第七十九話 梅雨と読書と距離感と ④
空になったベッドを暫くの間、呆然と見つめてハッと我にかえる。捜さなきゃ。あたしは部屋を見たけれど人が隠れられそうな場所には、いなかった。
「一体どこに行ったんでしょうか?」
冠凪さんも焦っているのが分かる。あたしは、しゃがみこんでいた体を起こして冠凪さんを見た。
「外かも…」
「でも外は雨ですよ?風邪も引いているし…そこまでして行きたい所が?」
「……夏騎の所?」
ふと思い付いて呟けば冠凪さんが、えっ?と声をあげた。あたしは冠凪さんの手を引きながら話す。
「だって、それしか考えられない。冬音が捨て身でやる事は大切な人の為だから」
「春香さん…」
お邪魔しましたと一言、由利音さんに声をかけて、あたしは傘を差して冬音の家を後にした。季野家へは、それほど遠くないけれど今の冬音は風邪を引いてる。
もしかしたら、途中で倒れているかもなんて考え始めた。あたしは頭を振って、そんな考えを吹き飛ばした。
季野家に着いたあたしはインターホンを押す。いつもより待つ時間が長く感じられた。出てきたのは秋だった。あたしは慌てて事情を話す。
「松永が?いや、来てない」
「どうしよう…どこかで倒れてたら…あたし…」
「落ち着け、まだ倒れてるって決まった訳じゃないだろ」
「…そうだ、夏騎は?」
「あいつは…」
眼鏡の奥の瞳が動揺で微かに揺れ動いたのが分かった。秋は目を逸らして口を閉ざした後、もう一度あたしに目を戻して溜め息を吐いた。
「あいつは生憎、昔付き合ってた女性と会ってる。松永に言われたとか言ってたな」
それ…なのかな、冬音が夏騎と別れたかもと言った理由は。あたしは顔を伏せた。
「未練がある感じは俺も知ってた。ただ松永と乗り越えたのかと勝手に思い込んで…」
「よりを戻すのかな?」
「さあな、夏騎次第だろ。それより今は松永の行方だ…他に心当たりは無いのか?」
あたしは首を横に振った。夏騎以外に考えられなかった。…やっぱり…。
「やっぱり、連絡してくれない?来てくれるか分からないけど…夏騎以外に考えられない」
「私からもお願いします」
横から冠凪さんも入って来た。秋がまた目を逸らす。あたしは真っ直ぐに秋を見た。すると秋が一度家の中に引っ込んで電話を持って戻ってきた。
「来る保証はない、それでもいいのか?」
「いいよ、来てくれるって信じてる」
あたしの精一杯の気持ちを口にした。それは自分に言い聞かせているのもあったけれど、何より夏騎が今を見てくれると思いたかった。
秋が通話ボタンを押す。暫くして繋がったのか秋が口を開いた。
「夏騎か?実は松永が…」
先程あたしが説明した事を淡々と話す秋を祈るような思いで見つめた。少しのやり取りがあったのち、電話を切る。
「どう…だった?」
不安げに、そう聞いてみると秋が暗い面持ちであたしと冠凪さんを交互に見た。そして電話の内容を話し出す。
「松永の事を話した…そしたら…」
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『松永さんが?』
「ああ、来れないか?今すぐ」
『…無理だ、あの子と会ってるのを分かっていて言ってるんだろうけど』
「そうか…お前がそれでいいなら何も言わない。ただ、今だけは後悔する選択をするなよ」
『……分かった』
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話終えた秋は、また溜め息を吐いて顔をしかめた。冠凪さんも暗い表情をしている。
「来ないって事?」
「…そうだ」
「冬音、どこに行ったのかな」
「そんなに遠くへは行けないはずだ。倒れられる前に探し出すぞ」
「うん」
あたしは傘を差して、雨の中を走った。心当たりなんて無いから、がむしゃらにただひたすらに。
「いません…ね」
上がった息を整えながら冠凪さんが言う。あたしは唇を噛んで走り続けた。
「いたか?」
「いない…あたし、あっちの方探して…」
「待て」
行こうとして腕を掴まれた、振り返らずに秋の手を振り払おうと抵抗する。
「離して!冬音がいるかもしれない!!」
「一度冷静になってみろ!そんなんじゃ、お前がぶっ倒れるぞ」
「…っ」
抵抗していた腕の力を緩めて、あたしは振り返った。険しい表情の秋と目が合う。
「ごめん…でもあたし、冬音に何かあったら…」
「ああ、分かってる分かってるさ」
雨の中、あたしは秋に抱き寄せられ自分の傘が地面に落ちる。体が震えた…それを雨のせいにした。
「…あのー」
暫くそうしていると気まずそうな冠凪さんの姿。傘を拾い上げてバッと離れる。
「イチャイチャしないでください」
「イチャっ!?」
「それより…」
どうやら冠凪さんが気まずそうにしているのは、あたし達の事だけでは無いらしかった。冠凪さんの視線を辿ってみれば、息の上がっている夏騎。
「来た…の?」
「松永さんは?」
「まだ見つかってない…」
夏騎が来た事に驚きつつも冬音が見つかってない現実に引き戻される。一体、どこに行っちゃったの?冬音…。
「家に戻ってるかもしれません、もう一度冬音さんの家に行ってみませんか?」
その冠凪さんの提案に異論をする人はいなかった。冬音の家に行き、驚いている由利音さんに話を誤魔化しながら、部屋のドアを開けた。
代わり映えのない部屋の中。それは同時に冬音の姿がない事も表していた。
「冬音…どこにいるの?冬音!!」
「何?」
「……は?」
気だるそうな声が聞こえた。しかし、皆驚いているし、紛れもない冬音の声でもあった。ん?ついに幻聴まで聞こえてきたのかな?
「冬…音?」
「だから何?」
「怖っ!何これ!?声だけ聞こえる!」
「春香さんもですか?実は私もなんですよ!」
冠凪さんも…さっきの皆の反応からして全員が聞こえている。…幻聴じゃない?けれど冬音の姿はどこにも見えない。
「なんだ?ちゃんと部屋中探したのか?」
秋が顔をしかめて冠凪さんとあたしを見た。あたしはしっかりと頷く。
「探したよ、人がいそうな所は全部…」
「はまってんの、いやーさっき起きたらベッドと壁の間にさ」
「…なんですと?!」
ケラケラ笑いながら言った冬音の言葉を聞いて、ベッドと壁の間の隙間を見てみると、スッポリはまった冬音がいた。
「嘘でしょ?」
冬音を引き抜きながら、あたしは全身の力が抜けて座り込んだ。キョトンとしながら冬音があたしを見る。
「え?何?お見舞いに来たんじゃないの?」
「最初はね?あたしと冠凪さんで…そしたらいないんだもん!それで秋と夏騎の所行って…」
「だからいるのか二人共。ごめんね、私がはまってたばっかりに」
「全くね!けど…良かったー無事で」
安心して涙腺が緩んだ、涙がボロボロ流れ出す。冬音が申し訳なさそうな顔をした。
「そんなに心配してくれてたんだ…」
「夏騎も冬音心配してわざわざ来てくれたんだよ?元カノと、より戻せたかもしれないのに」
涙で視界が悪くなっても冬音が驚いているのは見えた。戸惑っているようで言葉を失っている。
「夏騎君…それ本当?なんで来たりしたの?」
怒っているようで冬音が夏騎に詰め寄った。すると夏騎は冬音に言った。
「だって心配だったから、今行かなきゃ後悔すると思って」
涙を拭って見ると夏騎が秋を見て笑っていた。あたしは電話での二人の会話を思い出す。
「良かった、何事もなくて」
冠凪さん、こんな良い雰囲気の場面見せられて複雑だろうな…と隣を見ると感動して目を潤ませていた。この子、どこまで純粋なんだろう。
「……私、まだ諦めてないから…」
「え?えーと…」
「夏騎君は元カノと、よりを戻さなきゃいけないんだよ…」
「あの、松永さん?」
「私…元カノと、より戻させるの諦めないから」
どうやら冬音に変なスイッチが入ってしまったようで、結局二人の関係は振り出しに戻ってしまった。何なんだろう…。
いつになったら二人は、くっつくのだろうか。あたしは別の意味でまた泣きそうになった。