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婚姻の誓約

「夜伯……!」

(なぜ、夜伯がここに……?!)

月華がすぐさま自分の周囲に、強固な結界を張った。

彼女の結界は一度張られてしまえば、たとえ冥府の王にすら破ることは不可能だ。これでもう、彼は月華に手を掛けることはできない。

それなのに彼は薄笑いをうかべたまま、一歩一歩、悠々と彼女に近づいてくる。

彼女を傷つけることが目的ではなかったのだろうか。

彼の来訪の意図を測りかねてとまどう月華の結界の前で、夜伯が足を止めた。

彼の陰気な切れ長の双眸が、正面から彼女に向けられると、月華の背筋がぞくりと粟立った。

旺諒の陽だまりのような暖かい視線とはかけ離れた、血に濡れた(やいば)のような視線が彼女の瞳をつらぬく。

これまでにも夜伯から愛情を感じたことなど、一度だってなかった。

それどころか、龍に近い存在でありながら、はるかに神性の低い(みずち)として(さげす)まれてきた彼は、龍を憎んですらいる。

最も貴い龍である月華の存在は、あくまでも己の野心を遂げるために最適の道具なのであって、慈しむべき存在などでないことは明白だった。

そんな彼に何度求愛されたとしても、受け容れられないのは当然である。

けれども、彼の真意がとうの昔に彼女に気づかれていることなど百も承知の彼が、張りついたような薄笑いとともに言った。

「おひさしぶりです、月華殿。天界のどこにも貴女がおられないので、ずいぶんお探ししたのですよ」

「……私に何のご用でしょう」

「今日こそは私の求婚を受け容れていただきたく思い、ここまで足を運びました」

「そのお話でしたら、何度もおことわりしたはずです」

胸に(うやうや)しく手をあてて、形ばかりの求婚をする冥界の王に、月華はすげなく応答する。

「そうでした。ですが、今日こそは貴女のお気持ちも、変わられるかも知れませんね」

降りしきる雨のなか、すっと夜伯が御龍神山の中腹を指さした。

「ちょうどあのあたりに、大きな(いしゆみ)があるのはご存知ですか?」

表情に乏しい彼女の顔色に、あきらかな変化が起きた。

その様子を見た彼が、にやりと口の端を上げる。

「どうやらご存知のようですね。今あそこで、かつて御龍教の神官だった亡者たちが、矢を射るべく待機しています。これが何を意味するのか、賢い貴女でしたらおわかりでしょう」

針鼠を抱く月華の腕が、かすかに震え始めた。

「もしや……麓の森の火事も、あなたのしわざなのですか?」

「龍界の王子が常に貼り付いていては、貴女に求愛すらできませんからね。彼が単純で助かりました。もっとも……」

どこか楽しげに彼が、歪んだ嗤い声をあげると告げる。

「貴女の返事しだいでは、彼にはこのまま永遠に、貴女の傍から消えてもらうことになると思いますが」

「…………!」

月華の全身が、またたくまに凍りついた。

絞りだすような声で、彼女がつぶやく。

「そういう……ことですか…………!」

「すべては貴女しだいです」

彼女がここで彼の求婚に否と答えれば、この冷酷な冥府の王は、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく旺諒の命を奪おうとするだろう。

天界では今日、夜伯にどんな処分を下したのだろうか。

彼がこうして人界まで降りて来られたということは、恐らくまだ正式な沙汰は告げられてはいないにちがいない。

いずれにしろ、もしも月華が冥界の王妃となることを承諾した場合、彼の状況は一気に逆転する。冥界が、天界に迫る力を持ったことを意味するからだ。そうなれば、玉皇が一方的に彼の王位を剥奪することは、さらに難しくなる。

「さあ、どうなさいますか? 早くお返事を」

夜伯が月華にたたみかける。

しばし考える時間すらも、与えないつもりなのだろうか。

余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)としているようだが、実は内心焦っているのかもしれない。

(もしや、天界からの沙汰はすでに決定されているのでは……?)

もしそうであれば、天界の使者が人界まで彼を迎えに来るのは時間の問題だ。

ここはひとつ、時間を稼いでおくべきなのだろうか……。

そんな彼女の心の動きを察したのだろうか。

彼が、懐からおもむろに何かを取りだした。

繊細な細工を施した、銀色に光る鐘が彼女の眼前に差しだされると、月華が思わず息をのむ。

「この神具には、見覚えがおありでしょう?」

当然だ。それは、先日彼女が打点の欠けた(つが)いを旺諒に見せた、あの神鐘の片われなのだから。

この神鐘の音を耳にした者は、たとえ神獣であろうとも、鐘を鳴らした者に意志を操られてしまう――――ただ一人、月華をのぞいては。

夜伯が、銀色の鐘を静かにひと振りした。

((リィィィィィィン……))

さほど大きくもないはずのその音が、不思議なほど山の隅々にまで浸透していくと、それまで雨雲のなかを自在に飛び交っていた旺諒の動きが、ピタリと宙で静止した。

((白龍の王子よ、弩の正面に降りて矢に射られるがよい))

夜伯の声が、わずかに遅れて山に響きわたる。

((リィィィィィィン……))

二度目の鐘の音に旺諒が、ふらりと山へ体の向きを変えた。

(いけない、旺諒殿……!)

「止めて下さい! 夜伯殿!」

だが彼は彼女の頼みを無視して、ふたたび鐘を鳴らす。

((リィィィィィィン……))

そして、まるで三度目の鐘の音が合図となったかのように。

旺諒が、ゆっくりと弩の方向へと下降し始めた。

バシュッ。

弩から、巨大な矢が放たれる。

旺諒が細工をしていたおかげなのか、矢は彼から大きく外れた。

月華がほんの束の間、安堵の息を吐くが、彼はその間にも着実に弩へと近づいていく。

もしも直近の真正面から矢で射抜かれたならば、いくら神獣とはいえひとたまりもないだろう。

鐘の効果をうち消すことができる、対となる神具が手もとにない月華にとって、残された唯一の方法は、彼女が直接彼に触れて催眠を解くことだ。

だがこの手段も、今からではもう間にあわない。

それに、たとえ救援に駆けつけようとしたとしても、夜伯が必ずや彼女を邪魔しに来るだろう。

バシュッ。

再度矢はそれるが、旺諒はもうかなり弩に迫っている。

「止めてください、早く!」

「それは、私の求婚を受け容れると言うことですか?」

夜伯がまるで彼女を焦らすように、意地悪く確認をする。

とうとう旺諒が、弩の目の前まで来て静止した。

もう一度矢が放たれたならば、旺諒の命はその場で奪われてしまうにちがいない。

消えてしまった命の火は、いくら彼女でも灯し直すことはできないのだ。

(旺諒殿――――!)

気がつくと彼女の両頬に、涙が伝わっていた。

彼が傷つけられることを想像するだけで、胸がたまらなく締めつけられる。

今さらながらに彼女は気づいてしまった。

いつのまにか彼は、こんなにも彼女にとって大切な存在になっていたのだということを。

それは、彼の命を助けるためならば、自分はこのままどうなろうと構わないと、本気でそう思えるほどに――――。

「――わかりました、止めてください!」

亡者たちに聞こえるよう、あらん限りの力をふりしぼって叫んだ月華の悲痛な声が、山々に反響する。

「では、貴女は大人しく私の妻になると?」

夜伯の勝利の詰問に、彼女はかすかに震える銀色の睫毛を伏せながら、すべてをあきらめたように応答した。

「はい……私は冥界の王であるあなたと結婚します」

神獣の口約束は、誓約に近い拘束力をもつ。

「ではその旨を、こちらの誓文に」

彼が用意していた証書に震える手で署名をすませると、ただでさえ青い彼女の顔が、死面さながらに生気を失い凍りつく。

とうとう思い通りに月華を手に入れた夜伯の高らかな笑い声が、彼女の涙のごとくに降りつづける雨のなかに木霊した。



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