第三十八話 紫の蝶 桜side
放課後、私はたぶん居るであろう部室へと足を運んだ。今日、用があるのは冠凪さんではなく春香の兄・雪さん。呼び捨てでも良いか聞いたけれど、いざとなったらしっくり来なくて「さん」付けか春香のお兄さんと呼んでしまう。
部室の前に着いたのでドアを軽くノックしてドアを開けた。すると、誰も居なかった。冠凪さんといい雪さんといい…どうして二人共いつもいないのかしら?
ちょっと腹が立ちながらも近くの椅子に座って待つ事にした。それから二十分くらい待って…やっと雪さんが来た。手にコーヒーの缶を持っていたので買いに行ってたらしい。
雪さんは私に気づくとコーヒーを持っていない方の手を振った。最初、コーヒーを持っている方の手を振ろうとしたので少しヒヤッとした。
「いつ来たの?」
初めて…と言っても前に面識があったけれど…ちゃんと初めて会った日と、同じように雪さんは私の向かいの椅子へと座った。
「二十分くらい前…です。コーヒー選ぶだけなのに何でそんなに時間…かかったんですか?」
「なんで今日、敬語?」
「一応年上ですし…と言うか、最初に聞いたの私なんだけど!」
「ハハッ、敬語じゃない方がいいよ」
彼の笑顔は変わっていなかった。こんな短期間に変わらないと思うけれど…もしかしたら変わるかもしれない…。あっそうだ、質問したのに答えてもらってないじゃない。
「それで?なんで時間かかったのよ?」
「コーヒー、どれにしようか迷っちゃって。最近は種類が多いから迷うんだよ」
「優柔不断なのね…、恋でも優柔不断だったら好きな人が奪われちゃうわよ?」
「いないよ、好きな人なんて。大切な人ならいるけど」
大切な人……?その言葉を聞いて胸がチクリと痛んだ。大切な人って誰なの?聞きたい…聞きたいけど……。もし…私の知らない女の人だったら?…って私は何を考えてるのよ!別に雪さんが誰を大切だろうが関係ないでしょ?関係…ないじゃない…。
「どうかした?」
俯いた私を見て、顔を覗き込むように彼は聞いてきた。優しい…彼は優しい。こんな人に大切にされる人は絶対幸せ者よ…。聞く気はなかった…けれど口は思いに従って言葉を出していた。
「大切な人って?」
「え?ああ、春香だよ」
「春香?本当に?」
「嘘を吐く理由がどこに?」
「それもそうね」
私は冷静を装って頷いた。けれど内心、大切な人が春香でよかったとホッとしていた。好きな人はいないって言ってたし…。……なんで私、ホッとしてんの!?
「そういえば、なんで部室に?誰かに用?」
「あっそうだわ。用があったのよ、頼んだブローチまだ?さすがに遅すぎると思うんだけど…春香のブローチは結構早かったのに…」
「それが…最近、妙に春香が僕を見るんだよ。視線が気になって集中出来なくて……」
あのバカ春香、あんたのせいで私のブローチが遅れてるじゃない!まあ、それだけブローチを作るお兄さんが意外だったんでしょうね。
「どこまで出来てるの?」
「完成したよ、なんとか頑張って…。明日か運よく会えたら今日渡そうかと思って」
「そう…、じゃあ私は運がよかったのね」
「そうだね」
そう言って雪さんは立ち上がり、小さめの棚の引き出しからブローチを出して、また椅子に座った。私は身を乗り出して、そのブローチを見つめる。
「持って見てもいいよ」
「え?そう?それなら…」
私はブローチを受け取ってジッと見つめた。ガラスを使ってるのかキラキラと透明感のある紫色をしていた。一言で言えば……
「綺麗……」
「気に入ってもらえた?」
「ええ、ありがとう!」
ブローチを大事に、壊れないように握る。でも、持ってるだけではなんだか、もったいない気がしたのでワイシャツに付けてみた。
「これ、取れやすいかしら?」
「大丈夫だと思うよ、あまり強い衝撃を受けたり無理矢理取ったりしなければ」
「それなら安心して付けてられるわね」
明日…学校に付けて行ったら春香や冬音に何か言われるだろうか?言われても、別にどうもしないけれど…少しだけ照れくさい。
「今度…」
「ん?」
「今度…何かお礼してもいいかしら?」
「お礼にお礼で?」
「別に構わないでしょ?」
ブローチお礼がしたかったのもあるけれど、また会う口実が欲しかった。これでもう会えないなんて…少し寂しかった。嫌がられる?困った顔を…するだろうか?
「どんなお礼をしてくれる?」
「あっ…何がいい?」
良かった…嫌がられたりも困った顔をされなかった…。不思議と顔が緩んで笑顔になる。この人といると、安心する…不思議と笑顔になれる。
「お勧めの缶コーヒー、教えてもらえる?」
「…そんな事でいいの?」
「毎回、何十分も迷う僕としては助かる事なんだけど…」
テーブルの上に乗っている、まだ開けていない缶コーヒーを見つめてから、彼はダメかな?と言うような視線を私に向けた。
「教える!ついでに、そのコーヒーに合うクッキーも作ってくる」
「本井さん、クッキー作れるんだ?楽しみにしてるよ」
「ええ!じゃあ、もう帰るわね」
「うん、また明日」
「…また明日」
手を振る彼に私は手を振り返してから部室を出た。廊下を少し進んで、胸に手を当てる。その時、ブローチに手が触れた。
私の頭の中で彼の言った“楽しみにしてるよ”その言葉が響いていた。綺麗な紫色の蝶を少しの間、見つめてから私は張り切ってクッキーの材料を買いに行った。