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影の庭園  作者: 最後に残った形


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# 第26話:逃避の夜、誓いの道


聖徴学園の正門を、三つの影が音もなく潜り抜けた。夜の帳が降りたばかりの街は、まだ昼間の喧騒の余韻を残しながらも、どこか寂しい静寂に包まれている。背後に聳える学園の校舎は、その威容を闇に溶かし、もはや彼らの「日常」であった輝きを失っていた。蒼真の心臓は、静かに、しかし力強く脈打っていた。彼の全身に張り巡らされた感覚は、微かな風の揺らぎや遠くの車の排気音、街灯の下を通り過ぎる人々のざわめき一つ一つを拾い上げ、その中に紛れ込んだ「異物」の兆候を探していた。霧島を撃退したとはいえ、『影』の追跡が止まるはずがない。むしろ、あの撤退のサインは、彼らが本腰を入れた証拠だった。


「蒼真くん……本当に、学園にはもう戻れないの?」

由紀の声が、震える吐息と共に夜の闇に吸い込まれた。彼女の銀色の髪は街灯の淡い光を反射し、その碧眼には不安と、それでも蒼真を信じる揺るぎない光が宿っていた。手には、最低限の着替えと数日分の食料を詰めた小さなリュックが握られている。真琴は、その横で黙って俯いていた。彼女の表情は、自己嫌悪と罪悪感によって深く影を落としている。学園の監視人としての過去を突きつけられた彼女の心には、深い傷が刻まれているのが見て取れた。


「ああ。霧島が残したサインは、彼らの中でも緊急事態を意味する。Sランクの能力者が逃亡し、その力が一部とはいえ公になった。彼らはそれを看過しない。まして、白咲瑛司の娘である由紀までが俺と行動を共にしているとなれば、総力を挙げて追ってくるだろう」

蒼真は淡々と説明した。彼の声には、感情の起伏がほとんどない。だが、その瞳の奥には、由紀と真琴を何としてでも護り抜くという、固い決意の炎が揺らめいていた。彼は周囲の状況を常に警戒し、人通りの少ない裏通りへと二人を誘導する。アスファルトのひび割れた路地裏は、闇に沈み、昼間の活気とは無縁の空気が漂っていた。


「私の……父が……」

由紀が唇を噛み締めた。その言葉には、父親への複雑な感情が滲み出ていた。敬愛と、そして利用されてきたことへの失望と、何より彼女を危険に晒しているという現状への深い悲しみ。

「父は、『影』の幹部の一人。その中でも、特に権力志向が強いとされています。私の母は、父の権力闘争の犠牲になったと、私自身も薄々感じていました。父は、私を『影』の中枢へと上り詰めるための道具としか見ていなかったのでしょう。私自身も、これまでずっと、その事実から目を背けていたのかもしれない」

由紀の言葉は、自己分析のようでもあり、深い自己反省のようでもあった。彼女が「影」の幹部の娘であるという事実は、蒼真にとって決して無視できない重荷だった。それは、由紀の身を危険に晒すだけでなく、彼らの行動が常に読まれる可能性を意味する。


「由紀の父親が、由紀を利用して組織を掌握しようとしている、と霧島は言っていた。それが事実なら、お前は今後も常に狙われる。そして、俺は──」

蒼真は言葉を区切った。由紀を巻き込むことへの罪悪感が、彼の心の奥底で疼いた。彼は孤独に生きることを選んだはずだった。誰とも深く関わらず、ひっそりと息を潜めて生きていく。それが、自分と周囲を護る唯一の方法だと信じていた。しかし、由紀や真琴との出会いが、その信念を根底から揺るがした。


「蒼真くん」

由紀は立ち止まり、蒼真の腕にそっと触れた。その手は、冷たい夜風の中でも温かかった。

「貴方が私を巻き込んだなんて、一度も思ったことはないわ。むしろ、貴方に出会って、私は初めて自分の意志で生きることを選んだ。これまでは、ただ父の描いたレールの上を歩いていたに過ぎなかった。でも、貴方は私に、真実と、そして『自由』を見せてくれた。だから、私は貴方と共に戦いたい。貴方一人に、全てを背負わせたくない」

由紀の瞳は真っ直ぐに蒼真を見つめ、その中に宿る意思の強さに、蒼真は一瞬言葉を失った。彼女の言葉は、彼の心の奥底に染み込んでいく。


「由紀……」

蒼真が微かに口を開いた時、真琴が顔を上げた。彼女の目はまだ赤く腫れていたが、その表情には先程までの絶望の色は薄れ、固い決意が宿っていた。

「私もだよ、蒼真。由紀ちゃんも。私は、知らず知らずのうちに、二人を裏切ってしまっていた。監視人として、あんまりだよ。私は……私自身が、一番許せない。でも、だからこそ、今度こそ、二人のために、この身を賭して戦いたい。私が持っているものなんて、大したことないかもしれないけど、でも、きっと役に立てることがあるはずだから」

真琴の瞳には、かつての快活な輝きとは違う、深い覚悟の光が灯っていた。彼女の言葉には、自己犠牲すら厭わないような、強い贖罪の念が込められているのが伝わってきた。彼女は、知らずに犯した罪を、今から命懸けで償おうとしている。


蒼真は、二人の視線を受け止めた。由紀の揺るぎない信頼。真琴の深い後悔と、それゆえの決意。彼らは、自分の最も弱い部分、秘密を全て曝け出した蒼真を、それでも信じると言ってくれている。彼らは、蒼真が手放そうとした「人間らしい絆」を、再び彼の元に引き戻してくれたのだ。


「馬鹿なことを言うな。お前たちを巻き込むことなんて……」

言葉は、途中で途切れた。蒼真は、自分の心が、二人の言葉によって温かく満たされていくのを感じていた。孤独に慣れきっていたはずの心が、これほどまでに誰かの存在を求める日が来るとは、夢にも思わなかった。


「もう巻き込まれているわ。だから、前に進むしかない」

由紀は優しく微笑んだ。その微笑みは、不安な状況を忘れさせるような、穏やかな光を放っていた。

「それに、蒼真くん、貴方はもう一人じゃない。私たちも、貴方と共にいるわ」

真琴も力強く頷いた。


蒼真は深く息を吐いた。夜の冷たい空気が肺を満たし、彼の心を落ち着かせていく。そうだ、もう逃げない。一人で背負い込むことをやめよう。この二人と共に、この困難な道を切り開いていくのだ。


「分かった。ただし、これからの道は、これまでとは比べ物にならないほど危険だ。いつ、どこから『影』の追手が現れてもおかしくない。お前たちには、常に自分の身を護る覚悟が必要になる」

蒼真は、二人の目を見て、はっきりと告げた。その言葉は、彼自身への誓いでもあった。


「うん! 任せて!」

真琴は、いつもの明るい笑顔を取り戻し、力強く拳を握った。しかし、その目には、決して軽々しいものではない、真剣な覚悟が宿っている。

「私、情報収集ならできると思うの。学園の監視システムとか、少しだけど知識があるから、もしかしたら『影』の動きを予測できるかも」

彼女の言葉に、蒼真は驚きを覚えた。確かに、彼女は無自覚とはいえ、これまで『影』の監視システムの一部として機能していた。その経験と知識は、思わぬところで彼らを助けるかもしれない。


「私も、微力ながら協力するわ。父の行動原理や、『影』の内部構造について、私が知っていることを全て話す。それに……」

由紀は、蒼真の瞳をじっと見つめた。

「私が知っていることは、蒼真くんが知らない『影』の深い部分かもしれない。私の父親が、何故私を道具にしようとしているのか、その動機を探れば、彼らの次の行動も読めるかもしれないわ」

由紀の言葉は、非常に論理的だった。彼女の知性と観察眼が、ここに来て存分に発揮されようとしている。


蒼真は、再び二人の手を取った。由紀の温かい手と、真琴の力強い手。その感触が、彼の心に確かな現実と、未来への希望を与えてくれた。


「ありがとう……二人とも」

蒼真の口から、珍しく感謝の言葉が漏れた。その声音は、これまでの彼からは想像できないほど、穏やかで人間らしい響きを持っていた。


三人は、再び歩き始めた。学園から数ブロック離れた場所にある、古びた鉄道駅を目指して。そこは、蒼真が事前に目を付けていた、人目につかない小さな駅だった。夜遅くには最終電車も終わり、人気はほとんどない。駅舎は薄暗く、誰もいないホームには、冷たい風が吹き抜けていく。遠くで犬の吠える声が聞こえるだけだった。


「ここだ」

蒼真は、人気のないベンチに座るよう促した。その表情には、未だ警戒の色が濃く宿っている。

「まずは、ここで夜を明かす。追跡を撹乱するためにも、しばらくは交通機関を使わない方がいい。夜が明けたら、人目の少ない場所を選んで移動する」


「分かった」

由紀と真琴は頷き、蒼真の隣に座った。真琴は、リュックからペットボトルと栄養補助食品を取り出し、二人にも手渡した。

「お腹空いたでしょ? とりあえず、これで少しでも体力つけておかないと」

彼女の気遣いに、二人の心は温かくなった。


蒼真は、真琴が差し出した栄養補助食品を黙って受け取った。彼の腹は空腹を訴えていたが、それ以上に、この三人で共に生き延びるという新たな使命感が、彼の心を支配していた。霧島との戦闘で消費した体力は尋常ではなかったが、今は疲労を感じている暇はない。彼には、護るべき存在がいるのだ。


夜の闇は深く、星々が煌めいていた。静かな駅のホームで、三人は身を寄せ合う。彼らの前には、未知の危険と、激しい戦いが待ち受けているだろう。だが、彼らはもう一人ではない。秘密を共有し、互いを信じ、共に歩むことを決めた、かけがえのない絆がそこにあった。


蒼真は、静かに目を閉じた。彼の五感は、休むことなく周囲の気配を探っている。遠くから微かに聞こえるサイレンの音。それは、彼らの耳には、『影』の追跡が始まっていることを告げる、不吉な予兆のように響いた。しかし、彼の心には、決して揺らぐことのない決意が宿っていた。由紀と真琴と共に、この暗闇を突き進む。そして、いつか必ず、光の差す場所へと辿り着いてみせる。


夜が、ゆっくりと更けていく。彼らの新たな旅路は、まだ始まったばかりだった。だが、この逃避の夜は、彼らの絆をより強固なものへと変え、来るべき戦いへの準備期間となるだろう。蒼真は、由紀と真琴の存在を、その心に深く刻み込んだ。彼らは、もはや彼の人生における「お荷物」などではない。共に戦い、共に生きる、「家族」とも呼べる存在へと昇華していたのだ。


蒼真の耳に、微かな、しかし聞き慣れた「気配」が捉えられた。それは、能力者の放つ独特の波動。一つ、二つ、そしてさらに増えていく。学園のある方向から、確実にこちらへと近づいてきている。蒼真は、静かに目を開いた。傍らで眠る由紀と真琴の寝顔を見つめる。彼らを守るためなら、彼はどんな力でも使う。どんな敵とも戦う。


「……来てやがったか」


蒼真の呟きは、夜風に掻き消され、誰にも届くことはなかった。しかし、彼の瞳の奥に宿る光は、決して消えることのない、灼熱の炎のように輝いていた。三人の逃避行は、まさに今、その幕を開けようとしていたのだ。彼らは、ただ逃げるだけの存在ではない。立ち向かうための、新たな力を手に入れたのだから。


夜明けまで、あと数時間。彼らが休める時間は、もはやほとんど残されていなかった。

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