冥界の使者
羽根ウサギ事件があった日の、翌日。
月華と旺諒は、玉皇大帝からひそかに天宮へと呼びだされた。
事件の犯人が、明らかになったのだという。
人払いをして厳重に結界を張られた謁見の間で、旺諒たちが豪奢な玉座にもたれた玉皇に挨拶の口上を終えると、さっそく傍らにひかえていた金髪で若づくりの大傅が、実際の犯行の経緯を二人に説明する。
犯行は、『冥界の者』と月麗宮の下女との、二人組によるものだった。
前者が後者を賄賂で買収し、差し入れの匣の中身を入れ替えさせたらしい。
ところが大傅は、犯行の動機については始終言葉を濁したままで、どういうわけか、下女に犯行を示唆した男を名指しで呼ぶことも避けた。
その人物は『冥界の者』だということ以外には、結局彼は最後まで犯人の素性を明らかにはしなかったのだ。
(宴にやってきた冥界の使者といえば、あの男一人しかいないじゃないか! なんではっきりそう言わないんだ?!)
旺諒の頭のなかに、すぐさまあの、陰気な将校風の男の顔がうかんで来た。
昔から月華に振られつづけて来たというあの男ならば、彼女が昔飼っていた羽根ウサギの死について知っていたとしても、不思議ではない。
昨日亭の近くにいたのも偶然ではなく、『殺人犯はかならず現場を見に来る』というような、典型的な犯人の心理からだったとすれば辻褄があう。
(許せない、絶対に……!)
絶対に後であの男をぶん殴ってやる。拳をきつく握りしめて、彼がそう心に誓う。
実行犯である月麗宮の下女は、すでに天界から追放されていた。
彼女は贖罪のためにしばらくの間、奈落で過ごすことを命じられたらしい。
ところが肝心の黒幕に対しては、いまだに正式な沙汰が下されてはいないのだと聞かされ、旺諒は愕然とした。
まさかとは思うが、天界はこの主犯の咎を不問にでも付するつもりなのだろうか。
露骨に納得がいかないという顔をしている彼の心情を気づかってか、玉皇が自ら彼に声をかける。
「そろそろ宴も終わりじゃ。月華の亭にばかり籠っておらずに、そなたもたまには祝宴に顔を出すがよい」
だが、宴に行ったところで、今の彼にはとても笑顔など振りまけそうにはない。
それでも玉皇の命にしたがい、月華を残したまま謁見の間から退出した旺諒は、例の犯人を探すべく宴の間へと歩を速めた。
宴に顔をだすと、目あての冥界の使者はすぐに見つかった。
(いた、あの男だ!)
今日もまた、黒の天鵞絨に金糸をほどこした、あの正装姿だ。
旺劉並みの偉丈夫であるうえに、みごとな漆黒の長髪を垂らした彼は、個性あふれる使者たちのなかにあってもよく目立つ。
他の使者たちと何やら歓談している彼に近づいていくと、旺諒は偶然をよそおって声をかけた。
「ああ、またお会いしましたね。冥界のおかた」
ふり向いた男が旺諒の顔を認識したとたん、露骨に不快な表情を見せる。
旺諒が、怒りで煮えくりかえっている本心を押し殺すと、にこやかな顔でさり気なく訊ねた。
「覚えておられませんか? 昨日も月華殿の亭の前でお会いしたのですが。あちらに何かご用がおありだったのでしょうか?」
男は、返事をしなかった。
それどころか、切れ長の目をさらに細めると、まるで旺諒の意図を読み取ろうとするかのように、彼の瞳を注意深く観察し始める。
無言で警戒心を強めるその態度は、どう見ても犯行には関係ない第三者の反応からはほど遠い。
直感で彼は確信した。
(やっぱり、こいつが犯人だ!)
だが旺諒は逸る気持ちをぐっと抑えて、念のために確認をとるべく、ふたたびにこやかに話しかける。
「もしも私の勘違いでしたら、おわびいたします。昨日お会いしたのは確かに冥界のかたとお見受けしたのですが……失礼ですが、冥界から遣わされたおかたは、貴殿お一人でしょうか?」
男は憮然としたまま、短く答えた。
「そうだ」
予想よりも遥かにふてぶてしい態度に出た男を見上げながら、彼は心底嬉しそうに笑顔を向けて言った。
「そうですか、よかった! それでは、これが……」
彼が、ふいに一歩男に近づくと、渾身の力で右の拳を振りあげた。
「月華殿のぶんです!」
人形をとってはいても、旺諒の本性は龍だ。彼の会心の一撃をまともに左の頬に受けた男の体躯は、そのまま宙を舞って床へと叩きつけられた。
宴につどった使者たちの間から、悲鳴が上がる。
衆目のなかゆっくりと身を起こした男はしかし、口から垂れている血をペロリと舐めると、まるで獲物を前にした蛇のような目で旺諒をねめつけながら、にやりと不敵に嗤った。
彼の影が本性を映し、陽炎のようにゆらりと背後にうかびあがる。
(この男…………蛟だ!)
蛟は虬竜とも呼ばれる蛇に似た生き物だ。角と四本の足があり、毒気を吐きだす。
神性では龍に及ぶべくもないが、強さでは勝るとも劣らない。
全身の肌をぞわりと粟立てながらも、旺諒は蛟の化身の双眸を気丈に真っ向から睨み返した。
男の体格は、旺諒よりも二周りくらいは大きかった。
しかもこの男はおそらく、鍛え抜かれた武人だ。
だが旺諒にとって、決してかなわない相手に戦いを挑むことなど、これが初めてではない。
(たとえ勝てなくたって、絶対にもう何発かはお見舞いしてやるからな!)
月華の涙を思いうかべながら旺諒は、心のなかでそう誓う。
殺気をこめて突進して来る男に向って、彼が果敢に叫んだ。
「来い、相手になってやる!」