前夜の宴
「あの三男殿が、半日で摂津衆を退けたとは……敵ながらあっぱれじゃな」
近江坂本城。明智光秀はこの地に拠点を構え、いち早く軍事的な価値の高い近江を制圧すると、勝竜寺城や淀城の普請を開始し、来るべき逆襲に備えた。
「殿、高山、中川の両氏は我等を見限り、敵に組みしたとの事。殿の娘婿にあたる細川越中守忠興も、喪に服すと剃髪し、丹後に立て篭ったと……」
配下に控えていた斎藤利三がそう言ってやや表情を落とす。
「恐れるでない。我等は現世の悪魔たる織田信長に制裁を下し、見事駆逐したのじゃ。追い風は我等に吹いておる。現に、京極や若狭武田は我等に従ったではないか」
光秀自身、不安を抱えていないわけではなかった。京極や若狭武田も、明智軍に対抗出来ず、家を守るためにやむを得ず軍門に下ったに過ぎない。二、三万に膨れ上がると考えていた自軍は、せいぜい一万六千と、大きく予想を下回った。それに、信孝に計画が露見していたとなると、内通者を疑わなければならない。
しかし、長年屈辱を味わってきた信長を討ち、下克上を達成した事によって、不安以上の高揚感が光秀の心情を支配していた。
「それにしても、まだ信長の首は見つからぬのか」
光秀が呟くと、家臣たちは申し訳なさそうに首を横に振った。もし信長が生きていたら、自らの野望は達成できぬまま、信長によって殺される事になる。
「何としても、何としても探し出すのじゃっ!首を見つけた者には、十万石の褒賞をとらすっ!」
光秀は叫びながら、がんっと脇息を蹴りつけた。自分らしくもない、と思いながらも、光秀は憤然とした表情で広間を去った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
天正十年六月一日、摂津・山城の国境。織田軍はここに陣を張り、昨日の戦と、今日の行軍の疲れを癒していた。
大将である俺から、雑兵に至るまで、同じ夕食を摂る。これは丹羽さんの余計な入れ知恵による、我が軍の決まりであった。
……そろそろ、ピザやラーメンが食べたいなあ。
俺はそんな呑気な事を考えながら、この世で最後になるかもしれない干飯を齧り、薄味の汁物を啜った。
「殿、まもなく京が見えます。敵は近江坂本城に本拠を構え、兵力を集中しておりますが、我が軍が京に迫っているとあらば、すぐにでも兵を移すと思われまする。決戦の場は近いかと」
丹羽さんはさっさと食事を終えると、俺に更なる気の引き締めを要求した。……鬱陶しい。
「分かった。では、夜明けと共に一気に京へ駆け、光秀と戦を交えようぞ」
俺は皆に聞こえるような声で言った。
「あのキンカンの禿頭、へし折ってやろうぜ」
池田恒興がそう言いながら、自分のでこを叩いて見せた。陣内は笑い声に包まれ、無駄に帯びていた緊張感は一気に和らいだ。……こいつ、本当に四十代か? それに、俺からすれば皆ハゲなんだけどな。
蜂屋頼隆が緊張感が和らいだ反動からか、陽気に歌を歌い始めた。それに乗せられて池田恒興が舞を踊り、部将から雑兵に至るまで宴のように騒ぎ出した。
「池田殿のひょうきんな性格を見ていると、気が楽になりますな」
堅物の丹羽さんすら、苦笑しつつも騒ぎに便乗し、軽快に手拍子をした。この光景が、本来の織田軍なのかもしれないと、俺も丹羽さんと共に手を叩いた。
騒ぎは数時間続いたが、夜が更けてくると皆バタリと死んだように寝てしまった。俺も眠る雑兵の腿を枕に、雑魚寝をしながら夜を明かした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
天正十年六月二日。本来ならば、今日本能寺の変が起こるはずだったのだが、信長はもはやこの世にいない。
俺は朝起きると、小高い丘に登り、景色を眺めた。横に流れる淀川に沿い、遠方を眺めると、京の街並みが見えた。あの街は今日、俺の手によって戦場と化すのだ。せめて、選べるならば街の外れを戦場にしたいものだ。
「若君、起きておられたか」
背後で声がした。振り返ると、すっかり甲冑を身につけ、黒馬の手綱を自ら引き、物騒にも大槍を担ぐ男の姿があった。池田恒興だ。
「京は歴史上、あらゆる英雄が名を馳せ、散っていった土地。ワシの尊敬する木曽義仲もその一人じゃ」
池田恒興は顎を掻きながら、ぼんやりと京の街を眺めた。穂先や甲冑、鎧兜が朝日に晒され、ギラギラと輝きを放つ。見事なまでの武者姿であった。
「勝三郎、京での略奪、放火は禁ずる。他の連中にも伝えておけ」
「承知っ!」
池田恒興は頼もしい返事をすると、ガチャガチャと音を立てながら、悠然と馬に跨り、丘を下っていった。
こうして、俺の経験上最も長い1日が幕を開けたのであった。