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雪国の二時間半~チーズケーキの作り方~

作者: 柿原 凛

 もう一時間ほどランニングを続けている。重苦しくどんよりとした曇り空から、白い塊が柔らかく地面に向かって降り注いでいる。そのうちの一つが火照った頬に当たった。冷たいと感じたその瞬間に勢いよく溶け出し、額の奥から湧き出てくる一筋の汗と混ざり込む。そのままそれは青のアンダーシャツに吸い込まれるようにしみこんでいった。

 野球部の冬の練習はとにかく走ることがメイン。とくに投手の場合はそれが重宝される。冬の走りこみの量は春の球速や球威に直接関わってくる。春のセンバツ高校野球には選出されなかったが、高校野球生活最後の夏の甲子園が残っている。白いウィンドブレーカーの襟を口の周りに当て、雪の降る広島の国道を淡々と走り続ける。白の練習用帽子には雪が薄く積もりつつあった。あんなに柔らかく降っていた雪も、いつしか吹雪に変わっていた。年末が近い、冬の昼下がりのことだ。

 ふと横を見ると短いトンネルが確認できた。こんなところにトンネルがあったっけ? まぁ雪も強いし、ひとまず休憩だ。俺は逃げ込むようにそのトンネルの中に入り、帽子やウィンドブレーカー、ユニフォームに付いた雪を払った。厚手の手袋の中に収めていた両手は冷たく、火照った頬に当てると徐々に暖かくなるのがわかってほっとした。

 その時、トンネルの奥の方からコツコツと足音が近づいてきた。音からしてヒールを履いているのだろう。その音は実にリズムよく、一拍の狂いもない。それでいて擦るような音はしない。きっと教育のいき届いた育ちのいい人なのだろう。ただこんな吹雪の日にヒールでうろつくとは珍しい。あまりいい印象も持てないし、いかにも怪しいので、俺は深く帽子をかぶりなおし、できるだけ目を合わせないようにした。

 その間も徐々に足音は近づいてくる。リズミカルな音がやがて通り過ぎようとしていたその時、ふと足音が止んだ。恐る恐る帽子のつばを上げてみると、そこには灰色のフードをかぶった人が立っていた。

「あの……」

 とても綺麗な声だ。声質から考えて女性だろう。長いスカートは白と桃色で、トンネルを吹き抜ける風に舞っている。その間から時々ヒールのような靴が見え、さっきの足音の正体なのだと確信した。

「はい」

「エアレビル城ってどっち?」

「はい?」

 いきなり聞き慣れない単語を聞かされ、少々戸惑ってしまった。エアレビルジョー……って。

「ちょっと分りかねますけど……」

「そう」

「すみません」

「ま、いっか。実は散歩してたんだけど、吹雪に見舞われちゃって景色が見えなくなっちゃって。どうも方向が違ったみたいで、帰れないんだよねっ」

 フードから時折のぞかせる青い髪を見る限り、この人はコスプレイヤーなのだと認識せざるをえない。聞きなれない単語も、このコスプレの世界の何かなのだろう。

「きっとこの吹雪が止んだら分かりますよ。それまでの辛抱です。きっと」

「だよねぇ」

 そしてもう一度俺は帽子を被り直す。こんな寒いところでじっとしてはいられない。体が冷えきってしまうと筋肉にも悪い。トンネルの中は相変わらず寒いが、何もしないよりはマシだと動的ストレッチを始める。動的ストレッチとはその字のごとく動きながら筋肉をほぐす方法のこと。今はほぐすというよりも温まった筋肉を持続させるという方が理由としては合っているだろう。女性はその間もじっと灰色と白の景色を眺め続けている。

「雪、止まないねぇ」

 さっきまで沈黙していた女性がやっと口を開いた。

「そうで、すね」

 運動しながらの会話には慣れていないため所々詰まってしまう。

「それにしても、貴方ずいぶんと珍しい恰好をしてるのね」

「は、ははっ」

 あんたに言われたくないわ。だがなんとなく言うとまずそうなので、ここは笑ってごまかしておく。

「男の人ってどうもわかんない……」

 俺にしてみれば女性の心理なんかもっと分からない。と言うかなんでずっと敬語じゃないんだ。初対面の人には敬語って習ってないのか?

「ねぇ」

 女性がこちらに振り返る。

「あ、はい」

「なんで男の人って引きこもってゲームばっかりするの?」

「そうですねぇ……」

 考えたこともなかった。俺はゲーム自体持ってないし、そういう友達もいない。確かになぜなのだろうか。

「そのゲームが面白いから、じゃないですかね? よく分かりませんが」

「そっかぁ。なんか遥か古代、日本ってとこが作ったゲームらしいんだけど、私にはその良さが分かんない」

「僕もあんまり分からないんですけどね。そういうの持ってないんですよ」

「男の人でもそんな人いるのね」

「はい、まぁ」

 この女性の周りにはそういう男性しかいないのだろうか。だとしたらまさしく別次元の住民だ。申し訳ないがさすがに会話についていけない。俺は動的ストレッチをひと通り終えると、筋トレに移った。

 腕立て伏せをするために手袋をはめて両手を地面に付ける。トンネルの地面は思った通りひんやりとしている。

「引きこもってまでそんなことするなんて、その人よっぽど暇なんですね」

 皮肉交じりに言ってやった。夏の大会までもうそんなに時間がない俺だからこそ時間の使い方には人一倍敏感なのだ。

「なんで引きこもっちゃったんだろ」

 ぽつっと独り言のように女性がつぶやいた。その顔は限りなく無表情に近く、もの淋しさを感じる。

「理由が分かったらどうにかなりそうなんだけどなぁ」

「その理由は聞けないんですか?」

「しばらく会ってないから。会えたら聞こうとは思ってるけど」

「そうですか」

 何やら複雑そうだ。こういうのにはあまり深入りしないほうがいい。

「どうやったら彼の心を引き付けられるんだろう」

 ――恋バナ以外は。

「好きな人でもいるんですか?」

 こういう話は嫌いではない。むしろ好きな方だ。心なしか女性の頬が赤くなったようにも見える。

「いる。まぁその引きこもりなんだけど」

「えっ……」

 まさかとは思ったが、やはりその引きこもりだったか。引きこもりでゲームばっかりしているような人間のどこに惹かれる要素があるんだ。俺には少しも理解できない。

「どうも気づいてくれないって言うか……。変なとこが天然なのかも」

「あぁ……。じゃあ、その人とどうしてもくっ付かなければいけない理由を作るしかないですね」

「あ、なるほど!」

 どうやら良い回答をしたようだ。我ながら少し貢献できたのが嬉しい。

「そっかそっか。そうだよね! 実は今ね、三十八歳の男性貴族で女性関係でのスキャンダルが多い最低の男と政略結婚させられちゃいそうなんだけど――」

「え? あ、へぇ……政略結婚ですかぁ」

 またそっちの世界に行ってしまったのか。政略結婚って。この女性のコスプレはどこかの国のお姫様なのだろうか。

「そうなの。ホントは貴方のような庶民には喋っちゃいけないんだけど、誰かに言いたくて仕方なくって」

「あ、そうなんですかぁ」

「その引きこもり……あ、洋水って名前なんだけど、その洋水と幼馴染なの。で、意外と優しくて可愛い人だからこのことを話したら恋愛結婚してくれるかも!」

「そりゃあ、良かったです」

 心がこもってないと怒られるかと思ったが、そんなことはなかったのでひとまず安心。だがその安心も吹雪に煽られてどこかへ飛んで行ってしまった。

「リーゼ様、こちらへおられたのですか。ずっと探していましたよ」

 どこからともなく聞こえてきた声は男声で、トンネルの中に低く響いてきた。足音が女性の時と同じように向かってくる。

「あ、ごめんごめん。雪がすごくて方向が分かんなくなっちゃって」

「さぁ、雪はまだ強いですがもう帰りましょう。このままでは風を引いてしまいますよ」

 堅そうなブーツの足音が近くで止まった。そこには軍服をきっちり着こなした青年が姿勢よく立っていた。

「あ、大丈夫大丈夫。こちらの方がずっと話し相手になってくれてたから」

 紹介された俺を見て、軍服の青年は慌てて俺に礼をしてきた。こいつもコスプレイヤーなのだろうか。今日は変わった人が多いな。

「左様でございましたか。えぇと、旅の方でしょうか? 姫をお守りくださり本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます」

「あ、いえいえそんな」

「あ、私、護衛の者でございます。怪しいものではないのでご安心なさってください」

「は、はぁ……」

 いきなり護衛の者と言われてもしっくりこない。だが俺だってノリが悪いわけではない。ここはノる場面だろう。きっと俺を試しているんだ。

「お、お姫様だったのですか。だったら早く家……あ、城に戻らないと。みんなが心配していますよ」

「そうね。あ、口止め料として食事にお誘いするから、ついてきてっ」

 新手のナンパか。さすがに高校球児が練習中にのこのこと付いて行くわけにはいかない。

「あ、いやいいです。そんなご馳走されるようなことしてませんし」

 さ、俺はもう一度アキレス腱を伸ばして、吹雪の中を走りに行こうか。そう思って女性に背を向けた瞬間、トンネルに突風が吹きぬけてそのまま一回転してまた女性の正面を向いてしまった。

「あら。一国の姫に向かって礼もなく背を向けるなんて、非常識よ。ってことで私たちについてくるように」

「え、ちょ、えっ?」

 体が数センチ宙に浮いたかと思うと、そのまま突風に煽られるように自分の体が自然と前に進んでいく。不思議なのは間違いないが、突然のことで頭はこんがらがり、子供のようにじたばたするしかなかった。隣にはいつの間にか女性と青年がついてきており、傍から見れば不自然な集団に見えるだろう。幸いトンネルの中にはこの三人しかいないのでその心配はいらないかもしれないが。

「じたばたしても無駄ですよ。リーゼ様の魔法はこの国の中でも最上級。私なんか足元にも及ばないのですから」

 青年が笑顔でそういうが、こういう会話って普段の生活では絶対あり得ないだろう。魔法なんて空想上のものだってずっと信じていたのに。とにかく今この瞬間に起きていることは夢ではない。現代の日本で繰り広げられているのだ。信じがたいが、実際こうして体験している以上信じないわけにはいかない。俺はじたばたするのをやめて、ため息をひとつついた。

「にしてもすごい吹雪ねぇ。これでどうやって帰ろうっての?」

 女性は腕を組んで真っ白い空を眺めた。空は思ったよりも白い。トンネルが暗すぎたのだろう。一種の錯視のようなものだ。風は未だに弱まることを知らない。俺自身、こんな中を走ろうとしていた自分を一瞬疑った。

「何を言ってるんですか。リーゼ様の魔法を使えばこんな吹雪は粉雪になりますよ。吹雪いているのと逆の方向から強い風を送ればいいのです」

「あ、そっか。護衛やるじゃん!」

「恐縮です」

 女性はフードをかぶったままそっと目をつぶった。するとどうだろう。さっきまであんなに強く吹いていた雪はまるで磁力による反発のように徐々にその速度を落とし、俺がちょうどこのトンネルを見つけた直前のように勢いは弱まった。

「すごい……」

「視界も開けたし、これでエアレビル城に帰れそうね。さ、行きましょう」

 トンネルから一歩足を進める。雪の道と化した国道をひたすらまっすぐ見る。その先には、広島とは思えないような雪一色のパノラマが地平線まで伸びていた。


 ひたすらまっすぐ突き進むがまだエアレビル城は見えてこない。俺はまだ風に操られているからマシだが、この二人は歩き疲れていないのだろうか? それ以上に、寒さは増す一方なのになぜこんなに平気な顔をしているのだろう。

「こんなに寒いのに、大丈夫なんですか?」

「うん。これ羽織ってるし」

 この女性の忍耐強さには感心する。見るからに薄そうなものを羽織っただけでそんなに涼しい顔でいられるなんて。俺なんか、練習用帽子を被ってウィンドブレーカーを着てはいるが、それ以外のところは痺れたように神経が通っている感覚がしない。特に両耳は痺れを通り越して今にも引きちぎってしまいたいほどの痛みがある。それどころか、あまりの寒さからか、車酔いのように気分が悪くなってきた。

「ちょっ、そろそろ着かないのですか? もう、限度来てるんですけども……」

 かろうじて訴えることができた自分の声が、あまりにも小さかったのが気がかりだった。だがそれ以上に答えてくれた女性の様子から凍えているような様子が伺えなかったのが不思議でならなかった。

「あ、もうちょっとだから。そろそろ見えてくるよ。ね、護衛」

「いえ、あと十キロはありますが……」

「うん。じゃあ頑張ろっか」

 なぜそんなに涼しい顔でものが言えるんだろうか。こんな極寒の地をあと十キロも我慢しなければならないなんて、やっぱり逃げておけばよかった。後悔のため息をつくが、それさえも一瞬にして凍りだす。とんでもない所に連れてこられたようだ。先ほどから頭痛もするようになってきた。もう駄目だ。俺は左手で視界を塞ぎ、苦し紛れに目をつぶった――。


 ――気づいた時にはどこかの部屋の中だった。と言っても普通の家庭のような大きさではなく、その何倍もの面積を誇っていそうだ。もちろんきちんと暖房も効いていて、中は快適そのもの。さらには先ほどまでの灰色の景色と対照的にシャンデリアが豪勢な光を放っている。どこかの金持ちの家庭の長いソファに寝かされていた。

 身を起こそうと力を入れた瞬間、また頭痛がした。反射的に手をつこうとすると、そこにあるはずのふんわりしたものはなく、バランスを崩して床に落ちてしまった。落ちた先の床も大理石のようなもので綺麗に装飾されていて、まるで夢でも見ているようだ。

「ようやく起きたようね。大丈夫?」

 これまた夢の住人のような綺麗な女性が顔を覗いてきた。垂れた水色の長い髪を耳にかけ直し、そっと微笑んでくる。なんて大人っぽくて上品な方なのだろう。

「ごめんねぇ。そんなに寒さに弱いとは思わなくって」

 さっきまで一緒に歩いていた女性が、上品な方の女性の後ろからひょこっと顔を出した。よく見ると二人とも顔がどこか似ているような気がする。ひょっとして姉妹だろうか。

「妹が失礼しちゃったようで。ごめんなさいね」

「あ、いえいえ」

 やっぱり姉妹だったのか。声はよく似ているものの、雰囲気は全くの正反対で、落ち着いた大人なお姉さんと活発で元気な妹と言ったところだろうか。だがさすが姉妹で、会話のリズムやテンポは息がぴったりだ。

「暖炉の火はちょうどいい? なんならもう少し強くすることもできるけど……」

 活発な妹の方が気遣ってくれた。せっかくだから、もう少し強くしてもらおうか。手もかじかんで痛む。

「じゃあ……もうちょっと強くしてもらえませんかね?」

「うん、いいよ!」

 そういうと妹の方は静かに目を閉じ、念じ始めた。これで本物の魔法を見るのは二回目だが、やはり慣れないものだ。どこかにトリックがあるのではないかとついつい疑ってしまう。そんなことを考えているうちに火はみるみるその強さを増していき、部屋に快適な温度をもたらした。

「失礼します。お食事の準備が整いました!」

 大きな扉が開いたかと思うと、きっちりしたホテルの従業員のような青年が現れ、そう言い放った。

「待ってました! さぁ、行くよ!」

 妹の方に手を引かれていきながら部屋を出た。正直いうと、昼飯を食ってからランニングを始めたので腹は減っていない。だが、どこからともなく香ってくる美味そうな匂いが鼻をつつき、腹のどこかを強引にでも開けようとしているのか、腹の虫が鳴った。

 それともう一つ。部屋を出た途端、そこに広がっていた色鮮やかな装飾が目を引いた。どんなに細かい液晶画面を使ってもこの装飾には勝てそうもないほど細かく、なめらかで壮大だ。そこをゆっくりと歩く従業員は俺の方を向いては礼をしてくれる。もちろん俺の周りにお姫様たちがいるおかげだというのは分かっている。だとしても普段、監督に頭を下げたりしている俺にとっては決して気分を害するものではなかった。虎の威を借る狐も、なかなか悪くないものだ。

 食堂に案内されると、美味しそうな香りとともに大勢の従業員が出迎えてくれた。席まで案内されると、いたるところに良家らしく紋章が散りばめられている。まさに王族ともいえるほど豪華で大きなテーブルを囲み、俺・姉の方・妹の方の三人は椅子に座った。

「私たちより先にお客様にもてなしなさい」

 姉の方がメイドに指示を出し、それにメイドが忠実に従う。物語の中でしかないようなことが目の前で現実として行われていることに少々戸惑いつつ、食事の作法をおさらいする。こういう家はだいたいそういうのに厳しいはずだ。おさらいしているうちにフルコースのように多くの料理がテーブルを埋め尽くした。

「さぁ、食べてみてくださいな」

 姉の方が勧めてきたので、まずは豪華なサラダのような前菜を一口。その鮮やかな緑黄色野菜のいいところはそのままに、ドレッシングとの絡みもあって食べやすく、味もちょうどいい。もっと味が濃くて沢山は食べられないようなのを想像していたので、これは驚きだ。量は一口分しかなかったが、これはもっといけそうな気がする。この調子で美味しいものがタダでどんどん食べられたら、幸せで帰りたくなくなってしまいそうだ。

「ちょっといいかしら?」

「あ、はい」

 姉の方がフォークを静かに置いて俺に問いかけてきた。何か重大な話でもあるのだろうか。それとも、食事代を請求されてしまうのだろうか。だとしたらピンチだ。練習中で、あいにく財布はスポーツバッグの中。そしてこんなに美味しい料理はきっと金額に直すととんでもない額になりそうだ。自然と手の動きは止まり、ゆっくりとこぶしを作りながらテーブルの下へと消えていった。

「自己紹介が遅れてごめんなさいね。私はエアレビル王国第一姫で皇位継承権第一位のエアフラウ・シルファーです。フラウと呼んでいただいても結構です。どうぞよろしく。巷ではけっこう有名なんだけど、その様子ではあまりご存じないみたいね」

 その言葉通り、俺の頭の中はクエスチョンマークだらけになっていた。コウイケイショウケンがどうのこうのって、まるで天皇家みたいだ。

「で、私は皇位継承権第二位のエアリーゼ・シルファー。まぁリーゼでいいや。よろしくね!」

 まさに二人とも王女様というわけだ。だとしたら相当な位なのだろう。こんなところに俺なんかがいていいのだろうか。豪勢な建物の中に国のトップと野球の練習のせいで汚れている俺がひとつのテーブルを囲んでいるのは、あまりにも不自然だ。だが目の前にいる二人ともが自然に接してくれるのでお互いに壁はないも同然。この相互関係は、もう二度と体験できそうもないだろう。ひとまず、この二人に続いて俺も自己紹介をしよう。

「俺は、辻原胤爽と申します。広島水産高校と言うところの野球部で投手をしております。今回はこのようなお食事に誘っていただきありがとうございました。本当に美味しいです」

「そう。それは良かった」

 姉のフラウさんが微笑んでくる。それに対して、会釈で返した。と、フラウさん越しのちょうど目線の先に異様なほど豪華なテーブルが置いてあり、あまりの豪勢さと綺麗さに思わず見入ってしまった。

「あの席、あれだけ周りに比べてとても豪華なんですけど、やはり特別な人が使うための席なのですか?」

「そうよ。あれは、すごく特別なの。ね、リーゼ?」

 フラウさんがリーゼさんに目配せをする。何か企んでいるのが見え見えだ。

「い、いいから。いいから」

 リーゼさんが確実に焦っているのが分かる。そんなにまずいものなのだろうか。

「よくないでしょ? 今度フィアンセが座る席なんだから」

「そんなの今は関係ないでしょう?」

「そんなことないでしょう。この方に相談してみればいいじゃないの」

 何やら恋の話だろうか。こういうのに慣れていない俺は、静かに肉料理を楽しむしか選択肢がない。

「あの、よかったらこの子に何かアドバイスしてあげてくれませんか? この子、どんなにアピールしても相手が気持ちに気づいてくれないからって諦めかけちゃってて。何かいい方法はあるんでしょうか」

 アピールしていても相手が気づいてくれない、か。その男はどれだけ鈍感なのだろう。

「じゃ、じゃあ……どうすればいいですかね?」

「え、あぁ、ん……」

 いきなり唐突に言われても、どうしようもない。手元にある肉料理をいくらこねくり回しても答えが出てくるはずないのだが、手が勝手に動くのだから仕方がない。だがこれが思わぬ方向に思考を動かしてくれた。

「料理、とか。ですかね」

 まるで脳がそのまま喋ったように、勝手に口が動いた。今のこの瞬間の俺は一瞬たりとも考えることをしなかったのだが、これが“本能で喋る”ということなのだろうか。閃きを発した自分の発言を、発言の後に解釈して納得するのは俺にとっては初めてだった。

「そうね。料理はいいかもしれないわね」

「そ、そう? なら、頑張ってみようかなぁ」

 フラウさんの言葉にリーゼさんも納得したようだ。心なしかさっきよりもさらに顔が赤らめているような気がする。相手の男性のことでも考えたのだろうか。

 とりあえず食事がすむと、俺ら三人と護衛の合わせて四人で厨房を借り切って料理をしてみることになった。


 城の厨房が広いものだというのはだいたい想像がついていたことなのだが、これほどだとは思わなかった。というのが本音だ。広いというよりも広大。十コースある五〇メートルプールで考えても、だいたい二つ分はあるだろう。一体この城は何坪あるのだろうか。その大きさと設備を見て、まさに開いた口が塞がらなかった。

「よし、じゃあ作るぞ!」

「その前に、何を作るか考えないと」

 リーゼさんがやる気満々なのはいいが、まずは何を作るかはっきりさせておかないと。フラウさんが鋭く突っ込み、それでようやく冷静になれたのか、リーゼさんは恥ずかしげに頭を掻いた。

「やっぱり簡単なものがいいですよね?」

「そうね、いきなりこの子に難しい料理をさせるよりは、簡単なものの方がマスターしやすいでしょう。リーゼ、どんなものがいいの?」

「どうせなら女の子らしいのがいいなぁ」

 女の子らしいもの、かぁ。

 思いつくのはやはりデザートだろうか。フルーツ系やチョコ系、クッキーなんかもいいかもしれない。

「じゃあ、デザートにしませんか?」

「うん、いいわね」

 フラウさんも笑顔で納得してくれた。リーゼさんはというと……。何やら厨房の端っこの方で何かを探しているようだ。一国のお姫様が、砂糖の袋を探す主婦のように背中を丸めて引き出しの中を探っている様子に若干の違和感を感じる。

「あっ、あった!」

 散らかったままの引き出しの数々を背に、元気よくスキップしながらこちらへ向かってくるリーゼさん。天真爛漫という異名をつけてあげたいほどだ。で、何の料理器具を持ってきたのかと思い手元を見ると、予想に反して非連想的なものを持っているからなおさら違和感を感じる。

「はちまき?」

 わざわざあんなに散らかしてまで探すようなものじゃなかろうに。確かに初めての料理なら気合も入るだろうし、集中するためのものかもしれないけど。そう心の中でつぶやいた俺の横で、リーゼさんははちまきを頭に巻き、ぎゅっと締めすぎたのか、顔の皮膚が引っ張られていて痛そうだ。

「くぅぅ。よしっ、何を作る?」

「そうねぇ。プリンなんか簡単そうじゃない?」

 フラウさんが頬に手を当てて困ったようにそう言うと、リーゼさんはそれよりも更に困ったように眉間にしわを寄せた。

「プリン? もっとこう、ちゃんとしたものにしようよ! 女なんだから、料理は男の洋水になんか負けてられないんだから!」

「そうねぇ……たとえば?」

「たとえば……」

 考え込んでいる二人の横目に、俺はあるいい案を思いついていた。小さい頃から大好きで、母親から作り方を教わって唯一作れるようになったデザート。それは、チーズケーキだった。

「チーズケーキ、とか」

 そう言った瞬間、フラウさんとリーゼさんはお互いの顔を見合わせて何度も頷いた。

「いいかも!」

「そうね、良さそうね」

 さぁ、ここからが俺の腕の見せどころだ。この手がすべての動きを覚えているから、わざわざ調べなくても大丈夫。まずは、材料の調達からだ。

「じゃあ早速材料を探しましょう。それと調理器具も」

「はい先生!」

「はい、先生」

 こう改めて先生呼ばわりされるのも良いものだな。普段、野球部で後輩を指揮しているのとは少し違った優越感に浸れる。

 まずは材料から。広い厨房の各所に大きな食料庫がいくつもあり、さすが一国の最高権力を持っているだけあり世界中の食料が揃っている。中には知らない未知のものも多いが、今回はあまり冒険しないようにしよう。

 まずは、クリームチーズを二五〇グラムほど。そして卵が二つ。小麦粉と生クリームと砂糖。あとはレモンとサラダ油。次は調理器具を揃えよう。

 ボール、敷き紙、ケーキの型、オーブンレンジ、大さじ、ケーキ用金網、ケーキを入れる皿。あとは、泡立て器。これだけで出来てしまうから面白い。しっかり器具まで揃っているのは、用意していて気持ち良ささえ感じた。

「さて、じゃあ始めるか」

「あ、その前に。護衛、メモ取っとくのよ!」

「はい、お嬢様」

 なかなか良い心構えだ。そう感心していたのに、思いもよらぬ光景がまた目に飛び込んできた。

 リーゼさんは目をつぶったままじっとしており、そのまま固まってしまった。するとどうしたのか、さっき用意していた調理器具が勝手に動き出し、ケーキ型に綺麗にサラダ油が塗られ始めた。

「ままま待って、待って」

「え?」

 きょとんとした表情でリーゼさんが俺の顔を見る。その瞬間に調理器具が勝手に動いていたのを止め、一瞬の間ができた。

「今の、何ですか?」

「何って、はちまき使ったんだけど」

 いや、答えになっていない。そもそもはちまきはただ頭に巻いてあるだけだ。頭の中が混乱してきたのを見計らってか、傍で応援するように見続けていたフラウさんが分かりやすく事情を説明してくれた。

「このはちまきね、考えただけで勝手に何でも動いちゃう、入力装置みたいなものなの。ご存じない?」

「いえ、全く。そんな便利なものがあるなんて」

「そうなの? 変わってるのね」

 あなたたちの方がよっぽど変っている、と突っ込みたい気持ちを我慢しつつ、環境に早く適応しようと自分に言い聞かせる。ここは魔法が使える世界じゃない。よって、普通のことも普通じゃないし、普通じゃないことも普通なのだ。

「まぁでも、はちまき使ったら心がこもらないと思いますよ? 手作りで作ってみましょう! ね!」

 じゃないと俺の面目が丸つぶれだ。せっかく俺も気合を入れて取り組もうと思ったのに、こんな装置を使ってしまうなんてやりがいの欠片もないではないか。

「そうね。手作り感って可愛らしいと思うわよ? きっと彼もそっちのほうが嬉しがってくれるわ」

 フラウさんのいたずら心丸出しの発言にリーゼさんが赤くなりながら頷く。もっと素直になればいいのに、と心の中でつぶやいたのは誰にも明かさない。

「じゃあ、まずは自分が思うような作り方で作ってみましょうか」

「は、はいっ」

 と、幸先の良いスタートを切れたかと思われたチーズケーキ作りだが、いきなり卵を丸ごと入れるわ、よくかき混ぜてない生地をそのままオーブンレンジに突っ込むわ、クリームチーズは予想以上にあまるわで随分予想を裏切ってくれた。

 出来上がりを見せてくれた時のあの絶叫を通り越した感動は、今後も忘れられないだろう。半生の生地はほぼ液体で、重さに耐えきれずに潰れている。それを見たリーゼさんがさらにフライパンで焼いてしまい、周りが黒焦げの液体チーズケーキが完成していた。

「……新しいでしょ?」

「はい。新しいです」

 こう答えるほかに言葉が見つからなかった。確かに新しいが、これでは見た瞬間に食べる気を無くしてしまいそうだ。

 しょんぼりしているリーゼさんの横でため息をひとつついてから、また準備し直す。

「だいたい分かった。基本から優しく教えますよ。今度は俺が教えながら作ってみましょうか」

「……はい」

 腕をまくって手を綺麗に洗い、材料を綺麗に並べる。さ、一丁やってやるか。

「じゃあサラダ油を塗り直して、敷き紙を敷いて」

「はいっ」

「よし、じゃあ次はボールの中にクリームチーズを入れて、柔らかくなるまでこねましょうか」

「はいっ」

 慣れていないのか、随分重たそうにこねている。その細い腕で頑張っている様子から、なんとか彼に振り向いてもらおうという強い意志がうかがえたような気がした。

「そろそろですね。砂糖、追加しましょう」

「はいっ」

 砂糖は五〇グラムくらい。ちょっと甘いくらいがちょうどいい。

「よし、じゃあ卵も追加で」

「はいっ」

 なかなかスムーズに進みそうだと思ったが、最初の関門が待ち受けていた。卵の割り方だ。リーゼさんは卵の硬い殻を丁寧に爪先で剥がそうとしている。そんなことを剥がれないだろうし、むしろ爪の方が剥がれそうだ。もし剥がせたとしても中身は液体。その瞬間にまき散らしてしまうだろう。そう考えた俺は、ためらいなくリーゼさんから卵を奪うように取った。

「いいですか? 卵は爪では剥がさない方がいいです。こうやって――」

 ボールの縁に二回ほど軽く叩きつけ、そのまま片手でボールの中に綺麗に割ってみせる。白身のとろみの上で黄身がバランスを必死にとっているのに終始感動していたのは、実行した俺ではなく隣のリーゼさんだった。

「すごい……卵ってこんなに透明なんだぁ」

 そっちかよ、という突っ込みをまた飲み込み、二個目の卵をボールの中へ入れて、次のステップへと進める。

「ずっと混ぜ続けてて」

「はいっ」

 リーゼさんが混ぜ続けている中、生クリーム二〇〇CCをその中に均等になるように入れ、そのあとレモンを切って搾ったものも入れた。そうしているうちにだんだんと良い香りが漂いだした。クリームチーズのとろみのある甘さとレモン果汁の爽やかな酸味がちょうどよくマッチしている。ここまではとりあえず成功だ。

「よし、ここからは大変ですよ。一回手を休めましょうか」

「ふぁあ」

 相当疲れたのだろう。投手がマウンド上でそうするように、だるそうに腕を回し始めた。

「本番はこっからなんで。頑張りましょう!」

「ふぁあい……」

 小麦粉を取り出し、大さじ三杯分をボールに投入し、ひたすら混ぜる。しっかりかき混ぜると徐々にそれはふんわりと、またとろっとした生地が出来上がる。これこそがケーキの生地だ。さっきのリーゼさんの作ったほぼ液体のままの生地は、このかき混ぜが全くされていなかったからあのようになったのだろう。その反省が活きているのか、一生懸命にかき混ぜるとしっかりととろみが出た生地が完成した。

「よし、良くできました。このあとはもう簡単ですので」

「やったぁぁ……」

 ふにゃふにゃとへたれこむリーゼさんを横目に俺はケーキの型に生地を入れ、空気抜きの説明に入る。

「さぁ、ここからは見ててくださいね」

 ケーキの型をゆっくりと時計回りに三回まわす。そして、五センチほど上に上げ、タオルの上に三回ほど落とす。こうすることによって空気が抜け、しっかりとしたケーキを作る事が出来る。さっきのはこれを行わなかったからすぐに崩れてしまったのだろう。

「へぇ~なるほどぉ」

「感心してくれてありがとう。じゃあこれをオーブンで焼きます」

「はぁい」

 この時点で微かに良い香りがしているんだ、出来上がったら成功に決まっている。時間を一時間に設定し、扉を閉めてスイッチを押した。

「よし、ちょっと休憩しますか」

「やった!」

 とりあえず後はほとんど失敗しないはずだ。隣の部屋で護衛が必死になって、あの失敗したケーキもどきを食べている傍で、三人座って紅茶を飲みながら一呼吸置いている。隣の部屋と言ってもさっきまでいた広い部屋ではなく、本当に休憩するためだけにあるような小さめの部屋だ。だが小さいといっても高校のひとつの教室ほどはあり、どうしても感覚がずれてしまう。普通は教室ほどの部屋と言うと広いような印象があるが、さっきまでの広すぎる厨房を見たあとでこの部屋を見ると本当に狭く感じられる。

「あの、ちょっといいですか?」

「ん? 何?」

 僕の問いかけにいち早く反応してくれたのはフラウさんではなく、りーゼさんだった。フラウさんも反応してくれたものの、おっとりして落ち着きすぎているだけに、活発なリーゼさんのほうが早かったわけだ。

「こっちの世界に来てしまったということは、元の世界に戻れるんですよね?」

「こっちの世界に来てしまった……? どういうこと?」

 俺は一瞬固まってしまった。何のこと、だと? なら俺は一生この世界にいなければいけないってことか?

「嘘だろ……」

「あ、分かった。前もいたよ、別の世界から来たって人。確かあの人もあのトンネルにいたような気がする」

「それ本当ですか?」

「うん。その時もちょっと話してあのトンネルに戻ったらいつの間にか消えてたよ。吹雪みたいにね」

 なるほど、あのトンネルと吹雪がこんな現象を巻き起こしたってわけか。確かに広島でもあんな大吹雪は珍しかった。ましてや県北ではなく市内の中心部に近い。そんな街中で目の前が見えないほどの強い吹雪が吹くことは今までに見たことがなかった。よくテレビなんかで時空の狭間がどうのこうのというのをやっているのを見たことがある。それなのだろうか。とりあえず元の世界に戻れそうなのでひと安心だ。

「こっちの世界は初めてなのですか?」

 今度はフラウさんがゆったりとした口調で聞いてきた。

「そうですね。住んでいる世界とは違う世界ってのは初めてです。だからいろいろ驚くことばかりで」

「そうですか。とても冷静に落ち着いているように見えたので何回も来ているものだと思っておりました」

 だったら帰る方法なんか聞くはずないだろう、そう思ったのは胸の奥に閉じ込めておく。

「では私の方からもちょっと質問させていただけます?」

 フラウさんがこれまたゆったりとした口調で聞いてきた。

「向こうの世界の話を聞かせて欲しいのです」

「そうですねぇ……」

 どんな話をすればいいのだろう。どういう文明が発達しているか、とかか?

「例えばどんなことを教えればいいですかね?」

「んん……どんな暮らしをされてるんですか? さっきのはちまきも、そちらの世界には無いのですよね?」

「そうですねぇ……」

 どんな暮らしか。説明が難しいというのが本音だ。

「もっと狭い所で暮らしてますね。家族は僕も入れて四人。普段は高校に通っていて、野球をしてますね」

 こんなもんだろうか。まぁあんまり難しい話ができるような頭があるわけでもないし。

「高校……? それは何かの施設ですか?」

「あ、学校です。こちらの世界にはそういうのが無いんですかね」

「学校ですか。なるほどぉ。では、その野球というのは娯楽なのですか?」

「まぁその一種ですよ。この世界は雪が多いから……ちょっとできないですけどね。雪がないところでするのが普通なのです」

「そうですかぁ。残念。教えていただこうかと思ったのに」

 おっとりしすぎてあのスピード感にはついていけないだろうと一瞬思ってしまった。多分教えてしまうと、逆に危険だろう。

「それより護衛さんは頑張ってさっきのを食べてるんですけど、ちゃんとメモ取れてるんですかね……」

 渋い顔をし続けながら食べている護衛さんがかわいそうでならない。だが、だからと言って自分から進んで代わりに食べてあげようとも思わないし、思うことができない。さすがにあれはグロテスクだ。

「護衛さんもはちまきを巻いていますので。帽子をかぶっているので見えないのですが。はちまきで記憶している内容は専用のスパコンに情報がすべていくので、心配しなくても大丈夫です」

「なるほど。こっちでもスパコンがあるんですね。というか、普通に実用化されているんですねぇ」

「えぇ。うちのは特に最新鋭のものを使ってましてね。なんでも、一秒間に二千兆回の計算が可能だとか。まぁでもそういうのに詳しくないので分からないのですけどね」

「ははは……」

 正直、数が多すぎてよく分からない。確かこの前、テレビで一秒間に一六〇兆回の計算ができるスーパーコンピューターが開発されたと騒がれていたが、どうやらその比ではないようだ。どれだけ進んだ世界なのだろう。

「あ、そう言えば、ちょっと前に来ていた人、なかなか言葉が通じなかったよね。でもあなたとはこうして普通に会話ができる。なんでなんだろね」

 無邪気に軽くリーゼさんが会話に入ってきた。確かにこういう場合、日本語が通じるというのはすごく不思議だ。まさかここ、もうひとつの日本なのだろうか。

「確かに。日本語を喋れるって、僕のいる世界でも少数派なんですよ?」

 わざと“日本語”の部分をはっきりと発音し、強調させてみる。どんな反応が返ってくるのだろうか。

「え? 今、日本とおっしゃいましたか?」

「え、えぇ、それがどうか?」

「いえ、今から三千年ほど前に日本という国があったというのを幼い頃に習った覚えがありまして」

「えぇ!?」

 三千年前に日本があった。ということは、俺は未来へ来てしまったということなのか! だとすると、目の前にいる二人や護衛たちはみんな俺の遠い子孫の世代だというのか。いわゆるタイムトラベルってやつだ。

「もしかしてそこから?」

「はい。紛れもなく日本から来た日本人ですよ!」

「そうだったのぉ。まぁ随分と遠い昔からお出でになったのねぇ」

「なんでそんなに平常心でいられるんですか?」

 正直言うと俺は今、猛烈に焦っている。背中がゾクゾクして、冷や汗まで出てきている。なのに目の前の二人は平然としていて、まるで机からペンを落としたのと同等の驚きしか見せない。まさに涼しい顔をして紅茶の入ったティーカップに口を付けている。

「興味はあるけど、特別珍しいってものでもないの。この世界ではけっこう異世界から来るのって不思議じゃないから。でも日本っていう国にはとても興味があるわ。ちょっとその服、触ってもよろしい?」

「あ、良いですけど……」

 俺の返事を待たずにフラウさんは白いウィンドブレーカーを恐る恐る触り始めた。やはりこの素材も珍しいのだろうか、入念に感触を確かめている。触りながら「へぇ」とか「ほぉ」とか言ってはいるけど、特に感想を言われることもなく、ただじっとしているしかなかった。その間にもリーゼさんは手元の紅茶を飲みほし、退屈そうに頬杖をついている。

「ふぅん。意外と暖かそうでそうでもないのねぇ。薄いしねぇ」

「はい。まぁ」

 それはそうだ。こんな雪国に住んでいる人からしたらこんな素材じゃ暮らしていけるか心配だろう。それにここは未来だ。もっと暖かい繊維があって、もっと暖かい服があるはずだ。違う意味で時代を感じる。

 と、そうしているうちに時間になり、また大きな厨房に戻った。

「さ、じゃあ取りだしますよ」

 オーブンを開け、中から大きな塊を取り出すと、たちまちチーズとレモンの甘くて爽やかな香りが漂ってきた。それは先ほどの焼いていない状態の時よりも強く、またマイルドな香りになっている。フラウさんもリーゼさんも目をこれでもかと言うほど輝かせ、護衛の人までも口を半開きのまま覗きこんでいる。

「美味しそう……」

「いい香りがしますわねぇ」

「でしょう。これがうちの特製チーズケーキなんです!」

 出来上がったケーキを見て、自然と笑顔がこぼれる。これで少しは役に立てただろう。リーゼさんがさっきからやりきったような自信に溢れた表情をしているのを見て、なんだか俺の方から嬉しくなってきた。

「じゃあ、ここからはチェックです。竹串で真ん中を突き刺して、何もくっ付かなければ成功。完成。で、もし中身がくっ付いてしまったら、もう五分焼いて様子を見ます。じゃあ、リーゼさん、刺してみてください」

「はい。こう?」

 リーゼさんがまるでナイフを上から振り下ろすように竹串を突き刺す。それも平気な顔で平然と行うものだから、一瞬顔が引きつってしまったのが自分でも分かった。フラウさんも同じように引きつっているのかと思いきや、にこやかに妹を見守っている。再三、突っ込みの機会があったが、もうここしかないだろう。

「あの、もうちょっと普通にというか、なんというか昔風に? というか時代から考えて、原始的に? 調理とかしません?」

 遂に言ってやった。ここまで我慢してきた分、効果は充分だと思う。

「えっ」とリーゼさん。

「あっ」とフラウさん。

 その瞬間、言ってしまったという後悔からくるものなのか、それとも言ってやったという達成感なのかは分からないが、細かい震えの後に鼓動が強くなってきた。寒さも今の状況からして感じないし、特別に運動したというわけでもない。ましてやドキドキするような恋愛感情も皆無だ。なのにこの鼓動の強さは何なのだろうか。不思議だ。そう感じているうちにいつの間にか鼓動の強さも弱まり、震えも無くなった。きょとんとしている二人を見てハッと我に返り、作業に戻る。ケーキは触れるほどまで程よく冷めていた。

「じゃあ型から外して、もう少し冷ましましょうか」

「はいっ」

「ちょっと力いるけど、大丈夫ですか?」

「頑張るっ!」

 さっきからリーゼさんの目が輝いて見える。初めてのまともな料理だからだろうか、ほぼ完成しているケーキを目の前にして、自然にニヤけている。次に例の彼に作ってあげている所でも想像しているのだろうか。少しずつではあるが、その彼のことが羨ましくなってきた。

 ケーキのほうはというと、もうすでに湯気を出し切り、温もりはほとんど無くなっている。それにナイフを入れるようにリーゼさんに指示を出し、綺麗に八等分すると、程よく柔らかさを保った立派なチーズケーキが完成していた。

「よしっ……完成!」

 良い香りに誘われてきたのか、いつの間にか集まってきていた群衆が一斉に歓声を上げた。さすがに一国のお姫様が初めて作ったまともな料理なだけに、国内では大ニュースなのだろう。こんなに注目されるとは、羨ましいものだ。俺もこうしてはいられない。早く元の世界に戻って野球の練習を再開せねば。輪の真ん中で拍手喝采を浴びて達成感に満ち溢れている笑顔のリーゼさんを横目に、そっとその場を離れた。

 大きな厨房を離れると、誰もいない廊下に出た。この豪勢な飾りの数々に比べて辺りが静かなせいで、もの寂しさを感じる。ほとんどの従業員が先ほどの拍手喝采に参加しているせいだろう。ほとんど人を見かけない。と、その時、後ろの方から馬のひづめの高鳴りのようなコツコツという足音が駆け足で迫ってきた。

「ちょ、ちょっと待っていただけますか?」

 背中の方から声が聞こえたので振り返ると、さっきの輪の中にいた護衛の一人だった。

「あ、はい」

「リーゼ様とフラウ様から伝言をお預かりしております。非常に感謝しているとのことです。人前で私達のような位の人間が一般客に頭を下げるという行為はさすがにあんな大勢の前では出来かねましたので、代わりに護衛の者に預からせました。本当に感謝しているとともに、面と向かって感謝の意を表明できなかったことをお詫びします。元の世界までの帰り方を護衛に任せておきましたので、お気をつけて。……だそうですっ!」

 なるほど。確かに頭を下げられてもこっちが困るだけだしな。こういう別れも良いだろう。確か、外は大雪。吹雪も強く吹いているはず。さすがにその道をもう一度辿りたいとは思えない。とすると、どうやって帰ることになるのだろうか。

「あの、これからの予定はどうなってますか?」

「え、いや、私めはこの後も仕事が残っておりますし……し、しかも私めは同性には興味がありませんので、申し訳ございませんが……」

「いや、そうじゃなくて、俺はどうやってここから帰るのか教えてもらえません?」

 さすがに俺も嫌だ。現実世界に戻ったところで意中の人なんかいないが、せめて異性がいい。

「あ、それでしたら、これから私めがご案内いたします」

「どこへ?」

「ある魔女のところでございます」

「魔女?」

 何やら悪い予感がする。だいたい物語の世界の魔女は乱暴者で、無茶苦茶な要求を突き付けてきたりする。そう言うのがなければいいのだが。

 護衛の後ろをついていくと、この城の装飾が場所によって微妙に違っているのに気付く。だいたい三十分ほど歩いただろうか、長い廊下の先に、怪しげな一室を見つけた。護衛は平気な顔でそこを指し、案内してくれているが、どうも雰囲気が異様だ。さっきよりもここだけが体感温度が冷たい。凍えそうなほどではないが、隙間という隙間から風が吹き込んでいるような微妙な冷たさ。さすがにここまで来て引き返すわけにもいかず、古い木造の扉をノックする。

「あいよ」

 低い声だが確かに女の人の声だ。一言だけなのに重さがあり、ずっしりと胸に何かを落としていくよう。

「失礼いたしますっ」

 護衛がまず重たそうに扉を開け、そこに一歩踏み入れてみる。悪い予感は全く期待を裏切らなかった。じとじと湿っていて、寒さなんか関係ないから今すぐ窓を開けて換気したいとまで思ったほどだ。だが、この部屋には窓がなく、換気扇も見当たらない。唯一窓に見えるものは、謎の壁掛け標本だけだ。

「こちらの方が例の来客です。またあの方法で帰らせてはあげられませんでしょうか?」

 俺がどうする事も出来ずにそわそわしている間に護衛は扉を閉め、部屋はほぼ真っ暗になった。だが俺と護衛以外に人がいる気配がない。確かにさっき返事があったはずなのだが……。

 すると、徐々に目が慣れてきて、部屋の中がまた鮮明に見えだした。部屋の中心にテーブルがあって、周りには理科の実験室みたいに色々な怪しげなものが置いてあって――。というのを予想していたのだが、意外にそういう物は少なかった。この部屋に題名をつけるとすると、まさしく“空洞”だろう。その空洞の隅に、何かが黒い毛布を被されている。

「そんなところで丸くなってないで、耳を傾けてくださいよ、ソートレイナさん」

「え、あれが??」

 護衛の思わぬ発言に、思わず声を大きく高く出してしまった。魔女ってもっと、水晶玉に向かってさするように念を送っているものだと思っていた。

「耳は傾けておる」

 また胸が重たくなるような低音の声だ。間違いない、あれが例の魔女だ。

「あの、ここから帰りたいんですけど、どうすればいいんですか?」

 魔女は肩を細かく震わせながら鼻で笑うとゆっくりと立ち上がった。裸足だし、まるでテレビの中から出てきたお化けに黒い布をかぶせたようだ。ここでやっと、その黒い毛布に見えたものが服とそのフードであることに気づいた。すると、袖から細い腕が出てきて、関節を鳴らしながら歩いてきた。

「姫様から全て聞いておる。最後に言い残すことは無いか?」

 そんな言い方をされるとは。縁起でもない。でも、あんな姿を見てまっすぐな思いに感心したし、自分もそんな恋がしたいと思うことができた。なんだか明日から希望が持てそうなのは事実だ。それは護衛にぜひ伝えてもらいたい。

「護衛さん、すみませんが、伝言をお願いできますか?」

「ええ。何でしょうか」

「お二方には恋愛の熱い思いを教わりました。僕も恋がしたくなってきました。リーゼさんも、ぜひ頑張ってください。と」

「了解いたしました」

 途中で自分の発言が恥ずかしくなってしまい、帽子を深くかぶり直した。するとどうしたものか、体中が薄くなっている。というより、空気に溶け出している。もちろんこんな経験も今までしたことがない。貧血で色が青白くなってしまうのとはわけが違う。

「向こうの世界でもお元気で」

 最後に少しだけ護衛の人が笑って送ってくれたのが嬉しかった。

「――なぁそこの護衛、どうだい? 私の魔女っぷりは」

 魔女のその一言は、とりあえず聞かなかったことにしよう。いたずら好きな魔女だという印象だけははっきりと覚えていられるような気がした。それから間もなく、果てしなく続く透明な水の中にいるような気がして、勝手に瞼が閉じていった――。


 ――べちゃっ。

 これは一体なんだろうか。チーズとレモンの匂いが強烈に鼻を襲う。顔や体中についたものを目で確認すると、ケーキの生地だということが分かった。なぜこんなところにケーキがあるのだろうか。そして、なぜこんなところでうつ伏せになっていたのだろう。確か、ランニングをして吹雪が強くなってきたからトンネルに入って……。そこから急にこのザマだ。その間には何もなかったはずだが……誰かに運ばれたのだろうか?

 ふと顔を上げると、ショートケーキの上にかかっているあの白い粉のような雪の結晶が、何粒も何粒も顔に舞い降りてきた。どうやら吹雪は弱まったらしい。目線の先には、紛れもないあのトンネルが見えている。

「おい、胤爽ぁ!」

 どこからともなく声が聞こえてきた。確かあの声は、チームメイトだろう。一体どうしたのだろうか。耳を傾けてみると、どうやらその声はトンネルの向こう側から聞こえるようだった。と同時に、勢いよく走ってくる足音がトンネル内に響いているのがはっきりと聞こえてきた。

「ここだったんか」

「あ、どしたん?」

「どしたん? じゃないけぇ。吹雪があんまり強いから練習も中断しちゃってさ。外に走りに行ったお前の事が心配で探しに来たんよ。道端で倒れとるんじゃないかぁ思うて探しよったら、まさかケーキの上に倒れとるとはのぉ。大丈夫じゃったか?」

「あ、うん。まぁ……」

 なんか悪い事をしてしまったことだけは自覚している。ただ、なんでこんなところに寝かされたのか、やっぱり気にせずにはいられない。

「なぁ、なんでこんなところにでっかいケーキがあるんかねぇ?」

「は? これ、クリスマスのイベント用に作られたやつじゃん。まぁこんなとこに放置されとるとは思わんかったけど。いや、そんなことはどうでもえぇけぇ、とにかく帰ろうや。お前はまず、暖まらんと、な」

「おう。ありがと……」

 こうして肩を貸してもらいながら学校へ帰る事になった。だがなぜか、ひとつだけ心の中でモヤモヤしている部分があった。なんだろう、この暖かさは。

 雪はなおも降り続いている。これが止みきるまでにはきっと学校に戻れているだろう。重苦しくどんよりとした曇り空の間の切れ間からは、すでに所々陽がのぞいていた。

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