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泥の中にいる気分だった。腕も、足も、頭も、自身の全てが粘り気のある何かに覆われ、纏わりつき、身体を動かそうとするたびにそれが体内に侵入してくるようだ。
いつからこの状態なのか、いつまでこの状態なのか、そんな疑問に頭を悩ませる気力すらなく、私はかつて我が家が在った場所で膝を抱えている。
もはや私は、私の身体の所有権を放棄している。一秒後には、私は私でなくなり、それすらも気付かないかもしれない。
極限の状態で、虚ろな闇の中を漂い続ける私の意識がかろうじて繋ぎとめられているのは、妻子のことがどうしても頭を離れなかったからだ。
妻は聡明な女だった。背筋は真っ直ぐと伸び、穏やかな表情をしていても、瞳にはいつも物事の真相しか見ていないかのような力を宿していた。
あの全てを見透かしているような瞳の前では、嘘をつくことは不可能だろう。妻に人の嘘を見抜くような特異な能力がないと分かっていても、私は彼女にだけは小さな嘘一つもつけなかった。
妻と出会ったきっかけは、三十五になっても一向に結婚をする気配のない私を見かねて、父が見合いを用意したことだった。
女に興味がなかったわけではないが、人の気持ちに鈍感な上、自由奔放な私に結婚は無縁だと思っていた。そんな私だったが、父が連れてきた人に対面した瞬間、今まで私が見てきた世界がどれほど狭いものだったのか痛感したものだ。
私は一瞬でその人に心を奪われた。
私は経験がないためにしどろもどろになりながらも、必死になって自分を知ってもらおうと努力した。今になって思えば、その必死な姿はみっともなかっただろうと思う。しかし、妻はそれをからかうでもなく、穏やかな笑顔で私の隣にいた。
二人の交際が始まって一年、妻の腹の中に小さな命が宿った。
それからは、あっという間に話が進み、私は結婚を申し入れた。「結婚しよう。お前と、生まれくる小さな命と共に、私はこれからの人生を過ごしたい」妻は一瞬、目を伏せた。数秒間黙りこくった後、何かと決別するようにすう、と細く息を吐き、顔を上げた。「ええ」短く答えた妻の目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。
生まれてきた女の子には“キキョウ”と名付け、妻とともに溢れんばかりの愛情を注いだ。キキョウは順調に大きくなり、私たちは幸せだった。
しかし、妻とキキョウは――――
そこまで脳内で流れたところで、私は思考を打ち切った。このように過去を次々と思い出すのは、あの世にいくときのようでいい気分はしない。