの手首の事件のことだ。


 唯一の手掛かりがそこしかなかったから、自然、思考の焦点はそこへと向かっていった。鏡の中に入る指、そんなものはいくら理屈をこねたところで問題外だ。母もあんな上機嫌な書き置きひとつでは何も推理の余地もないし、弟の問題は……向こうから相談してこない限りは、ある程度は弟自身の問題だろう。子どもには子どもの世界がある。


 だから、唯一。

 英梨花の休んでいる原因――それは明らかに、あの土曜の朝に父が来たことと無関係ではなくて、そしていま父が関わっている事件はといえば、連日テレビで報道されているアレのほかに見当たらないから。


 そのことについて、思いを馳せていた。


 ニュースが言うには、金曜の昼ごろ、市の外れの森の外れでその鞄は見つかったそうである。

 発見者は犬の散歩に出ていた老年の男性。誰かの忘れものかと思い近づいたところ、妙な血臭を嗅ぎ取り、これはひょっとすると触らない方がいいのかもしれない、と中身を確認しないまま、警察に通報したそうである。


 そして駆けつけた警官は中身を見て驚いた――そこにあったのは、人の手首、六十六本だったそうである。もちろん、切断された状態で。


 それ以上の報道は何もされていない。大量殺人事件なのではないか、と日曜日のニュースでは何度も取り沙汰されていたが、警察発表資料が少ないらしく、ほとんどは面白おかしく騒ぎ立てているようにしか、朱里の目には映らなかった。


 英梨花とこの事件には、おそらく関係がある。

 しかし、それは一体どういう関係なのだろう。


 そんなことを考えていたら……急に「それじゃあ古河」と名前を呼ばれた。


 それに驚いて前を見れば、三十代の英語教員が教壇に立ちながら教科書を手に笑っていた。


「読んでくれ」

「あー……。えっと……」

「聞いてなかったな?」


 はい、と正直に答えれば、「珍しいな」と彼は笑って、音読すべき場所を教えてくれた。席に座ったまま、朱里は指定された箇所をすらすらと声に出していく。


「うん、完璧。物足りないだろうから、ついでに和訳もしてもらおうか」


 あとは言われるがまま。

 朱里は予習も復習も完璧にするタイプだから、教科書レベルの内容で詰まることはない。


 和訳を聞き終えた教員が「まいったな。解説するところがなくなった」なんて言って黒板に向き合うのを視界に収めながら、ふと、朱里は思い立った。


 昼休みにでも、英梨花の様子を見にいってやろうか、と。

 どうせ、学生寮にいるはずなんだから。




゜。゜。゜。゜。




「もしもし?」

 国際法の基本書を開きながらコーヒーを啜っていると、ちょうど電話が鳴りだした。


『おう、いま大丈夫か』

「うん。どした?」

『いや、それがな。今日も帰れそうになくて……』

「え。大丈夫なの?」


 階は椅子を回して立ち上がる。ベッドの上に腰かけてから、暖房の効いた部屋の中、携帯から父の声が流れ出てくるのに耳を傾けていた。


『おっさんの体力にはきつい……ってのはともかくとして、お前、警察署の場所ってわかるか?』

「あー、うん。なんとなく。カーナビ入れれば」


 そして源隆が続けたのは、着替えを持ってきてくれないか、ということだった。


「いいけど……今すぐ?」

『いや俺もちょっとすぐまた出ることになるから……。三時ごろがいいかな』

 階はちらり、と時計を見る。現在時刻は、十一時二十分。


 いいよ、と軽く答えた。

「その足で立葵と朱里、拾ってきちゃうから」

『悪いな。勉強、大丈夫だったか?』

「別に、普段からやってるから平気だよ」


 大学生の発言とは思えん、と父が言うのに、はは、と階は笑う。

 それから、着替えと言っても何をどのくらい持って行けばいいのかを聞き取って、細かくメモに書き留めた。


 それじゃあ頼む、と源隆が言う切り際、階は口に出した。


「あのさ」

『うん?』

「虐待通報とかって、警察がやってるの」

『……なんだ急に。心当たりでもあるのか?』

「あ、いや。そんなはっきりしたやつじゃないんだけど……」


 少しだけ源隆は、悩むような空白を開けて、


『悪いな。ちょっと俺も長く電話はできないから……。通報用のダイアルがあるから、それだけ教えておく』

 そう言って、三桁の数字を口にした後、


『悩むんだったら、次に帰ったタイミングで時間を取るから、そのときにちょっと話そう』

「ありがと。助かるよ」

『こっちこそ。悪いが、頼んだぞ』


 それを最後に、電話は切れる。

 階は携帯を枕元に置いて、それからべたり、と背中を布団に投げ出した。


 そして、思い出している。


 土曜日に訪ねた六花家。あのとき……父親らしき人物が帰ってきたときの、真代の怯えたような様子。

 それに、その姉――祭世の死。そのふたつを結び付けて考えたとき、どうしてもあまり愉快でない想像が、頭の中をぐるぐると巡ってしまっていた。


「考えすぎ、だろうけど……」

 呟いた言葉は、乾燥した部屋の空気の中で、大して反響するでもなく消えていった。


 理由が欲しいのかもしれない、と階は少しだけ距離を置いて、自分の心を観察した。


 自分の知らないところで六花祭世が死んでいた……その理由として、何かを欲しがっているのかもしれない。だから、たった一瞬、あの六花家で見たものに、異様なまでの不穏さを見出してしまうのかもしれない。


 客観的に見れば、あのとき悪いのは自分の方だったのだ。

 家主のいない間に、子どもの導きのままに部屋に入り込む――もう大学生にもなれば、扱いは大人とまったく同じだ。それを考えれば、退出を要求されるのはある程度正当性のある出来事にも思える。


 そう、だから、ほんの少し六花家を見たくらいで虐待だのなんだのと想像を巡らすこと自体……本当だったら失礼極まりないことなのだと、階はわかっている。


 わかってはいる、けれど。


「立葵が帰ってきたら……」

 少し、あの真代という子がどんな子なのか、訊いてみようか。


 今はそう思うだけにして、階は身体を起こした。とりあえず、まだ時間はあるけれど、父に持っていく着替えの準備だけしておこう。時間のギリギリになってバタつくのは、あまり趣味ではない。



 そのとき、こつん、と。


 窓に、何かが当たる音がした。



「…………?」

 一度なら、空耳として聞き流したかもしれない。


 雨が降っているから、その音が変わった響き方をしただけだろうと聞き逃すことだってできたかもしれない。

 けれど、それは数回、こつ、こつ、と明らかに、窓を鳴らしていた。


 だから階は、窓辺に近寄って、その音の正体を確かめた。



 そこには、人が立っていた。



 庭先。目線を下ろした先で、黒い傘を携えた人が、こちらを見上げるようにして立っていた。その顔は傘に隠れているから見えはしないけれど、その身体の傾きからそうと察することができる。手には何かを握っているようで、ついさっき窓を叩いていたのは投げつけられた小石だったのではないか、と階は思う。


 雨が降っている。


 じっと。

 その男は、雨の中で、この家を見つめていた。




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