18(完結)
啓はいろいろと試みた。
マリアと亜里沙に手をかざしてみたり、息を吹きかけてみたり、その手を強く握ったり、最後には意を決して、二人の口に自らの口を付け、唾液を流し込むことまでしてみた。
だが、全く効果はなかった。唾液の代わりに、己が指に針を刺すことで出血させ、滲み出た血液を口に含まさせることもやった。
効果はなかった。啓は自分が「進化」したからと言って、その活性化した細胞の力を他者に分け与えることは出来ない、その冷厳な事実を嫌と言う程、思い知らされた。
◇◇◇
「進化」して、全身の細胞が活性化した以上、脳細胞も活性化しているはずだ。
そう考えた啓は自分の記憶のどこかに「医療知識」が眠っているのではとそれを思い出さんとした。
思い出すことはなかった。いかに脳細胞が活性化しても知識として導入されていないことは思い出すことは出来ない。
◇◇◇
それならばとマリアの部屋に行き、医療関係の書籍を読み始めた。
確かに脳細胞は活性化したようだ。乾燥したスポンジが水を吸い込むようように脳に知識が流れ込むことが分かる。
しかし、それでも医療分野は広い。通常は学生は六年間かけて勉強し、その上で実体験を多く積む。すぐに瀕死の者を救える知識や技術が身に付く訳がなかった。
◇◇◇
(仕方がない。出来たら使いたくなかった手だけど……)
啓は大きく息を吸い込むと、声を張り上げた。
「ドクトル・ディートヘルムッ! 聞こえるかっ?」
間を置かず答えは返ってきた。
「聞こえているよ。XX-7」
「お望み通りOHEPに入ることにした」
「ふむ。決心を固めたか。OHEPは君を歓迎する」
「但し、入るに当たって一つ条件がある」
「後から条件を付けるとは、好ましくない交渉の仕方だが、他ならぬ君のことだ。聞こう」
「マリア先生と亜里沙。この二人の命を助けてほしい」
「……」
ドクトル・ディートヘルムから答えは返ってこなかった。
「どうした。出来ないのかっ? ドクトル・ディートヘルム。おまえは生化学の博士なんだろう」
語気を荒げる啓。だが、ドクトル・ディートヘルムは淡々としたままである。
「……出来ない。OHEPは人類の『進化』に対応する以外の技術は持ち合わせていない」
「出来ないと言うなら、僕がOHEPに入るという話は無しだ」
「……XX-7」
「何だっ?」
「君は『進化』した者の中でも考え方が非常に特異な存在だ。OHEPが多様性を持つために貴重な存在なのは事実だ。しかし……」
「しかし……何だ?」
「見くびらないでもらいたい。確かに最も多い時期に七十億人を数えた現行人類の中で『進化』した人間はいくらもいない。しかし、僕と君だけというわけではないのだよ」
「!」
「従って君の無理難題に応えることは出来ない。さらばだ。XX-7」
「分かったっ! それなら僕の力だけでマリア先生と亜里沙を助ける」
「好きにしたまえ。だが、最後に一つだけ忠告しておく。XX拠点はそう遠くないうちに完全に崩壊する」
「それがどうしたっ?」
「インフラもなくなるということだよ。その建物にもそもそも電気が通わなくなる。水道も使えない」
「!」
「『進化』した君なら生き延びられるだろう。だが、旧人でしかないその二人が生き延びられるとでも思うのか?」
「……」
「言うことはそれだけだ。さらばだ。XX-7」
「XX-7じゃないっ! 啓だっ!」
最後の言葉がドクトル・ディートヘルムに届いたかどうかは分からない。
◇◇◇
やがて、ドクトル・ディートヘルムの言葉通り、病院の電灯は全て消えた。水をくみ上げるモーターも作動しないから、蛇口をひねっても最早水は出ないだろう。
静かな中にマリアと亜里沙の呼吸音だけが聞こえて来た。
「進化」により夜目が利く啓はマリアの額に触れてみた。
火傷をするのではないかと思うくらい熱かった。
しかし、今の啓には何も出来ない。
「くっそうっ!」
啓のその叫びは真っ暗な病院中にただただ響き渡った。




