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桔梗  作者: 楸 妃憂
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「あの……」


 朦朧もうろうとする意識の中で、久しく人の声を聞いた気がした。ついに頭がおかしくなったかと心の中で自嘲したが、「あの」ともう一度はっきり声が聞こえ、私はそれが幻聴でないことに気付いた。


 しかし、瞑りっぱなしの目は開くことができず、干からびた口も、同様に開かない。耳だけが正常なことには少なからず驚いた。


「大丈夫ですか?」


 女の声だ。透き通った風を思わせる涼しい声。風鈴の音のようでもある。砂ぼこりにまみれた私の体が、浄化されたような錯覚がした。


 腕に何かが触れ、私の体が小さく揺さぶられた。声の主が私の体に触れているのだとすると、やはり私に話しかけていたのか。しかし残念なことに、私はもう、ぴくりとも動けないのだ。


「あなたはまだ動けます。動けないと思い込んでいるだけなのです」


 私の心を読んだかのような女の言葉に、私は思わず声のした方を向いた。焦点が合わず女の顔はぼやけていたが、それも初めの内だけで、すぐにはっきりと女の顔が見えた。


 雪のような細やかで白い肌に、整った目鼻立ち。小さな口は艶やかな桃色で、頬にも同じ色が差していた。髪は黒髪のおかっぱ頭。声で想像していたよりも、随分幼く見えた。


「君は――」


 無意識にそう言って、私は気付く。からからに乾いた喉から、かすれているとはいえ、まともに声が出るとは。視界も鮮明である。


 私は自分の体を見回した。衣服ともいえないぼろ布のようなものから露出している自分の体は、すすや埃や砂などで汚れてはいるものの、骨と皮の間に最低限の筋肉はあるように思う。


 私は手を握ったり開いたり、足を移動させてみたりした。どこも異常はない。すると、私は本当に動こうとしていなかっただけなのか?


 再度女の顔を見る。女は頬に笑窪えくぼをつくって、人懐っこい笑みを浮かべている。


 自分の体に異常がないことは、にわかには信じられなかった。では、この女の声に魔法をかけられたとでも言うのだろうか。


 それは馬鹿馬鹿しい考えだったが、簡単に否定もできなかった。私が正常であるという状況を信じることの方が何倍も難しかった。


「あなたは、ここで何をしているのですか?」


 女が私に尋ねた。砂埃で濁った空間の中で、女だけが輝いて見えた。


「私は……ここで妻子を待っていた。とても長い、永遠とも思える時間のように思えたのだが――思っていたより短い時間だったようだ」


 私は肩の力を抜いた。頬が自然と緩んだ。


「君は、一体何者だ?」


 続けて、私は先程尋ねようとした質問を口にした。女は笑顔のまま私を見ていたが、口を開く気配はなかった。


 私は特に気を悪くしなかった。久しぶりの会話だからだろうか、怒るということも忘れている。


「せめて、名前だけでも教えてくれないか? 君というのは呼びにくい」


 女はしばらく首を傾げていたが、やがて小さな口を開いて、「キキョウ」と一文字ずつ丁寧に、大切そうに発音した。私は驚く。


「キキョウ、か……。偶然だな、私の娘も同じ名前だ」


「そうですか」


 キキョウの笑顔は実に懐かしい感じがした。


「ここには、他に人がいないですね」


「ん? ああ……」


 そう言われて初めて、私は周りの景色に目を向けた。


 辺りは焼け焦げ、至る所で黒い木片がくすぶっている。灰がぱらぱらと舞い、仰いだ空は鉛色にびいろに濁っていた。かつては家であった木材の後ろには、原形を留めていない死体がごろごろと転がっているのかもしれなかったが、生命の気配はしない。私は、地下で聞いた地鳴りのような轟音を思い出した。


 白黒テレビの中にいるような気分だ。見渡す限りどこもくすんだ色合いをしていて、私はその殺伐とした景色に溶け込んでいるだろう。キキョウの姿は、あまりに明るすぎて浮いていた。


「おそらく、みんな死んでしまったよ。爆弾でも降ってきたんだろうな。小さくて、緑が多くて、温かい村は知らないうちに消えてしまった」


 私は細く長い息を吐いた。それは煙草の煙のように白い帯になり、風に流される。


「誰も想像していなかった災難だ。少し離れたところにある街の戦いは風の噂で聞いていたが、まさかそのとばっちりをくらうとはな。一発で壊滅だよ。私だけが……私だけが生き残ったようだ」


 恐ろしい世界だな。私の声はやけに寒々しく、赤の他人が呟いたかのように聞こえた。


 キキョウは眉を下げ、沈痛な面持ちをしていた。私の心はちくりと痛み、空気を変えるように声の調子を上げた。


「しかし、逆に考えれば私は運がいい。なにせ、このまま死ぬかというところで人に会い、またこうして会話をすることが出来たのだから」


 キキョウは口元だけで笑った。私はキキョウを元気づけるためにそう言ったが、かえって困らせてしまったようだ。


「あ、そういえば……」


 私は話を変えようと何の考えもなしにそう言った。しかし、言いかけたことで大切なことを思い出した。私にとって、家族の次にかけがえのないものだ。


 キキョウがきょとんとした表情で私を見た。私はキキョウに微笑みかけた。私がゆっくり立ち上がろうとすると、キキョウがほっそりした手を差し伸べて私を手伝った。白い手についた砂が目立ったが、キキョウはその砂を払うことも拭うこともしなかった。


「ついてこないか? もしかしたら無事かもしれない」


 腰を上げると、体中の骨が軋んで音を立てた。同時に、今までもたれかかっていた、家を造っていた木材が倒れる音を聞いた。私はそれすらも嬉しかった。嫌な音は、優しい言葉よりも私に生きている実感を沸かせる。


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