今日で君から引退します。
―― 今日で、私は、このグループを卒業します!今までありがとう!
そんなニュースを今朝見たことをふと思い出した。
「引退」ではなくて「卒業」。そう清々しく別れることができたらいいのに。
グループを卒業したアイドルは縁を切るわけではない。どこかで関わることはできる。名目は変わるかもしれないが関わり続けることはできる。
家に着いて自分の部屋へ真っ直ぐ向かい、休むことなく数学のノートを取り出した。
わざわざ頭を使うまでもない練習問題をとりあえず解き始める。この程度の問題なら私の学力向上にはほとんど効果がない。やる前からそんなことはわかっている。それでも頭の中の電卓を打っているだけましだった。何かしていればよそ事を気にせずに済むのだから。でもノートを開けば嫌でも情報は入ってきた。
汚い文字がところどころに罫線にとらわれず落書きされている。
私はこの犯人をよく知っている。
『俺のどこが好き?』
そう書かれた下に、私の返事が書いてある。
『バカなところ。』
圭介は勉強はできないし、運動できるくせに体育の授業となると適当にしかやらないような人だった。なんだかヘラヘラしているし、笑っていればそれでいいと思っているのだろう。不真面目なくせにいつも楽しそうにして。受験で燃え尽きるような性格でもないだろうに。
ずっと聞き分けのいい子をやってきた私にとって、圭介は対極と言える存在だった。
「甘いものって食べると頭がよく回転するらしいぞ」
いつもいらないと言っているのに、授業中にこっそり飴を渡そうとしてきた。先生に見つかって私まで怒られるのも癪なので、しかたなくもらってやっていた。机の下でビニールの包装を空け、先生が黒板のほうを見ている隙に口の中へ放り込んだ。歯と飴が当たってカタカタと音が鳴るたびに、いけないことをしている気がしたものだ。
味は毎回バラバラ。ただ、どれも甘酸っぱい味がした。
恋の味だなんて言うつもりはない。ただ、スリルの味ではあった。
放課後も制服のまま街へ連れて行かれ、ゲーセンやらカフェやらとさんざん振り回された。
圭介はいつも笑っていたけど、制服で街へ行って遊んだことなんか一度もなかった私は周りの目が気になってしょうがなかった。私だけウブなようで悔しかった覚えがある。
気付けばテスト前になると、私は圭介に勉強を教えてあげるようになっていた。
家と中学の往復で、やっていることはほとんど勉強。友達もいるし楽しくないわけではない。どこか満たされていなかった。どんなケーキでも毎日食べていたらいつか飽きがくる。そういうかんじだろうか。
ひたむきに勉強していても、教科書は科目のことの上澄みしか教えてくれない。
いったい私は何を学んでいるのだろう。なんで学んでいるのだろう。
勉強というのは極めて個人的な営みだ。自分の頭で考えて身につくものであって、分業することはできない。ずっと一人で向き合うものだと思ってきた。
誰かに勉強を教えるというのは、それだけで一人じゃないと思うことができた。
なによりこのやんちゃな男のためになっている気がしてうれしかった。落書きがたくさんしてあるし、ほぼ無駄だったのだろうけど。まあ、無駄だったのならそれでもいい。
二人きりの教室に彼の笑い声が響くのが私の変わらない日常のスパイスになっていた。放課後でも沈むことなくキラキラしている彼の笑顔を見ると私は頬が熱くなった。
「夕焼けのせいでそう見えるんだよ」
そう言っても理解してくれず、恥ずかしがり屋だなんだといじってくるのはムカつくけど嫌ではなかった。本当にバカでちょっと意地悪な人。
今日、帰り道で圭介がいつになく真面目な顔して私に言った。
「ごめん、里佳。別に好きな人ができたんだ」
謝まりの言葉。もう私じゃない人がいい。そういう意味に聞こえた。
尋ねてもいないのに、正直に誰のことが好きになってどこに惹かれたのかを語り出した。ムカつくなあ、デリカシーがない。これでは嫌でも私のどこがダメなのか考えてしまう。
「そっか、大丈夫だよ。気にしないで」
そう返して、圭介の二度目の「ごめん」を背中に浴びて家へ帰ってきたのだ。
私は数学のノートが濡れていることに気付き、部屋の隅に縮こまった。
また私は一人ぼっち。登下校もただの往復へ逆戻り。しばらく勉強する気にはならなさそうだ。
言いたいことはたくさんあった。でも言わない。言ってはいけない。私にとっての太陽が幸せになるというのなら邪魔はできるだけしたくない。私との関係も跡形なく消えているほうがきっと新しく好きになった子も安心できるだろう。
私も彼も身勝手極まりない。彼の身勝手を許したのは私。だからこれくらいのバカな行動は許してほしい。
一人の帰り道に缶コーヒーを買ったことを思い出し、カバンから取り出した。飲めもしないのになんで買ったのだろう。大人がリラックスするときを真似てみようとでも思ったのだろうか。不快なほどに苦いけれど、この苦味がおいしいのだと言い聞かせて少しずつすすった。
エッセイにて感想を寄せてくれた方々のアドバイスを受け、プロットなしでとくに何も考えずに書いてみました。今後も試行錯誤して、少しでもおもしろいものが書けるようになりたいと思っています。
多作でもないしゆっくりのんびりペースですが、仲良くしていただけるとうれしいです。