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夜伯の記憶

 宴もたけなわになったこの日の午後。

 緋色の繻子(しゅす)に金糸銀糸の刺繍を施した華やかな装いの玉皇が、ひさしぶりに宴の間へと顔を出した。

 彼女が中央の玉座から、各界の使者たち一人一人に労いの声をかける。

ちょうど彼らが、ひと通り祝いの口上を述べおわった頃。

 夜伯が玉皇の前へ進み出て拱手(きょうしゅ)すると、よく通る低い声で彼女に願いでた。

 「玉皇に於かれましてはご機嫌うるわしく、何よりです。このたび、私の婚姻が決まりましたことを、各界のかたがたにこの場をお借りしてお伝えしたく思うのですが、お許しをいただけますでしょうか」

(――――ご機嫌うるわしくなどあるものかえ、この大狸(おおだぬき)が!)

それもこれもお前のせいじゃ、と内心では腸を煮え繰り返らせて罵倒しながらも、玉皇は平然をよそおい「好きにするがよい」と許可をあたえた。

冥王が、月華を手まねきすると、彼女を傍らに呼びよせて皆に紹介する。

「こちらが、将来冥府の王妃となる月華です」

どうぞお見知りおきを、とつくり笑いをうかべる彼の周囲で、あちこちから一斉に溜息がもれた。

月華はいつの間にか、花嫁姿を意識して用意されたらしい、純白の衣装に着がえていた。

装飾品も最小限しかまとってはいないのに、輝く銀色の髪と神聖なまでの美貌が、どんな豪奢な宝飾を身につけた美女よりも高貴な雰囲気を醸しだしており、使者たちのなかからは夜伯をうらやむ声がちらほらと聞こえてくる。

 だが、マイペースな素の彼女を知る旺諒たちにとって、夜伯に命令されるままに無表情で動く今の月華はまるで、人形よりも人形らしい生きた(しかばね)のようにも見えた。

 玉皇が、憐憫をこめた目で彼女に声をかける。

 「そなたは長いあいだ天界によく尽くしてくれたが、これまで一度たりとも、妾に何かを要求したことはなかったの……。今後は冥界にて暮らすというのならば、もはやこれがそなたに褒美をやれる、最初で最後の機会かもしれぬ。妾からの餞別(せんべつ)じゃ。今ここで妾に、何なりと望みの物をねだるがよい」

 優しくそう労う玉皇の最後の一言に、虚ろだった月華の双眸が、はじめてはっきりと主の顔に焦点を合わせた。

 皆が興味深げに、冥界の新王妃の返事を聞きとろうと耳を澄ませるなか。

月華が、長年の友人でもある玉皇の瞳を静かに見つめると、きっぱりと周囲に響きわたる声で懇願した。

 「では、玉皇にお願い申しあげます。夜伯殿に授けられた冥王即位の承認を、今すぐに取り消してください」

 宴の間から、一切の音が消えた。

 時の流れすら止まったかと見まごう凍りついた広間で。その場に集う誰もが、夜伯と月華、そして玉皇の様子を、息をひそめながら注視している。

 さすがの玉皇もこの要望には言葉を失い、ぼう然と月華の瞳を見つめ返すばかりだ。

 夜伯が、再度口を開きかけた月華をさえぎるように、すばやく二人のあいだに割って入った。

 「彼女はどうやら疲れているようです。残念ですが今日は、これにて失礼させていただきます」

 彼女の腕をつかみ、「ごきげんよう」と急いで退出させようとする夜伯を、玉皇が呼び止める。

 「待たぬかえ。妾はまだ月華との話がすんではおらぬ」

 「………………」

 不満げに振り返った夜伯を無視して、天界の主が彼女に問いかけた。

 「月華よ、なぜじゃ。理由を申してみよ」

 「私は夜伯殿の妻になどなりたくないからです。誓文では私はあくまでも『冥王である彼』と婚姻すると約束しているのですから、夜伯殿が冥王でなくなれば当然、私が彼と婚姻する義務も消滅することになります」

 一瞬、虚をつかれたような表情になった夜伯が、冷酷な瞳で月華を見下ろすと、押し殺した声で微かにつぶやいた。

 「……詭弁だ!」

 静まり返っていた宴の間に、密やかなざわめきが沸きおこる。

 「しかし月華よ。彼の妻になりたくないというのならば、なぜそなたは婚姻の誓文に署名をしたのじゃ」

 「それは当時夜伯殿に、もしも私が誓文に署名しなければ、旺諒殿の命を奪うと脅されていたからです」

 使者たちの間に、今度はあきらかなどよめきが広がった。

 「夜伯よ、それは(まこと)か」

玉皇の鋭い詰問にしかし、夜伯はそしらぬ顔で苦笑して見せた。

 「月華殿はときおり、性質(たち)の悪い冗談をおっしゃる。彼女は慣れない宴で相当お疲れのご様子だ」

 「だが当の旺諒も、先日人界で何者かに命を狙われたと申しておる」

 「それはお気の毒でしたが、私にはいっさい係わり合いのないことです。証拠もない讒言(ざんげん)にはどうぞご注意を。それでは」

 そう言ってふたたび彼が月華の腕をつかんだ時。

 他でもない彼自身の声が、まるで拡声器を通したような大音量で、彼女の手もとから聞こえてきた。



『…………今あそこで、かつて御龍教の神官だった亡者たちが、矢を射るべく待機しています。これが何を意味するのか、賢い貴女でしたらおわかりでしょう』

『もしや……麓の森の火事も、あなたのしわざなのですか?』

『龍界の王子が常に貼り付いていては、貴女に求愛すら出来ませんからね…………もっとも……貴女の返事しだいでは、彼にはこのまま永遠に、貴女の傍から消えてもらうことになると思いますが』



 夜伯の顔が、瞬時にこわばった。

 (これは、あの時の――――!)

御龍神山での、月華との会話だ。

よく見ると音は彼女の(てのひら)に載せられている、小さな白い貝殻から出ていた。

おそらくは、彼女がつくった神具なのだろう。

 (この女、あれで会話を録音していたのか!)

 夜伯が彼女の腕を握る手に、ぎりぎりと力をこめる。

 即座に彼女を殴りたくなる衝動を押さえながらも、彼はとってつけたような笑みをうかべて余裕を見せた。

 「どうやら彼女は少々いたずらが過ぎるようだ。こんな会話など、彼女がその気になればいくらでも捏造できることなど、皆様はご存知のはずでしょう?」

 「だが、これが捏造だという証拠もないがの」

 「では、玉皇は私が嘘をついているとでもおっしゃるのですか? 私が旺諒殿を殺そうとしたという証拠は?」

 「………………」

 そうだ。確たる証拠などどこにもあるはずがない。

 夜伯が心のなかで、不敵にそうつぶやく。

 玉皇の沈黙は、彼にとっては勝利の確定も同然だった。

 これで後は冥界で月華と婚姻の儀さえすませれば、晴れて彼は玉皇大帝にも匹敵する権力を手に入れられる――――。

 (玉皇が私にえらそうな口がきけるのも、今のうちだ!)

 ――――今こそ、積年の恨みを晴らす時が来た。

気が遠くなるほどに遠い昔の、かつての彼であった者の記憶と感情が、ふたたび胸の奥底から蘇って来る。



あと少し。あと少しで天界に。

彼らの罪深さを思い知らせてやることができる……。



夜伯の中にひそむ、他の誰も知らないもう一人の彼が、心のなかでわずかにその人格をのぞかせる。

天界を追放された後に現在の生を与えられた時から、夜伯が細心の注意を払ってこれまで隠しつづけて来た、かつての彼が――――。

 その『彼』が、勝利の美酒に酔いしれていた時。

ふいに月華が、玉皇に言上した。

 「玉皇。夜伯殿はおそらく、完全な『天界の記憶持ち』です」

 夜伯が、ゆっくりと悪鬼のような(まなこ)で彼女に振り向いた。



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