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二人の母、一つの境界線 ―空のママと、絆創膏のお母さん―  作者: 横山


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第一話

 私にとって、「ママ」は空の向こうからやってくる特別な人だった。


 実の母は、海外の紛争地や貧困地域を飛び回る外科医だ。 父とは、愛し合っていなかったわけではない。


 ただ、命を救うために世界を駆ける情熱と、 日本の大きな総合病院の跡取りとして地域医療を守る責任。


 その二つの正義は、同じ家の中に収まるにはあまりに巨大すぎたのだという。


 母が帰国する日は、私にとっての祝祭日だった。


 その日は幼稚園を休み、私は朝からお気に入りのワンピースを着て、 玄関のタイルの模様を数えて待つ。


 チャイムが鳴り、父がドアを開ける。 そこには、旅の疲れなど微塵も見せない、輝かんばかりの笑顔を浮かべた母がいた。


「おはよう! ひーちゃん。ちゃんと起きられたのね、偉いわ」


「おはよう、ママ!」


 母の体は細いけれど、多くの命を繋ぎ止めてきたその腕には、 私を丸ごと抱きしめる確かな強さがあった。


 彼女の纏う、少しエキゾチックな香水の匂いを吸い込むと、 「私はこの人の娘なんだ」という実感が、誇らしさとなって胸に満ちた。


「じゃあ、今日一日、ひーちゃんを独り占めさせてもらうから」


「ああ、行ってらっしゃい。気をつけてな」


 父は少し寂しそうに、でもどこか誇らしげに、私たちを送り出す。 それが、私とママだけの「聖域」の時間だった。


 父が再婚すると聞いたのは、五歳の時だった。


 相手の女性は、医療機器メーカーの社長令嬢で、父より一回り近く年下だった。 彼女は医療とは無縁の世界で育った、綿菓子のようにふわふわとした、可愛らしい人だった。


 父は彼女にメロメロだった。 彼女が一生懸命に私の機嫌を伺ったり、慣れない手つきでおもちゃを片付けたりする姿を見るたび、父の目尻はこれ以上ないほど下がった。


 再婚直前の、ママとの「独り占め」の日。 ママはいつになく真剣な顔で、私の手を握った。


「あのね、ひーちゃんにお願いがあるの」


「なあに?」


「……新しいお母さんができるのは、知ってると思うんだけど。あのね……」


 ママは、手術を前にした時よりも緊張した面持ちで、言葉を絞り出した。


「……『ママ』って呼ぶのは、ママだけにして欲しいなぁって……ダメかな?」


 それは、自立したプロフェッショナルである母が、初めて私に見せた、 「女」としての、そして「母親」としての剥き出しの独占欲だった。


 私は、自分を必要としてくれるママのその弱さが、たまらなく愛おしかった。


「わかった。約束するよ」


「ほんと!? ありがとう……ごめんね、わがままなママで」


 ママは泣きそうな顔で笑い、私を強く抱きしめた。 その瞬間に、私の心の中には、誰にも踏み込めない境界線が引かれたのだ。


 彼女が正式に私の「お母さん」になった日。


 お嬢様育ちの彼女は、家事が得意ではなかった。 それでも、私のために何かをしてあげたいという一心で、キッチンに立った。


「あ、熱っ! ……あう、どうしよう……」


 騒がしい音のあと、テーブルに出されたのは、 お皿の上にぺちゃんこに重なった、少し焦げ目のついたホットケーキだった。


「ごめんね、上手に作れなかったの。や、やっぱりこんなのより、カフェに行こうか!」


 お母さんは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに皿を下げようとした。 私はその細い指先を見て、胸が熱くなった。


 絆創膏が貼られたその手は、 料理などしなくても生きていけた彼女が、私のお母さんになろうと奮闘した証だった。


 私は彼女の手を止め、大きな一口を頬張った。


 バターとシロップの味。 そして、少しだけ粉っぽい、手作りの味。


「おかあさん、おいしいよ?」


「ママ」ではない。 「お母さん」という新しい名前で彼女を呼んだ。


「ほんと!?」


「うん! 今度は私もお手伝いしたいな」


「じゃあ……次は一緒に作って、パパに食べてもらおう?」


「やったぁ! 次のお休みはいつかなぁ?」


 彼女の顔が、パッと花が咲いたように明るくなった。


 私は約束を守った。「ママ」は、あの空の向こうにいる人だけだ。 けれど、目の前で涙ぐんで喜んでいるこの人は、間違いなく私の「お母さん」なのだ。


 二人の女性を、違う名前で、違う場所で愛していく。


 十歳の春、妹の結衣が生まれるまで、 私の家は幸せな「二つのお母さんがいる家」だった。

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