【閑話】魔王の力と、君への呪い
思い返してみても、前世から『怒り』という感情を、あまり感じた記憶がない。
前世、それも僕がまだ魔王と呼ばれる前。
貧しい村に生まれ、まともに食べることすら出来なかった時も、両親が死んだ時も、誰からも顧みられず、家畜以下の扱いを受けた時も、ボロ雑巾のように棄てられた時も、怒りという感覚は無かった気がする。
勇者によって倒された時も、最終的にはそういうものだと受け入れた。
むしろ、ホッとしていたという方が大きい。
それは恐らく、僕が他の世界を知らなかったから。
今思えば地獄のようだった暮らしも、魔王として、世界中の人から忌み嫌われた生命も、僕にとっては当たり前のことだったから。
だけど、今は、知ってしまった。
人の暖かさを。満ち足りた生活を。そして、人を愛するということを。
だから、僕のこの世界が脅かされた時、今まで感じたことのない、猛烈な怒りが沸き上がってきた。
同時に、意識して封じ込めていた、魔王と呼ばれた頃の力が戻ってくるのを感じた。
その力を使うことに、何の躊躇もない。
クレアを探すこと、そして守ることを魔物達に命じた。
彼女を傷付けた奴らを前にした時、怒りに任せて、全員に死を与えてしまったが、一切悔いはない。
死体の山を見ても、何とも思わない僕は、やはり人ではないのかもしれない。
彼女をこの腕の中に取り戻した時、抑えきれないほどの愛しさが沸き上がった。
ああ、やっぱりクレアは特別な存在なんだということが、スッと胸に落ちた。
だが、盗賊団のアジトで、魔物と意志疎通していたところも、盗賊達の命を根こそぎ奪ったところも、全て彼女には見られている。
あの時は混乱していたクレアだが、冷静になれば、僕の異様さに、間違いなく気付く。
彼女から、恐れや軽蔑の目で見られることは、想像するだけで耐えられず、逃げ隠れる有り様になった。
更に、魔王の力を使ってから、これまで普通に使っていた日常魔導も、魔力が一気に増えたせいで、感覚が変わった。
油断すると、強すぎる力が漏れてしまう。
僕の変化は、師匠であるモーガン先生には当然気付かれた。
恐らく、魔物との繋がりにも勘づかれているだろう。
イレギュラーな存在である僕を、先生は国に報告しなければならない。
それが魔導士の義務なのだから、先生を恨む気はさらさら無い。
別に生に執着は無いし、魔王になる気なんてもっと無い。
王都に送られ、しかるべき処置を受けてもいいか、と思ったが、逃げるように強く説得してきたのは、キャシーさんだった。
僕のためだけではなく、自分達の罪悪感の緩和のためという、非常にざっくばらんな理由は、逆に清々しく、不思議と心に響いた。
それに、僕の力を使えば、クレアを守ることくらい、離れていても出来る。
いずれはアルが、クレアを呼び寄せるか、村に戻ってきて、彼女を守るだろう。
胸は痛む。だが、クレアにとっては悪くない未来だ。
どこか、誰も知らない土地に行き、遠くからクレアを守ろう。
そこで、いずれ訪れる滅びの日を、静かに待とう。
出発の日まで、せっせとクレアを避け続け、人目につかない深夜、村を発つことにした。
不思議と、寂しさや辛さを感じる。
こんな感覚も、前世では感じなかったなと、独りごちた時だった。
「ちょっと!幼なじみに挨拶もなしに引っ越そうなんて、酷いじゃない?」
大荷物を抱えたクレアは、僕の願望が見せた幻だろうか。
真っ当に暮らす彼女を、行く宛の無い旅に巻き込むなんて、許されるはずがない。
村に残るよう説得しようとするが、クレアに聞く耳というものは無かった。
物心ついたときから、僕もアルも、クレアの我が儘を全て聞いてきたツケかもしれない。
でも?なぜ?と問いかける僕に、彼女はあっけらかんと笑った。
「私は、ヴィンスと一緒にいたいだけ!」
僕に言いたいことや、聞きたいことがあるはずなのに、何も言わず、いつも通りの笑顔で、僕が欲しい言葉をくれるクレア。
本当に、こんな幸せが許されるのだろうか。
もしこれが、より深い地獄に僕を堕とすための、束の間の幸せだとしても、僕はその手を取ってしまう。
クレアにとって、重すぎる呪いになると分かっていても、もう僕は、彼女を手離せない。




