ペンギンズ・メモリー
1
カバンの中にはわたせなかったチョコレートがある。
二月十四日って日に意味があるんだから、もう捨ててもかまわないようなものなんだけど、今さらどうすることもできないこのつつみを、カバンの中に入れてもうすぐひと月になる。
だってしょうがない。テキは手強すぎるんだから。
だからあたしは、今日もカバンの右の隅に残したまま、教科書やノートを取り出す。ふたを閉める時に手が止まってしまうのは、やっぱりミレンなんだと思う。
「なんかおまえさあ」
『テキ』が、うなるように言った。
隣の席っていうのが、やっぱりまずかったんだと、あたしはしみじみと思う。
決心して、ちょっと早く来て、心の準備して、わたすんだと思って、教室に入ったら、いつもならいない筈の人間がいたんだもん。驚いて、用意していたはずの言葉も、心の準備も、笑顔も、みーんなどっかへ行ってしまったわ。
そんなあたしの気持ちを知らない『テキ』はじーっとあたしの顔を見て、眉間にシワを寄せた。
「最近、元気なかったりしない?」
「………あんたって……」
あたしはうーんと、唸って慌てて返事を考えた。
「いきなり、何を言うかと思えば」
「ほら、やっぱりさあ、隣の席のヤツが元気なかったりすると、右足は鉄のゲタ履いて左足は普通のゲタ履いて歩いてるような感じにならない?」
相変わらずヘンな奴だなあ。
「一つ訊いてもいい?」
「うん?」
「あんた、鉄の下駄履いて歩けるの?」
じーっと黙ってあたしの顔を見る『テキ』の顔が、『心配してソンをした』ってふうになるのを見届けて、あたしは少し安心した。
「元気そうでなによりだ」
ただ一言そう言うと、『テキ』前島は席を立った。
だって、ねえ。
いくらトモダチっていったって、言えないことくらいあるよね。
それはもう、ホントに塵が積もってこーだいな土地になってしまった夢の島みたいに。
弱小バスケット部は、部員の数はちゃんといるのに、試合に出て二回戦より先に進んだことがない。それは、男子も女子も同じで、だからか、男子部と女子部はとっても仲がいい。試合の時間が重ならない時はお互いの応援団になるくらいに。
そんなバスケ部であたしと前島はそれぞれ補欠をしていて、つまり、その程度の実力しかないんだけど、『情熱は誰にも負けないよね』と言い合った仲だった。
あたしは前島のことをトモダチとしか見ていなかったし、それは前島も同じだったと思う。−−去年の春までは。
そう。去年の春までは、前島は気のいい男友達で、補欠にしかなれない同じバスケットバカで、クラスメイトだった。
学年末試験の関係で午前中で学校が終わって、部活もないからブラブラと駅に向かってる時、前島が自転車で通りかかったのだった。あたたかい日で、足下を見れば、ぽつぽつと春の花が咲き始めていて、空は青くて、あたしはペンギンの事をつい、しゃべってしまったのだ。
「なんだかペンギンが空を飛びそうな日だよね」
言ってしまった瞬間、前島にバカにされる光景をリアルに思い浮かべてしまったあたしは硬直してしまった。身構えて、おそるおそる前島の方を見ると、あたしの想像していた表情と違っていた。
「あ………あははははっ」
笑ってごまかそうとしたら、前島は自転車から手を離して、あたしの両肩に手を置いた。がったんと自転車が倒れるのもかまわずに、なんだか妙に嬉しそうに前島は「そうだよなー」と言いだした。
「おまえもやっぱりそう思う? ペンギンは空を飛ぶよなっ」
あたしはうなずいていいのか悪いのか、やっぱり悩んでしまった。冗談ではなく、嘘でもなく、あたしはペンギンが空を飛ぶのを見たことがあった。十年以上も前、今より空がほんの少し遠かった頃、一度だけ。
あたしが黙っているのをいいことに、前島は興奮して両の掌を握って横を向いて空を見上げた。
「ペンギンは進化して、空を飛ぶんだ」
まっすぐ前を見て、真剣な顔をして、一生懸命に飛ぶその姿が瞼に焼きついていた。誰も信じてくれなかったけど、あれは絶対にペンギンだった。
「うん。そうだよね」
誰も信じてくれなかった話を、あたしはもう一度してみた。前島は信じてくれた。それだけで充分だった。
トモダチという関係に終止符を打とうと思ったのはあの光景を見たからだと思う。
秋の夕暮れ時、体育館横のイチョウの木の下で、隣のクラスの女の子が前島を見上げていた。きんいろの空気の中で、二人は一枚の絵のようで、その時初めてあたしは、そうじゃない可能性に気がついた。前島がその女の子をふったという話を耳にした時、あたしはほっとしたのを覚えている。
なんとなくうやむやな関係のまま半年が過ぎて、あたしはあたりまえのように近くにいた。それは、トモダチ以上でコイビト未満で、あやふやで、居心地が良くて、ぬるま湯の中にいるような気分だった。けれど、それは錯覚だということに気がついた。
前島は、悪く言えば八方美人だ。良く言えば、社交的だ。社交的で、友達は男女を問わず沢山いて、あたしはその中の一人に過ぎない。
同じ部活で、同じクラスで、補欠『同志』で、一緒にいる時間が、他の女の子と比べて少し長いだけで、ただ、それだけで。
あたしは決心した。実行に移すまでに四か月もかかったけど、きっかけという点で見れば、バレンタインデーは最高だと思ったから、二月十四日に告白すると、決めた。
…結局、できなかったけど。
さて、どうしようか。
チョコレートは、腐らないけど。そう思うけど。溶けてどろどろになって、ペンギンには見えないかもしれない。
「やーまーぎーしー」
名前を呼ばれて、あたしは少しドキドキした。
タイムリーというか、偶然ってコワイわねーっていうか、まあ要するに前島のコトを考えていたんで、ちょっとびっくりしてしまった。よく考えると全然偶然じゃないんだけど。
「なに、驚いてるの? なんかヤラシイことでも考えていたとか」
頭の上から声が降ってくるんで、あたしは座ったまま、見上げてみた。前島が片手にパンを持って、あたしの後ろに立って見下ろしていた。意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「あ、チョコチップパン。少しわけて」
「その鼻の頭のバンソーコーの理由を言ったら、わけてやってもいーかな」
「いっじわるだなー」
見てたくせに。
体育の時間、男子は隣のコートでバレーボールをしていた。女子もバレーボールをしていて、あたしはアタックをしようとしてトスを顔面にぶつけてしまったのだ。顔を押さえながらちらっと男子コートを見ると前島と目が合ったから、見てたに違いない。
どさっとあたしの隣に腰を降ろした前島は、理由を聞く前にパンを半分くれた。
「ありがと。いじわるって言ったの撤回するね」
部活が終わって、疲れて、サッカー部を見るともなしに眺めていたらやって来た前島は、一体なんの為に来たのだろうかとか、男子はもう終わったのかなとか、やっぱり土曜日は早く終わるな空が青いなとか、いろいろ考えて、結局あたしは黙っていた。
「別にしなくてもいいけどさ、調子悪いんじゃないの? 理由あるなら言わない?」
「理由ねえ……」
あたしはチョコチップパンにかぶりついて空を見た。
「俺としてはさあ、『同志』のおまえが元気ないのは張り合いがなかったりするんだよね」
「……うん」
「まさかさあ、三年になったら、やめるとか言ったりするわけ?」
あたしは改めて驚いてまじまじと前島を見た。
「やめるって、受験勉強の関係で?」
前島は大きく頷いて、安堵の溜息を漏らした。
「訊き返すってことは、考えてないってことだよな」
「ああそうか。前島は、下手だけどバスケット好きな『同志』がいなくなるのを恐れたわけね」
頷いてから、前島はふといぶかしむようにあたしを見た。
「……じゃ、なんなわけ? 俺、ここんとこずっと考えててさ、おまえ辞めたら一人下手なのが目立ってしまうとかさ、やっぱ受験考えなきゃいけないのかなーとか。……違うってことは、ま、いっか」
「バスケ部はやめないよ、県総体が終わるまでは。やっぱり、下手でも好きだから」
それだけのこと。だよね。やっぱり。
残念なような、ほっとしたような。
あたしはチョコチップパンをほおばって空を見上げた。
そういえばこんな時季だった。
覚えてるかな。前島は。
「帰ろっか。心配をかけたお詫びに、缶ジュース一本ぐらいはおごるよ」
にっこり笑って言うと、前島は至極真面目な表情になった。
「……エビで鯛を釣ってしまった気分だ」
相変わらずヘンな奴だ。
エビで鯛を釣った前島は無言で自転車を引いている。
あたしはやっぱり緊張して、けれど何気ない調子で空を見ながら前島の隣を歩いていた。
少しほこりっぽい空気が春だなあと思う。
足下にはタンポポや、青いじゅうたんみたいなオオイヌノフグリやつくしがあって、きっとそのうち桜が咲き始める。
「あ」
空を見ていたあたしは始め、信じていなかったのだ。
−−けれど。
「なに? 山岸」
あたしは口を開けたまま、前方を指さした。
黒い点。始め、あたしはカラスかと思っていた。
「ん?」
あたしの指した方向を前島は見て、もう一度あたしの方を見た。
あたしはバカみたいに少し大きくなった黒い点を指したまま、前島の顔を見る。
「だから」
ほら、あれ。
もどかしくてしょうがない。
丁度忘れてしまった言葉を、あたしが一生懸命探していると、前島は再度空を見た。そして、動きを止めた。
「あれって……」
十数年前の映像とオーバーラップした。
飛んでいたのは、カラスでも、コウモリでもなく、ペンギンだった。あの時と変わらず、まっすぐ前をみつめて真剣な顔をしていた。
「すげーや……」
前島が呟いた直後に、ペンギンはなんの前触れもなく、いきなり、墜落した。
もう一本向こうの道の方だった。
どうして? だとか、なぜ? だとかそんな言葉だけが頭に浮かんで、あたしはこれは夢なんだと信じたかった。
「山岸」
名前を呼ばれて我に返ると、前島が左手を差しだした状態でいつの間にか自転車にまたがっていた。
あたしは手に持っていたカバンをわたすと荷台に飛び乗った。
「ちゃんとつかまってろよ」
うなずいて、前島の腰に手をまわして、あたしは目をつむった。
夢なんかじゃない。
はっきりと、頭の隅で妙にはっきりとリアリティーをもって判っていた。
あれは絶対に夢なんかじゃなかった。
どうしてこんなことがこんなに気になるのか、自分でも判らなかった。
驚くべきことは、ペンギンが落ちたことではなく、ペンギンが空を飛んでいることだということも、頭の中では判っていた。
−−けれど、体がそういうふうには動かなかった。
落ちていったペンギンを追って何になるんだろう。もう死んでしまっているかもしれない。大怪我を負って、助からないかもしれない。−−あるいは、大した怪我でなくても、あたしを見て逃げだすかもしれない。そんなことを考えても、やっぱりあたしはペンギンがどうなったか、ちゃんと生きているか確かめたかった。
ブレーキが軋んだ音をたて、自転車は横滑りしかけて止まった。あたしは停止するかしないかのうちに駆けだして、転びかけながら家と家との間の小さな空き地に入っていった。
「や、山岸っ」
前島の慌てた声が聞こえる。
あたしは横たわった黒い物体を見つけてしゃがみこんだ。赤いクチバシの小さなペンギンだった。
うつ伏せになっているペンギンを仰向けにし、心臓とおぼしきところに耳をあてる。
トク、トク、トク、トク……
あたしは大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「おまえ、無茶苦茶……。……生きてた?」
歩いてきた前島が訊いてきたので、あたしは頷いた。
「打ちどころが悪かったのかな」
覗き込む前島はずいぶんとひどいことを言う。
「気絶してるだけみたい」
「ケガはしてないみたい?」
「うん」
翼の具合も、体を触った感じも、羽が乱れていない様子からも、よほど落ち方が良かったって感じがする。
「良かったな」
ちょっとフクザツな顔をして、前島が言った。
あたしは頷こうとしておかしいということに気付いた。
「……ねえ、前島。それはあたしのセリフだよ」
今はどうかは知らない。でも一年前は『ペンギンは進化して空を飛ぶんだ』と言っていた前島だ。あの時の真剣な表情はどこへ行ったんだろう。
「俺もそう思うんだけどね」
苦笑して、前島はペンギンを見下ろした。つられてあたしもペンギンを見て。
「やけに、真剣な顔してたからさ」
「……うん」
うん。
「ほら、いつだったかさ、言ってたじゃない。空飛ぶペンギンを見たことがあるって。もしかして、お知り合いだとかさ」
「………」
こーゆー奴だよね、こいつは。
「あれ? 違うの?」
きょとんとして、前島はあたしを見つめた。
「どうして、そんなふうに考えるんだか、あたしの方が知りたい」
「じゃ、なんで?」
じゃ、なんでって。なんでって……。
「ひっみつだよー」
言えるわけがない。
言うわけがない。
「ケチだなあ」
前島はつまらなそうな顔をして呟いた。
でも、ちょっと考えれば判るのかもしれない。
あたしは、判ってほしいのかもしれない。
とってもカンタンな話。ペンギンが何を示すのか。
前島にとっては大した話ではなかったのかもしれないけれど、あたしにとっては大した話だったってことを。
「あははは」
笑って、ごまかして。あたしはペンギンをじっと見る。
「こいつ、すごいよねー。本当に飛んじゃってるもん」
「おうっ。俺、今、すっごく感動してるんだぜっ」
「生きてて、良かったね」
「うん。−−あ」
ペンギンがぱっちり目を開けた。
つぶらな、真っ黒な瞳を見開いた。
そして、まばたき一つ。
一瞬の間の後、飛びすさり、あたしたちから三メートルくらい離れてから、走りだした。
それは助走だった。すごい勢いで走って、羽をばたつかせて、地面を蹴った。ふわりと宙に浮いた時は、まるで目の錯覚のような感じがした。
あっけなく、あっという間にペンギンは飛んでいってしまった。
青い空に黒い点が一つ。その点が消えた時、あたしたちはどちらからともなく笑いだした。
「あっけなかったねー」
「鶴の恩返しって嘘だよなー」
「だって、知らないんだよ、さっきのペンギンは。助けてもらったってこと」
前島はちょっと考えて。
「俺たちって、あいつを助けたっけ」
「………」
顔を見合わせて。
「そーだよねー」
運の良かったペンギンは落ち方も良くて、ケガ一つなくて、見かけた人間も捕まえようなんて考えないようなあたしたちだったからこそ助かったんで……。きっと、ただ恐い目にあったと思ってるんだろう。助けたと思っているのはあたしたちの勝手で、悪気がなくても、誠意が必ずしも伝わるとは限らない。
それは正しい考え方で、だから少し哀しい。
「しまったなー」
前島は腕を組んでうなった。
「無理やりにでもサインもらえば良かった」
前島は、期待してなかったんだろうか。
ほんの少しでも。
「サインってどうやって?」
「足形をとる。空飛ぶペンギンの足形。一生モンの宝物だよなー」
「ペンギンさん、逃げられて良かったね……」
あたしは溜息をついた。
「おまえね、今頃あのペンギンは俺にサインしなかったことを後悔してるかもしれないんだぜ?」
「その自信はどこから来るのよ」
「んなもん、やってみなくちゃ判んないじゃないか」
前島は、期待してなかったんだろうか。
「頼めばサインしてくれたと思う?」
あたしは思いっきり顔をしかめて聞いてみる。
どうでもいいけど、あたしたちは空き地に座り込んだままだ。
「バカか、おまえ。相手はペンギンだぞ、ペンギン。いくら飛べるようになったからといったって、ペンギンが人の言葉を理解できると思うのか?」
「じゃ、どうやって後悔するのよ」
「バカか? サインっていうのは気持ちの問題で、なんだか判らなくて恐くて逃げてしまったけど、もしかしたらさっきの人達は悪い人ではなかったかもしれない。慌てて逃げて悪いことをしたなあっていう後悔なんだよ」
「あ、あんたねえ……」
あーっ、なにを考えてるんだか。こいつはっ。
あたしは今、にわかにとんでもなく前島の答を期待したのに、損をしたじゃないかっ。
「おまえ、あきれるけどね、所詮ペンギンはペンギンだぜ? 複雑な感情を持っていたとしても、人間と同じ価値観とは限らないじゃないか」
「……」
目から鱗が落ちた。
「そーれは考えなかったわ」
あたしは、お礼が欲しかったわけじゃない。それでも期待していた。
おんなじだね。
あたしにとってペンギンは特別なものだったけれども、ペンギンはペンギンで、やっぱりペンギン以外のものではなくて。
きっと、チョコレートをわたせてたとしても、ペンギンの意味に気付くこともなくて。あたしの独りよがりで、これじゃ、なんの為に言葉があるのかわからない。
「そーだろ? やっぱ俺って頭いいから」
こーゆー奴だから。
きっと言わなきゃ判らない。
「あのね」
2
ペンギンズ・メモリー 2 ・・空がとんでもなく青い日・・
同志だね!
山岸にそう言われた時、ああそうなんだと、やけにすんなりと納得した。
下手でも好きであればいいと思えた。
それ以来、あいつは、一歩前を歩いている。
バスケ部に入部して以来−−。
ピッとフエの音がする。隣のコートでは女子がバレーボールをしている。三年生にもなると、楽しく運動ができればいいということなのか、やっていることがお気楽だ。三、四組の合同授業で、何チームか作って、リーグ戦をするらしい。壁にはった勝敗表がその意気込みを伝えている。
サーブは山岸だった。同志だ。うちの学校のお気楽なバスケット部の補欠にもなれない部員同士だ。
山岸は、中学校時代はバレーボールをしていたと言っていただけのことはあるサーブをしていた。そしてそれが、相手コートのネット際に落ちる。
「なによそ見してんの、前島」
「……女子の脚がまぶしいなっと……」
「−−ふむ。山岸じゃないか、あれ」
隣に座って、一緒に男子の試合を見ていた小出は、腕組みをして、感嘆の溜息を漏らした。
「うまいなあ……」
「バレーやってたって言ってたからなあ……」
山岸に、ちょっとオーバーなくらいに、嬉しそうに声をかけている女子がいる。確か久野とかいう娘だ。
「そーなんだ。……おおっ、かっこいいぞ、バレーボールの選手のようだ」
山岸のサーブを見て、小出はまたまた感嘆していた。だが、今度のサーブはちゃんと拾われた。せっかくネット前に上げたのに、トスもせずにボールを返してくれる。
「早菜子ちゃんっ」
声が響いてネット際に久野が走ってコートの中央あたりにトスを上げた。
「え?」
山岸が驚いたように声をもらした。
山岸は高くジャンプしていた。
そして、振り上げた手の位置にボールはあり、次の瞬間には相手側のコートに落ちていた。
「すげー」
小出は呟いた。女子の方ではどよめきが起こっていた。
山岸は少し困ったように笑っていた。
「早菜子ちゃんっ! やっぱり一緒にバレーボールしましょっ!」
久野が騒いでいるのを、哀しそうな瞳で見ていた。
「バックアタックだよな、あれ」
小出が腕をつついた。
「そうなんじゃない? さっき、山岸サーブしていたから」
「−−なあ、なんで山岸はバレー部に入んなかったの?」
小出のバカな質問に、正しい答えを言ってやる必要はない。
「−−なんで、それを俺が知るわけ?」
あきれてものも言えないふうを装って、言ってやった。
「仲いいじゃない、おまえら」
当然だろ? というように、小出は言った。
「……小出、考えが甘いな」
ちっちっちっ、と指を振って俺は言う。
「たとえ仲が良くても、俺にはお前の考えていることはまったく判らない」
「それは残念だ」
大まじめな表情で言う小出から視線をはずして、俺は着実に点を入れている山岸を見ていた。久野と山岸のコンビは、素人の俺にもその凄さが判った。
二年間もブランクがあったとは思えない−−。
そんな感じがした。
土曜日は早くに部活動は終わる。けれど、今日はなんだか練習がしたくて、俺は体育館に残った。天気がいいので、土曜の第二部のバドミントン部は外で元気に跳ね回っている。貸し切り状態だ。
ボールを床に三回ほどつく。コールを狙う。ジャンプシュート!
だが、ボールはリングに当たって跳ね返った。
オーバーラップする映像。
帰ってきたボールをつかまえて、俺は小さく息を吐いた。
山岸に好きだと言われたのは、約ひと月前のことだった。
その時俺は、何を考えてんだか、バカなことを言ってしまった。
−−一か月待って……
今考えても情けない返事だ。なのに山岸は、うん判ったと答えてくれた。そして、何ひとつ変わらず、今まで通りに付き合ってくれている。……つまり、友達だ。
そんな山岸に対する負い目があるのかもしれない。
俺の目には山岸がアタックするその瞬間の映像が焼きついてはなれなかった。
……なんでバレー部に入らなかったんだろう。山岸は。
なんで「同志」なんだろう。
高いジャンプ。高い、高いジャンプ。
それが、何度も繰り返される。
「はあーっ」
思いっきり溜息をつく。これで楽になるのなら、もういくらでもって感じだ。胸のもやもやが晴れなくて、なんだか気持ち悪くてしかたがない。
「まるで、ゾウの溜息……」
振り返ると、山岸がいた。
少し怒ったようにこちらを見ている。
「練習なら、誘ってくれたら良かったのに……」
「バレー部、入らないの?」
言ってからしまったと思った。顔が赤くなるのが判った。
「ごめん。今、俺、どうかしてるんだ。悪いっ」
山岸の表情はあまり変わっていない。
「……なんで、前島までそんなコト言うかな……」
それでも、そんなことを呟いて、俺に負けず劣らずの溜息をついた。
「昔とったキネヅカだよ。……ねえ、一緒に帰ろうよ。もう終わるんでしょ? 缶コーヒーをおごるからさ」
気分を引き立てるように明るく言うと、山岸はしっかりと笑った。
「んじゃ、お詫びだ。缶ココアおごるよ」
「……缶ココア……」
なにやらひっかかった様子で呟いた彼女は顔をしかめた。
「ま、そう言わないとも言えないし……」
「缶ジュース、缶コーラ、缶コーヒー、缶茶」
「……かんちゃ……」
吹き出して、ひとしきり笑って、山岸は、じゃあ行こーかと出口に向かった。
「バレーボールはねえ、小学生の時からやってたんだよね」
お互いにおごりあって、歩きだすと、山岸はそんなふうに話しだした。
「んで、中学の時には、自分で言うのもなんだけど、結構上手かったんだ。三年の先輩を押し退けてレギュラーに選ばれるくらい」
なんとなく、判った気がした。
「人間関係って難しいから……」
笑ってはいるけれど、山岸は。山岸がやめてしまうくらいのことがきっとあったんだろう。
「白状するとね、バスケットは手を抜いているのかもしれない」
精神的なものは、影響する。上手くしてはいけないと思い込んでしまったら……。
「そのつもりはないんだろ?」
「……やっぱり前島って、ヘンな奴」
そこで笑わなくても別にいいんだけど、山岸は何故か大笑いした。
俺は特にコメントすることもせず、晴れた青い空を見上げた。
空には雲ひとつない。アスファルトはかすかに湿っている。少し雨が降ったらしい。通り雨だったらしく、もうどこにも雨を降らしそうな雲がない。そのせいか、太陽が直にあたってじりじりと暑い。まだ四月だというのに、まるで夏だ。
「……伜の子竜をよこします」
ふいに思い出した。
「え? コタツ?」
山岸が聞き返してきた。
苦笑してしまう。判らないのが普通だ。
「小咄だと思うんだけど、この間聞いたんだ」
「コバナシって落語のだっけ? そんなん好きなんだ……」
「ちょっと、人の影響で、やたら耳に入ってくるんで」
「ふうん?」
山岸は少し興味をもったようだ。
「暑い夏の日の咄でね、男が夕立のあといい雨だったと空を見ていると竜が現れるんだ。雨を降らせていたら雲から落ちてしまったので、雲が迎えにくるまで、ここにいさせて欲しいなんて言って。しょうがないんで、男は竜と世間話をはじめたりしてね、いい雨だったとか、なんとか。それを聞いて竜は『私が降らせたんです』って言う。『夏は雨を降らせて涼しくします』って。とね、男は聞くんだ。じゃあ、冬は? って。竜はすかさず、答える。『伜のコタツを寄越します』」
「息子のコタツ……」
山岸は呟くとぽかんと口をあけたまましばらく俺の顔を見ていたけれど、唐突に笑いだした。
「ばっかだねえ」
ほっとする。
「バカだろ?」
「うん。いいね。ぐだらなくて。あたし、そういうの大好き」
社交辞令でもなんでもなくて、それは山岸の本心だから、それが判るから俺も嬉しい。
「ね、他にはないの?」
「いや、あるけど……。せっかく面白い咄でも、俺がするとつまらなくなるからなあ……今度テープを貸そうか?」
「え? 持ってるの?」
「俺のじゃないけどね」
「……いいの?」
「いいよ」
山岸はやったあ、と声に出して、それから変なふうに顔をしかめた。
「でもさ、普通の高校生の女の子は落語聞かないよね?」
……なんで判ってないんだろうな。
「バカだな、山岸。自分のコト普通だと思ってんの?」
山岸が普通の、そこらへんの女子と同じだったら、まるで意味はないってことに何で気づかないんだろう……。
同志だねっ!
なんて、いきなり言いだすようなヤツだからこその山岸なのに。
「ああっ! なんてことをっ!」
ムキになって反論しようとする山岸を俺はじっと見る。
「そりゃ、あたしはヘンかもしんないけどっ、それを前島には言われたくないなっ!」
「もっとヘンな気がするって?」
「そうだよ」
「いいじゃない。充分ヘンなんだからさ」
「いや、だからねっ」
そーじゃなくてっと叫んだ山岸に、
「好きだよ」
なんて、俺は言っていた。
「たしかに………え?」
聞こえなかったのかな?
「俺さ、山岸のコト好きだよ」
繰り返してみる。
山岸のきょとんとした顔は変わらない。
「一か月なんて言ったけど、本当は、答えは出てたんだ。好きなんだ。俺とつきあって欲しい」
ようやく、山岸は正気の顔に戻る。
「ちょっ……ちょっと待って。待ってね。それ、油断してたボディーに入ったわ」
真っ赤になっていく山岸を俺はやけに冷静に見ている。何故だろう。どんな顔して言えばいいんだろうって考えてたのに、やけにすんなりと言ってしまった自分が不思議だった。
「あーっもうっなんで前島ってこうなんだろう……人が一か月前にやっとの思いで言ったセリフをそんな涼しい顔で……」
相当パニックしているらしい山岸に俺は追い打ちをかけることにした。
「あのさ、多分俺の方が先に好きになったと思うよ」
賭けてもいい。「同志だね」って言われた瞬間から。その直後に仲良くなったりしなければ、もうとっくの昔に恋人同士ってヤツになっていたかもしれない。
「え?」
「信じてないだろ。でもホント。なんたって、『同志』になった時からだもん」
そして、ペンギンが飛ぶと教えてくれた日、飛んだのを見た日。
山岸は俺のことを見つめたままだ。多分今は混乱しまくっている。ひと月前の俺がそうだったように。だから待ってみる。あの時山岸が待ってくれたように。知ってるのと知らないのでは全然違うんだけど。
でもきっと。ここからがスタートだと思うから……。
−END−
随分と昔に書いた作品です。
これを読んだ友人が「今西ちゃん、恋でもしてるの?」と言ったことを、妙に覚えています。
そういうワケではなかったんですが…。
※追記
内容から考えると、「メモリー・オブ・ペンギン」の方が正しいとは思うのですが、今回のタイトルは、あえて「ペンギンズ・メモリー」としています。……って、これは蛇足ですね…(苦笑)