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桔梗  作者: 楸 妃憂
3/5

 私が背を向けて歩き出すと、後ろから砂利じゃりを踏む音がついてきた。一緒に来てくれるらしい。


 歩くといっても、ほんの数歩だった。かつて私の部屋の中にあった秘密の地下室への鉄扉は、隠すものがなくなり、地面に剥き出しになっている。私はしゃがみ込み、扉の上に積もった砂を払った。  


 細長い三日月形の窪みに手を掛けゆっくりと押すと、砂粒と擦れ合ってぎしぎしと音を立てながら開いた。


 階段は暗闇に吸い込まれ、三段目までがかろうじて見えるだけだ。


 私は右側の電子回路の操作レバーを下ろしたが、電灯は点かなかった。私は舌打ちする。すると、後ろから弱々しい光の筋が暗闇を淡く照らした。振り向くと、キキョウが懐中電灯を地下室へ向けていた。


 私たちは、薄暗い階段を、壁に手をつけながらゆっくりと下りる。


 十二段の階段を下りると、わずか四畳ほどの小さな空間がある。埃っぽいが、心の落ち着く、懐かしい匂いがした。数秒遅れて下りてきたキキョウが懐中電灯を揺らすと、部屋の様子が薄暗く浮かび上がった。私は微笑む。無事だった。


 天井に吊るされた電球は、階段と同様に配線が切れているようだった。部屋の隅まで歩くと、古びた机がある。


 私は今にもはずれそうな錆びた把手とってを引き、引き出しから取り出したマッチに火をつけると、燭台しょくだいに立っている傾いた蝋燭ろうそくにその火を移した。


 蝋燭の先を中心に、暖かい光が辺りに広がった。私はそこから対角線上の隅にある蝋燭にも同じように火を灯した。私のアトリエは橙色の光でたちまち明るくなった。キキョウが後ろで、「わあ……」と感嘆の溜息を漏らした。


 部屋の中心には、完成間近の大きな彫刻があった。小さな椅子に腰かけた女性が、両の手の平だけで収まりそうな小さな赤ん坊を、大切そうに抱いている像だ。体は出来上がっているが、表情にはまだ凹凸がない。もちろん、妻とキキョウの姿を描いたものだった。


「これは、私の妻とキキョウ……私の子どもを彫ったものだ。ここまでするのに、三年かかった」


 私は、思い出すようにその像の曲線に触れる。


「しかし、恥ずかしながら、妻と娘の顔がはっきりと描けない。紙に何度か書いてみたのだが、どれもしっくりこなくてな……。妻と娘に見えないんだ」


 私はまた妻とキキョウの顔を思い浮かべる。頭の中では、はっきりと浮かんでいる気がするのに、いざ描いてみるとその通りにならない。しかし、どう違うかと頭を捻ってみても、変えるべき箇所が分からない。


「……と。そう言われても訳が分からないよな。どうも、何もかも君が知っているような気がして説明もなく喋っていた」


 今言ったことは、事実だった。キキョウのことは、どうも他人のような気がしない。それは、気のせいでもない気がした。


「そうそう、思い出した。轟音が止んだ後、私は地上に出て妻と娘を待っていたんだ。この像を完成させるには、二人が必要だったから。愛する二人をいつまでも残しておくために。二人は何も言わずに私の前から姿を消してしまったが、それにはきっと意味がある。用が済んだら、いつか絶対にここへ帰ってきてくれると信じて、待っていた」


 いつの間にか疲弊ひへいして、ぼろぼろになっていたが。


「……自分の像は作らないんですか?」


 私の目と、二人の像を交互に見ていたキキョウが尋ねた。


「いや、私はいいんだ。二人の姿がここにあれば。……それに、自分の姿を自分で残すのは恥ずかしいだろう」


 私が冗談っぽく言うと、キキョウがくすりと笑った。小さな白い花が、そこに咲いたかのようだった。


「もしよければ、君の顔をモデルにしてもいいかな?」


「でも、それは……」


「妻と娘のはずだったが、残念ながら二人はここにいない。しかし、三年を費やしたこれを、最後に、完成させたい」


 最後まで、ではなく、最後に、と言ったのは、これを作り終えたら私は死ぬだろうと思っていたからだ。この街の生き残りとして、どこかで新たな生活を始めることは考えられなかった。


 そのニュアンスが伝わったのかは分からないが、キキョウは口を横に引き、頷いた。


 適当な木箱を像の横に置き、そこにキキョウを座らせた。私は像と向かい合い、キキョウの顔の特徴をよく見てから、作業を始める。


 久しぶりに握る彫刻刀はすぐに手に馴染まず、何度か手の中で握り方を確かめた。そして、慎重に、石像に彫刻刀を入れる。


 始めると、すぐに感覚が蘇ってきた。十五の時、父の影響で彫刻に興味を持ち、初めて彫刻刀を握った時を思い出した。父が作り上げた、小さな私の石像のことも思い出した。何の特徴もないただの石が、私に変わっていくのは見事だった。あれは、どこへいっただろうか。


 目の周りの窪みや、鼻の形ができ、顔の輪郭りんかくは人間らしくなってきた。


 私は、妻のことを思い出す。趣味に生きることしか知らない私を、いつも支えてくれた妻。


 私は勝手に愛し合っていると信じ込んでいたが、今思うと、違うのかもしれない。年齢的に

焦っていて、早まって結婚したが、私に愛想を尽かして出て行ったのだ。


 村が焼かれ、人が死に、独りになった時にまで石を彫っているほど芸術が大切な私だから、愛想を尽かすのも仕方ない。


 私は自分で行き着いたその考えに、溜め息を吐いて手を止めた。考えすぎのような気もするが、そう考えると辻褄つじつまも合う。元々、妻は隠し事が嫌いだったから、何か出ていく理由があるなら私に言ったはずだ。その理由が、私でさえなかったのなら。


「どうかされました?」


 急にぴたりと手を止めた私に、キキョウが心配そうに問いかける。


「いや……。もしかしたら、私は意味のないことをしているのかもな、と思って」


 私は自嘲の笑いを浮かべる。そして、少しの間目を閉じた。


「妻は私に愛想を尽かして、娘を連れて出て行ったのかもしれない。……まあ、それで二人が今、幸せに暮らしているのなら、私としては嬉しい限りだがな。破壊された街には、帰ってこない方がいい」


 九割は本心だ。残りの少しは、また二人に会えることを望んでいる。


「……きっと、お二人は、離れても深く愛してもらって幸せだと思います」


「そう、だといいな」


 どちらも声を発さなくなったので、室内はまた静寂に包まれた。蝋燭の炎が、薄汚れた壁を橙色に染め、ゆらゆらと揺らしていた。


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