走れ織田軍
「急げっ!日暮れには出立するのだぞっ!」
丹羽さんの怒号が響く。流石名将と名高き丹羽さん、本来ならばもっと時間を要する撤兵作業を、すらすらとこなしていく。
「丹羽五郎左、俺にも何かする事はないか」
あまりにも皆が忙しそうに働いているので、つい丹羽さんに俺は尋ねてしまった。
「家臣に仕事を任せ、高い所で見守るのもまた大将の仕事でござる。どうかお任せを」
確かに丹羽さんの言う通りだ。俺より丹羽さんが指揮した方が部下の動きは数倍良いし、変に出しゃばっても足でまといになるだけだ。
俺はふと、道の脇に流れる水路に目を向けた。そこに写った俺の顔は、流石に前と同じわけではない。肉の量や若々しさなど、違いはあったものの、飛び降りる前に見たばかりの信長の顔にそっくりであった。……俺もあんなに痩せこけちゃうのかな。
「そうだ、堺には徳川殿がおるのではないか?」
俺は丹羽さんに再び尋ねる。しかし、丹羽さんの返答は意外なものであった。
「……いえ、徳川様は京にて御屋形様と面会なされたのち、領内にて大事が発生したとして、堺の見物を取りやめておりまする」
何という事だ。徳川家康は本能寺の変の後、畿内で孤立し、交通の難所である伊賀を超えて三河に帰ったという話ではないのか。神君伊賀越えとまで豪語していたのに。家康は光秀と通じていたのか?いや、もしかしたらこちらの世界と俺の習った歴史には、いくつか相違点があるのかもしれない。……まあ、後で考えよう。
「殿、まもなく出立の用意が出来まする、こちらを」
そう言って丹羽さんは鉄製の南蛮鎧を持ってきた。軽く20キロを超えそうな重量感たっぷりの鎧に、思わず背中には嫌な汗が這い寄っていく。……かゆい。
「あ、ああ。ところで、仮に明智光秀と京で対峙したとして、周辺の武将はどれほど味方するのじゃ」
丹羽さんは少し思案したのち、
「摂津の中川瀬兵衛清秀どの、高山彦五郎右近どの、池田勝三郎恒興どの……ですかな」
そう答えた。恐らく、その兵力を全て合わせても、明智光秀を滅ぼす事は出来ないだろう。俺は光秀を滅ぼす事より、京より駆逐した口実と、信長と信忠の二人の命があれば良いのだ。
「よし、その三名には書状を送っておこう。では、出陣じゃ!」
俺は五月三十日の夕刻、一万の軍勢を率いて堺を発った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
俺の軍勢は北東に移動を開始した。古来、首都の京と日本最大級の港湾都市である堺を繋げてきた街道は、まだ大阪街道として整備されていなかったとはいえ、ある程度の賑わいを見せていた。
その喧騒の中を、我が軍は淀川に沿うように北上した。元々連合軍のような形態だった我が軍の士気は決して高くは無かったが、それでも史実のように逃亡兵が続出するような事態には至らなかった。
「あまり目立っては明智軍に察知されてしまう。夜のうちに進めるだけ進もうぞ」
俺はそう言って部下を激励した。後ろを振り返ると、俺の軍勢が松明を掲げ、ゆらゆらと行軍している。何だか、蛍の光を眺めているようで幻想的だ。
俺は進軍中に、中川清秀、高山右近、池田恒興宛の手紙を書かせた。「六月二日に明智軍が謀反を起こし、本能寺を襲撃する。我が軍は明智軍に対処するので、協力してほしい」という内容であった。あの昔風のふにゃふにゃした文字は分からないので字は祐筆に任せた。
ここまで、俺の作戦に一切の手抜かりはない。明智軍を撃退させる戦略もいくつか浮かんできたし、家臣たちは皆優秀だ。ただ、俺の教わった歴史と相違点が存在する、という事実だけが懸念材料だった。そう、この事実だけが……
◇◆◇◆◇◆◇◆
五月三十一日の夕刻、俺の元に伝令が駆けつけた。
嫌な予感は不思議と的中するものだ。第二の相違点が俺の作戦を大きく狂わせた。
「明智光秀、五月三十一日の未明に謀反を決行!本能寺は粉塵と化したとのことッ!」
「何だとっ!?六月二日では無いのか!?父上の安否は?」
伝令は神妙な顔付きで首を横に振る。いや、質問されるまでもなく分かっていたのだが。
「よし……では、予定通り弔い合戦じゃっ!悲しみに暮れるのは光秀の首を掲げた後にいたすっ!」
俺は馬に乗り、進軍の下知を下し、走り始めた。体に馬術の心得が染み付いているようで、馬に乗るのに一切手こずったりはしなかった。
辺りは梅雨の大雨に晒されていて、馬の蹄がバシャバシャと水しぶきをあげた。
さあ、信長は死んだ。恐らく信忠も死んだ。織田家の再興を任せる人物はもういない。後は史実通り俺と秀吉が光秀を討ち、そして秀吉に殺される。ならばなぜ、俺は走っているんだ?どうせ死ぬなら、今死んだ方がよっぽど楽じゃないか。
そんな事を考えていた俺の脳裏に、にわかにある考えが浮かんだ。どうせなら進軍を止め、秀吉が来るのを待つべきではないか?史実の信孝はそうしたんだし、別に間違った判断ではない。いや、ダメだ。ならば転生した俺の存在価値がないじゃないか。それに、戦国武将になりたかったのは俺の願望でもある。走れ信孝。己の存在を示す為に、そして己の死に場所を得る為に。
その時、突然前方の部隊が足を止めた。何事か、と手綱を引くと、まもなく前方から使いの騎兵が走ってきた。
「殿っ!中川瀬兵衛清秀、並びに高山彦五郎右近、明智軍に通じ、淀川の対岸にて我が軍の前に立ち塞がっておりますっ!」
「何だと?奴らは敵に通じたというのかっ!あの畜生め!」
丹羽さんの感情的な叫びが響いた。ただでさえ長年仕えてきた主君が横死し、悲しむ暇すら与えられず苦しんでいたのだ、無理もない。
なるほど、俺が既に明智軍に内通していた二人に書状を書いた、そこには六月二日に決行されると書いてあった、だから光秀は前倒しをした……ある意味自然な判断だ。謀反を起こしている時点で自然では無いが。
前方に目をやると、確かに対岸に敵兵が群がっていた。我々の半数ほどだから、兵力は約五千といったところだろう。
「……気の毒だが、これも天下の為だ、すり潰せっ!突撃じゃ!」
俺は周囲に目を配ると、ゆっくりと軍配を振り上げ、そして振り下ろした。
「おおーっ!」
兵たちの叫びが響き、一斉に駆け出す。その足音はもはや轟音と言えるほど大きく、地響きがする程であった。
こうして、淀川の戦いの火蓋が切って落とされた。