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1-1 十二月の、十八日



「すごい荷物ですね」

 改札の手前でかけられたのは、そんな声だった。


 振り向くと、見慣れた顔が立っている。サークルの後輩の霧寺(きりでら)。最寄りの駅が同じだから、時間割の被っている水・木・金あたりはだいたい似たような行動パターンになって、こんな風に顔を合わせることも珍しくない。


 すでに辺りは冬の景色だった。十二月。切符売り場でICカードをチャージする人々も、手袋を嵌めたままで紙幣の出し入れに苦戦している。午前十時の駅構内は学生の姿も家族連れの姿もほとんど見当たらず、東京都内の駅にもかかわらず、やや閑散とした空気すら漂っていた。


 もっとも、それでもその「すごい荷物」の男――古河(こが)(かい)がかつて暮らしていた町よりかは、幾分賑わいのある光景だったけれど。


「重くないんですか」と霧寺が言う。

「めちゃくちゃ重い。鞄が破けないか心配なんだ」

「図書館で借りた本でも? あ、画集ですか」

「いや、ただの教科書。俺、これから帰省するから」

「え」


 階が改札を通る。霧寺がその後ろをぴったりくっつくようにして、追いかけてくる。ホームへ向かうエスカレーターに乗れば、彼女もまた続いてきた。


「でも、まだ……」

「そうなんだよ。まだ授業、結構あるんだよな」

「休み、いつからでしたっけ」

「二十六から」


 階は腕時計に目をやりながら言う。三時の位置に小窓として表示されている日付は、十八。


 十二月の、十八日。金曜日。

 まだ大学の年末年始の休講までは、一週間はある計算だった。


「大丈夫なんですか」

 心配そうに訊ねる霧寺に、階は微妙な笑みを浮かべて、

「なんとかなる……はず。出席取る講義はないし、結局試験さえ通ればどうにかなるから……」ぼす、と鞄を叩いて、「で、基本書さえ読んどけば、法学部は普通に単位来るって話だし」


「あの、」よければ、と霧寺は言う。「私、どの講義を取ってるかだけ教えてもらえれば、代わりにノート取ってきますよ」


「いや……」階は戸惑って、「それじゃ、霧寺が困るだろ。教養課程は教科書も参考書もない講義、結構あるんだから。てか逆に、霧寺こそノートが欲しいやつあったら言ってくれていいよ。俺、去年結構ヒマで単位取りまくったから」


「あ、えと、」霧寺は、なおも何かを言おうとして「そう、ですね。ありがとうございます……」何も言えずに、俯いた。


 エスカレーターが上り切る。

 電光掲示板を見上げれば、あと五分程度、次の電車までは余裕があった。ホームの人影はやはりまばらで、色彩を失ったモノトーンの線路ばかりが目立つ。見上げれば、いかにも冬の曇天らしい重たげな雲が、灰色のビルを押し潰すようにして空を覆っていた。


「それより、いいのか?」

「え?」

「こっちの電車、大学と逆だけど……」


 一瞬、霧寺はきょとん、とした。いま自分は何を言われたのだろう、という顔。


 やがて自分の目にしている光景が、いつもと角度の違うものだと気がついて、「あ゛」と声を上げた。


「ついてきちゃったか」

 階が笑って言えば、

「はい……。先輩の背中しか、見てませんでした」

「早く向こうのホームに行った方がいいぞ。二限の電車、次が最後だろ」

「いえ、いいです……。なんだかもう、二限は出る気が失せました」


 なおも彼女は、階の傍を離れないまま、

「ところで、帰省にしても随分早いですね。何かするんですか?」

「あー……」


 言いにくいそうに、階は頬を掻いた。

 霧寺もそれを察したらしく、「あの、無理には……」という台詞の「あ」の形に口を開いたところで、「まあいっか」と階は話し出す。


「なんか、母親が出て行っちゃったらしくてさ」


 霧寺は、何の言葉も継げなかった。

 思わぬ言葉の重さ……彼女が想像していたのとは随分大きく違ったのだろう、それに驚いて、何の反応も示せないでいた。


「うち、高校生の妹と小学生の弟いるし、父親も仕事忙しいから……。まあ、世話係とか、そんな感じ。別に要らないような気もするんだけど、やっぱり別に、法学部の講義って出てもそんなに意味ないし……」


 そこまで言ってから階の方も、霧寺が黙ってしまったことに気がついて、

「あ、いや。全然深刻な感じじゃないから。なんか書置きとかもちゃんとあって、喧嘩別れっぽい感じでもないらしいし……」

「あ、そ、そうなんですね」

「そうそう。だからそんな……ごめん。こんな話いきなりされても、困るよな」


 いやそんな、という霧寺の声は電車の到着を予告するアナウンスにかき消された。ちょうどこの時間には二つのホームに同時に電車が来るらしく、向かい側でも同じような言葉が流れるのが聞こえてくる。


 走れば間に合うぞ、と階は言った。

 が、霧寺は動かなかった。


 不思議に思って階が、彼女の俯いた顔を覗きこむ。

 すると彼女は、急にぎゅっと両拳を握った。何かを決意するような動作。そして、それほど長くない髪がばっと音を立てるような勢いで、顔を上げた。


「あの、」

「うん」

「な、何かあったら、いつでも連絡、してください」


 途切れ途切れ、ずっと長いあいだ海で溺れていた人間の、第一声のような言葉だった。


 階はその勢いに一瞬だけ戸惑う。

 けれど、すぐに笑って、


「――ありがとな」


 電車が来る。扉が開く。

 階だけが、重たい荷物を抱えてそれに乗り込んでいく。


 扉が閉じて電車が動き出しても……ずっと、霧寺はホームに立って見送っている。

 それを階は、彼女の姿が見えなくなるまで、電車の中からぼんやりと見つめていた。




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