第2話 手術室
カーテンの隙間から太陽が部屋のホコリを美しいきらめきに変えている。
枕元のスマホのアラームを消して身体を起こす。
いつもより身体が軽い気がする。
立ち上がり洗面所にむかい顔を洗う。
朝食は昨日の夜、低脂肪乳につけておいたオートミールをいただく。
やさしい甘みが寝起きの身体に染み込むようで、すっかりハマってしまっている。
食事を終えたら仕事の準備だ。
着替えている自分の姿が鏡に映る、腹部から胸にかけての大きな傷跡、痩せこけた身体、何度見ても……これが僕に与えられた罰のように感じてしまう。
少し気分が悪くなってしまった、急いで薬を飲んで部屋から出る。
マンションから出ると、いつものように車が停まっている。
「おはよう、相変わらず早いな、まだ時間前だろ?」
SAVタイプの車がよく似合うイケメン、同じ年齢だとは信じられないほど若々しく、目に見えてオーラがある。人を惹き付けるというか、これで中身もイケメンなんだから嫉妬する気にもならない。
「体調は大丈夫か? 無理するなよ?」
「大丈夫、今日は調子いいよ」
不思議と『いせいしゃ』を集中してプレイした翌日は体調まで良い。
院長が運転する車で病院に連れて行ってもらうと言う贅沢だが、身体の関係で運転もできない、そんな僕を雇ってくれているだけではなく、僕に居場所を作ってくれているのが、親友の大林 雅人だ。
大学の同窓生で、同じ師匠を持つ。
師匠のもとで3年続いた兵で、開業して自分の病院を見事に大きくし続けているやり手だ。
師匠の死の後、ボロボロになった僕に手を差し伸べてくれた恩人。
その後、僕に癌が見つかってからも変わらず雇ってくれているだけじゃなく、いろいろなことを手伝ってくれる。足を向けて眠れないやつだ。
「颯……今日のは手強いぞ、悪いが無理させる」
颯、そう、僕の名前だ。
神無月 颯それが僕の名前だ。
自身も凄腕の外科医でも有る雅人が手強いと言って僕に頼るってことは、かなりの難解な手術になるってことだ。
「今日は本当に体調が良いんだ。僕にできることは精一杯やるさ」
「……無理してないよな? 本当に良いのか、好きなことやって過ごすくらいの蓄えあるんだろ?」
「良いんだ。前にも言っただろ、身体が動く間は、自分の力で動物を救いたいんだ……
それだけが、師匠に返せなかった恩を返す方法なんだ」
「わかった。ただし無理だけはするなよ。
結局無理して倒れると俺が苦労するんだからな」
「わかってる。この間は悪かったと思っているよ」
手術の間は、すべてのことを忘れて没頭できる。そのせいで、ちょっと難解な手術で長時間危険なサインが出ていても無視して働くと、後でぶっ倒れてしまう。
普通の診療も長時間行っていると、師匠の死に際がフラッシュバックを起こしてパニック発作を起こしてしまう……
「因果な身体になっちまったな……」
「ほんとに仕事して過ごすので良いのか? やりたいことは無いのか?」
「僕は、仕事して、あのゲームやってるので十分だ。
それになぁ、でかけたりも、この体だと中々な……」
「そうだな……すまん」
「お前が謝ることじゃないさ、仕方ないんだ。
頭でも心でももうきちんと理解して受け止めている。
僕も師匠と同じく、親も親戚もいない。
あとは、最期の時まで後悔しないように生き続けるだけだ」
「強いな、颯は……」
強くはないんだ雅人、オペしてるとき、いせいしゃしてるとき、その時だけが僕の心が締め付けから解き放たれる瞬間なんだ。重く苦しく痛む身体、暗く深く押しつぶされそうな心の負担から逃げ出せるのは、今はもうその瞬間だけなんだ……
「さて、俺たちの戦場へようこそ」
「ははっ、こんな病兵を前線に送らなくても、お前のところは大丈夫だろ」
「何言ってるんだ、日本をいや世界を見渡したって颯以上の外科医なんていないぞ」
海外の有名な大学をいくつも見学している雅人先生にそう言ってもらえるのは嬉しい。
師匠は、自分の城、病院以外ではメスを握らなかったから……
「……師匠の看板に泥は塗れない。唯一の弟子だからな」
「ああ、みんなの誉だよ」
病院の扉をくぐると、雅人の言う通り戦場だ。
獣医師が、看護師が、ひとつでも多くの命を助けるために忙しく働いている。
「院長おはようございます! 五十嵐先生もおはようございます!」
「五十嵐先生! 大丈夫なんですか?」
「ああ、先日は心配かけた。大丈夫……」
「さぁさぁ、もう準備は出来てるか?」
「はい! 第二手術室で準備中です」
雅人が看護師からタブレットを受け取り、今朝の状態を把握して、僕にそれを見せてくる。
ざっとカルテに目を通して今日手術を行う患者の状態を理解する。
「かなり大きな肝細胞癌、厄介な位置だけど取り切れれば予後は期待できそうだね」
「CTで脾臓との癒着を認めている。肝葉切除と脾臓摘出、それに胆嚢も摘出する超音波で粘液嚢胞が疑われている」
「みたいだね、膵臓を巻き込んでいないと良いけど……」
CT画像の情報量は非常に多いが、それでもわからないことも有る。
実際に開いてみなければわからない。
「まずは開いて最善の事をやろう」
「師匠の口癖だな」
「ああ」
そのまま手術準備室へと入る。
多くのスタッフが一つの命を助けるために動いている。
この雰囲気が、僕の身体に生気を注いでくれるような気がする。
手洗いを始めるとオペ着の男性が近づいてくる。
「神無月先生、今日はよろしくおねがいします」
声で誰かがわかる。
師匠の病院で短い期間だったけど一緒に働いた木岡先生だ。
「ああ、木岡先生、そうか先生のところか病院名見たこと有るなと思って」
「はい、飼い主様の承諾をとるのに時間がかかりすぎて、ここまで進行させてしまってお任せしてしまい、申し訳ないです」
「よくあることですよ、師匠みたいに怒鳴りつけて治療するって時代じゃ無いですからね」
「鳳先生は……凄かったですからね」
そう、今の時代であんな事をやったら揉めに揉めるかも知れない。
何度も師匠と飼い主様の間に入って通訳というか仲裁役というか、そういったことをやったのかわからない……
師匠と獣医師とが揉めることも少なくなかった。
基本的に口下手で過程をすっ飛ばして結論だけを言うので、ものすごく当りがきつく受け取られてしまうんだよなぁ……天才だから普通の人の考える道筋が理解できないし……
過去の辛かった記憶を思い出しながら手術着に着替えて手術室へと移動する。
すでに麻酔導入が済まされている。
「院長、神無月先生お願いします」
「はい、お願いします」
心電図モニターの音、美しく準備された手術室、緊張したスタッフ、この空気がどんよりとした思考をクリアにしてくれる。
そう、患者を目の前にしたこの瞬間が、僕に残された完全な自分に戻れる瞬間なんだ……!
「それでは、お願いします。メス!」
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