表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の庭園  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/44

# 第7話:迫りくる影、深まる絆

聖徴学園に差し込む朝日は、昨日までの喧騒を洗い流したかのように穏やかだった。しかし、仁科蒼真の心には、昨日までよりも一層深く、暗い影が張り付いていた。


登校中、彼はいつも通りの無表情を保ちながら、五感を研ぎ澄ませて周囲を観察する。学園の門をくぐり、昇降口へと続く道。生徒たちの賑やかな声、風に揺れる木々の葉擦れ、遠くで響く部活動の掛け声。その全てが、蒼真には情報として押し寄せる。彼はその中に、常に混じっている不自然な音――特定の生徒の動きを追う複数の視線、微かに漏れる電子機器の信号、そして『影』特有の“気配”を敏感に捉えていた。


由紀は、普段と変わらず優雅な足取りで校舎へと向かっていた。彼女の周りには、さりげなく配置された数人の生徒や教員がいた。彼らはみな、由紀の行動を無意識に、あるいは意識的に監視している『影』の末端、または協力者だ。特に、由紀の登校ルート上の死角となりがちな場所に、新しい監視カメラが設置されているのを蒼真は見逃さなかった。昨夜、自宅周辺まで及んでいた監視が、今朝は学園内でもさらに強化されている。由紀が置かれている状況は、彼の想像以上に深刻だ。そして、そんな彼女の背中を、蒼真は密かに見守り続けている。自身の存在が露見すれば、即座に『影』に消されるという絶対的な恐怖と隣り合わせで。


教室に入ると、星野真琴が待ち構えていたかのように蒼真の席に駆け寄ってきた。「蒼真くん、おはよう! 今日も静かだね。もしかして昨日の事件でまだ疲れてる?」


彼女の屈託のない笑顔は、蒼真の警戒心をわずかに緩ませる。彼女の言葉に嘘偽りはない。純粋に彼を心配している。だが、その純粋さの裏に、『影』の影が潜んでいるかもしれないという疑念が、常に蒼真の胸に付き纏っていた。彼は短い返事と軽い首の動きで応じ、自身の内面に沸き起こる感情の波を押し殺す。しかし、その時、教室の扉から入ってきた由紀が、ふと蒼真の方向を見た。一瞬、碧眼と黒い瞳が交錯する。由紀の視線は何かを探るように、そして微かに熱を帯びているように見えた。


「仁科くん、おはよう」


由紀は蒼真に近づき、柔らかな声で挨拶した。その背後には、心配そうに彼女を見守る神月咲月が立っている。咲月の表情には、由紀が蒼真に話しかけることへの、わずかな不満と警戒が混じっている。蒼真は由紀の挨拶に対し、いつも通りの淡々とした声で「おはよう」と返した。彼の中では、由紀との距離を保ちたいという理性と、彼女の近寄りがたい美しさと優しさに惹かれる本能がせめぎ合っている。特に、由紀が彼に向けた視線の奥に、昨日よりも一層明確な「興味」が宿っているのを蒼真は感じ取っていた。それは彼にとって、喜びであると同時に、正体が露見するリスクを一層高める危険信号でもあった。


午前中の授業中も、蒼真の意識の半分は由紀に向けられていた。彼女はノートを取る手元は繊細で美しく、時折ペンを止めて窓の外を眺める仕草にも品があった。その瞬間、蒼真は彼女の横顔に、まるで絵画のような静謐さを見出す。しかし、蒼真の五感は、同時に教室の隅に設置された小さな煙感知器が、通常の機能に加えて指向性マイクと微細なカメラを内蔵していることを捉えていた。さらに、廊下を歩く清掃員や、定期的に通り過ぎる教員たちの視線も、常に由紀の存在を追っている。彼らは皆、『影』の『監視者』であり、その多くは自分たちが何を監視しているのかさえ知らずに、ただ与えられた役割をこなしているだけなのかもしれない。


昼休み、蒼真はいつも通り一人で食堂の隅の席に座り、簡素な食事を摂っていた。静かに周囲の情報を処理するこの時間が、彼の偽りの日常を支える唯一の安息だった。しかし、その日の安息は、由紀によって破られた。


「仁科くん、もしよかったらご一緒してもいいかしら?」


透明感のある声が、蒼真の耳に届く。顔を上げると、由紀がトレイを手に、彼の目の前に立っていた。その隣には、不機嫌そうな顔をした咲月がいる。咲月の視線は、由紀の隣に座ろうとする蒼真の行動一つ一つに、鋭い警戒を向けていた。


「……どうぞ」


蒼真は短い言葉で応え、内心の動揺を悟られぬよう、わずかに席を詰めた。由紀は微笑みながら向かいに座り、咲月は渋々といった様子で由紀の隣に座った。食堂のざわめきの中で、由紀の存在は一際輝いて見えた。彼女が座った途端、周囲の監視員たちの動きがわずかに活発になるのを蒼真は感じ取っていた。彼らは、由紀の意識が蒼真に向けられていることに気づき、情報の優先順位を上げているのだ。


「仁科くん、この前の事件の時は、本当にありがとう。星野さんも、あの時仁科くんが咄嗟に動いてくれたおかげで、大事に至らなかったって言ってたわ」


由紀は感謝の言葉を述べた。蒼真は、あの時反射的に動いた“普通”の高校生を演じたが、由紀の観察眼はそれを「普通ではない」と見抜いていた。彼女は、彼の表情のわずかな揺らぎ、手の動き、瞬き一つまで見逃さない。それはまるで、彼の表面的な装甲の内側を覗き込もうとするかのような視線だった。


「……俺は、何も」


「いいえ、そんなことはないわ。私も見ていたから。あの時の仁科くんの動きは、とても、なんていうか……速くて、的確だった」


由紀の言葉に、咲月が口を挟む。「由紀、仁科くんは謙遜しているだけだよ。あの時、誰もがパニックになっていたんだから、仁科くんも必死だったんだよ」


咲月の言葉は、由紀の探るような視線を遮ろうとする意図が明確だった。蒼真は、咲月が無意識に由紀を守ろうとしていることに、改めて確信を得た。彼女の能力は低いランクだが、由紀を守るという本能的な欲求が、無意識の能力発現に繋がっているのかもしれない。


「そうね、ごめんなさい、仁科くん。でも、あの時の仁科くんの冷静さは、本当に驚いたわ。私なんて、何もできなかったもの」


由紀は少し寂しそうに微笑んだ。その表情は、彼女が自身が能力を持たないこと、そして『影』の権力闘争の駒として利用されている現状に対する、無力感の表れなのかもしれない。蒼真は、そんな彼女の真の感情に、初めて触れた気がした。そして、彼の心臓が、微かに、かつてないほど強く鼓動した。


「……誰でも、ああなる」


蒼真は、かろうじて言葉を絞り出した。由紀の探るような視線が、彼の内側を焼き尽くす。彼女の知性と観察眼は、彼の偽りの日常を少しずつ剥がしにかかっている。それは彼にとって、かつてないほどの危険と、同時に、かけがえのない人間らしい交流の始まりでもあった。


放課後、蒼真は今日も密かに由紀の護衛に就いた。由紀は学生会活動のため、いつもより遅くまで学園に残っていた。蒼真は、周囲の監視を掻い潜りながら、校舎の屋上や死角となる場所に身を潜め、由紀の動きを追う。彼の目には、学園の至る所に仕掛けられた隠しカメラの赤外線信号や、教員や生徒に紛れた監視員たちの微細な動きが鮮明に映る。


由紀が学生会室を後にし、帰路につこうと昇降口へ向かう。その瞬間、蒼真は違和感を覚えた。いつもは定位置にいるはずの監視員の一人が、今日は不自然な場所に立っている。そして、その監視員が、由紀が通るはずの廊下の先にある消火器ボックスを、開けるような仕草を見せた。消火器ボックスの裏には、新たな盗聴器、あるいは小型発信機が仕掛けられている可能性が高い。由紀がその場所に近づけば、彼女の声や、もしかしたら彼女が持っているであろう重要な情報を、よりクリアに『影』が傍受するかもしれない。


「……っ」


蒼真は一瞬迷った。ここで動けば、自身の存在が露見するリスクが高まる。だが、由紀の秘密が暴かれる可能性を見過ごすことはできない。彼は決断した。能力を極限まで抑制し、あくまで「普通の高校生が偶然起こした」としか思えないような動きで、介入する。


由紀が消火器ボックスに差し掛かる直前、蒼真は階段の手すりにもたれかかるように歩き、わずかに重心をずらした。その瞬間、彼のポケットに入れていたペンケースが、手から滑り落ちるようにして、音を立てて床に転がった。「あっ……」蒼真はわざとらしい声を上げ、屈み込む。ペンケースは勢いよく滑り、由紀が歩く予定だった廊下の真ん中に飛び出した。


「すみません、白咲さん」


蒼真は由紀に謝罪しながら、ペンケースを拾うために、その場所まで足を踏み入れた。由紀は驚いた顔で立ち止まり、蒼真を見つめている。その時、蒼真は素早く、消火器ボックスの裏側を親指で撫でた。指先に、わずかな粘着剤の感触。やはり何か仕掛けられていたのだ。


ペンケースを拾い上げた蒼真は、由紀に再び頭を下げた。「お気になさらず。仁科くんこそ、大丈夫?」由紀は優しく声をかけ、彼の目の前で立ち止まっている。その間に、蒼真は拾ったペンケースをポケットに戻す際、指先で触れた粘着剤の痕を、ポケットの内側で拭い取った。


監視員は、蒼真の突発的な行動に、一瞬だけ警戒の視線を向けたが、ペンケースを拾うだけの「普通の」行動だと判断したのか、すぐに元の位置に戻った。盗聴器の設置は阻止された。少なくとも、今日のところは。


蒼真は由紀に別れを告げ、彼女が学園を出るのを見届けてから、再び遠巻きに追跡を開始する。彼の心臓は激しく高鳴っていた。自身の正体が露見しかける危険な綱渡り。だが、由紀の無防備な優しさと、彼女の背後に潜む『影』の脅威を目の当たりにするたびに、蒼真はより一層、彼女を守ることを決意する。彼の孤独な戦いは、もう一人の少女の運命と、深く、そして避けがたく絡み合いつつあった。夜空の下、蒼真は決意を新たにした。どんな代償を払ってでも、彼女を守り抜く、と。



自宅に戻った蒼真は、シャワーを浴びてからベッドに横たわった。天井の染みをぼんやりと見つめながら、今日の出来事を反芻する。由紀の、彼に向けられた探るような視線。彼女の優しさ。そして、『影』の巧妙で執拗な監視。それらが全て、彼の心を複雑な感情で満たしていた。彼の内側で、かつては無かったはずの人間らしい感情が、まるで荒れ狂う嵐のように渦巻いている。由紀を守りたいという強い衝動。しかし、その衝動が強まるほど、自身の秘密が暴かれる危険性も高まる。それは、まるで彼自身が持つ「総合超人能力」が、彼の感情と同期して暴走しているかのようだった。


『絶対に能力を使うな。ばれたら確実に消される』


かつての相棒の警告が、脳裏にこだまする。その言葉は、彼の行動を縛る絶対的な鎖だった。だが、今日のペンケースの件のように、彼はすでにその鎖を少しずつ緩め始めている。由紀の笑顔が、その鎖を溶かす熱を持っていた。このままでは、遅かれ早かれ彼の正体は露見するだろう。そうなれば、彼は『影』から追われる身となり、由紀も危険に晒される。だが、それでも、彼は由紀を守ることをやめることはできないと感じていた。


蒼真は、冷たいシーツをぎゅっと握りしめた。彼の心は、かつてないほど揺れ動いている。しかし、その揺らぎの先に、彼は確かに由紀という光を見出していた。その光を守るためなら、たとえ自分が消え去る運命にあったとしても、彼は戦い続けるだろう。たとえ、それがどれほど孤独で、どれほど危険な道であったとしても。彼は目を閉じ、闇の中で由紀の笑顔を思い浮かべた。その笑顔こそが、彼の心を突き動かす唯一の理由だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ