五章 そして、夜が明けた。 Lv1
静かな、静かな夜更け。
部屋の隅に置かれた行燈が音もなく揺らめきながら床に伏せる少女を照らしている。
俺は彼女に掛けられた布団を捲り、その右手に『秘宝』を握らせる。その石を包み込むように持ち、俺の手を上からカエデが覆う。
あとは、この特殊魔力に魔力を込めればいいだけのはずだ。
「強化斬撃」
小さく唱えると、手の中の球体が淡く光を放ち――ブォン、と鈍い音と共にその光が消えた。
「え?」
「それでは、駄目だよ」
戸惑う俺に、ジーヂャンさんがそう声を掛ける。彼の手には木桶。座った状態では中身が見えないが、おそらく聖製水と魔法石だろう。
医師はコトリを挟んで向かい側に腰を下ろして言葉を続ける。
「君の魔法刻印に刻まれている戦闘魔法は武器に込めた魔力を他の物に変換するように術式が組まれている」
確かに今の強化斬撃は魔力を物理エネルギーに変換して攻撃するのが本来の目的だ。他の魔法も剣に流し込んだ魔法粒子をエネルギーや炎なんかに変える物。
戦闘を目的としているのだから当然と言えば当然だ。
「だけど、アイテムを使用するには適切に魔力を循環させなくてはいけない」
言われてみれば《翼》を用いた輝翼の起動にも専用の呪文があった。あれは魔力粒子を『反重力』と光に変換するものだが、この『秘宝』にもそれに適した魔力の操作が必要、ということだろうか。
「今まで呪文に頼っていたとは言え、魔力を出力する感覚は分かるね?」
「はい」
「あとは魔力粒子を『秘宝』内で制御するんだ」
言っている事は感覚的にわからない訳ではないが、頭で理解しようとすると追いつかない。出来る、と言う確信を持てないままに言葉を口にする。
「やってみます」
「ソウタなら……大丈夫」
耳元からの言葉と、手の甲に重なる温もりを感じながら首を縦に振る。
頭をクリアにして集中力を高める。剣を持っている時のことをイメージして、魔法名称を唱えたときの感覚を思い出す。血液の流れが腕に集まっていき、それが手に持った物に流れ込んでいくような感覚。
初めて戦闘魔法を使った時の事を思い出す。あの時は出力された魔力を安定させる事も難しかった。術式による魔力制御はあくまで補助的な物に過ぎない。擬似的な魔法器官である魔法刻印を外付けされている以上、本来なら詠唱は必要ないとも言えるだろう。
コトリは呪文の詠唱も無しに、炎や光を出したり出来るんだ。魔力を注ぐくらいなら俺にだって出来るはずだ。
「頼むぞ……」
手の中の核は、俺の特殊魔力に答えてくれている。『秘宝』を起動するエネルギーを与えるだけ。
球体の中に確かに魔力粒子が移動しているのを感じる。そして、仄かに小石が光を放ち始める。掴みかけた物が掌から零れ落ちる。
これでは、駄目だ。
俺が今やっているのは、自分の魔力粒子を単に『秘宝』に媒介させているだけ。『秘宝』は核としての能力こそ特別だが、魔力媒体が特殊な訳じゃない。シンプルに魔力を通わせるだけでは、光に変換されてしまう。なるべく他の物に変換されないように、純粋な魔力粒子として『秘宝』の内部を循環させなければならない。こいつが周囲の魔力に干渉するだけのエネルギーを与える必要がある。
……そんな事が、可能なのか?
頬を冷たい汗が伝うのを感じる。
「ソウタ、大丈夫?」
沈黙を破ったカエデの声が耳を打つ。
「あ、ああ……」
反射的に言葉を絞り出すが、既に俺の心は諦めに支配されつつあった。
魔力媒体に魔力粒子を媒介させれば嫌でも他のエネルギーに変換されてしまう。ある魔力媒体が受け取った魔力粒子を、隣接する魔力媒体に受け渡す過程でその一部はどうしても零れ落ちてしまう。出来るのは、せめてその落下の方向を変える事くらいだ。大きな魔力圧を持つ種族ならその損失の割合も減らすことが出来るのだろうが、たかが人間の俺にはそんな芸当は不可能だ。
俺の様子から何かを感じ取ったのか、カエデが続けて口を開く。
「私が……やってみるよ」
「カエデが?」
石に魔力を注ぐのを中断して聞き返す。
「うん。……ソウタの魔法には、魔力粒子を物質内で循環させるのが…無いでしょ?」
「確かに、そうだな」
「私は、矢の中で魔力を滞留させたり、矢を魔力で作ったり……してるから。出来るかも、しれない」
わかった、と頷いて俺は『秘宝』から手を離す。代わりに置かれたカエデの手に重ねるようにして掌を乗せる。
「じゃあ、行くね……精神集中」
魔力粒子の操作能力を向上させ、彼女は意識を自らの手の先へ向ける。カエデが言うには魔力粒子の損失を抑えるには魔力圧を上げる以外にも方法があるらしい。それが、魔力媒体の密度を上昇させること。
「定常状態にある魔力媒体の、魔力把持力は……魔力圧と魔力媒体密度で決まる」
集中力は手の中の特殊魔力に向けながら、専門書から得た知識を口にする。俺に意識を向けていないからか、心做しか普段よりも堂々とした口ぶりだ。
因みに魔力媒体の『定常状態』とは振動などをしておらず、物質内で循環魔力を媒介している――言ってしまえば普通の状態、と言うことらしい。
大きな魔力圧で無理やり魔力粒子を魔力媒体に載せる他に、魔力粒子を支える魔力媒体自体を増やすことでも魔力粒子の損失を減らすことが出来るのだとか。
今は石の表面の魔力媒体密度を上げるために自分の掌に魔力粒子を集中させている辺りだろうか。魔力粒子の密度が高いとろこに魔力媒体は引き寄せられる、と言うのもどこかで聞いたような気がする。
静かに見つめていると、石の表面が光を放ち始める。工程を次の段階に移したのだろう。表面に魔力媒体が集まれば、今度はそれを利用して石の表面に自らの魔力粒子を媒介させる。密度が上がったことで多くの魔力粒子を同時に媒介できるようになっているため、その魔力粒子に引き寄せられて大気中の魔力媒体が集まってくるのだとか。そして最後に、表面に集中させていた魔力媒体を物質中心部へ誘導し物体外側に集まった魔力媒体を物質内部へ引き込むことで全体の魔力媒体密度を高める。
「…………」
らしい、のだが。
「……………………ごめ、ん」
淡く光を纏っていた『秘宝』がその輝きを失う。
俯いたカエデの頬を一筋の雫が伝った。それに続くようにポタ、ポタと落ちた涙が畳を打つ。
「魔力媒体を…『秘宝』の中に、移動……出来ない」
彼女が普段使っているは木を主な材料とした矢だ。密度の低い木材の内部にはある程度空気が含まれている。物質内部へ魔力媒体を引き込む、というのは『物質外の大気にある魔力媒体を、物質内の大気に移動させる』ということと殆ど同義なのだと言う。しかし、今まさに試みようとしているのは密度の高い石の内部へ魔力媒体を移動させる事だ。物質内に空気が存在していない以上、大気中に存在する魔力媒体を『秘宝』へと引き込むことは、大気から魔力媒体を奪い取る事に等しい。
「……今のやり方じゃ、魔力が…足りない」
その一言を最後に静寂が帳を降ろす。
嗚咽の混じった少女の声だけが、ぽつりぽつりと静けさに波紋を作る。
「コトリがいない分、私が……頑張らなきゃって……思ったのに」
俺は、カエデが強くなったんだと思っていた。
だけど本当は、それだけじゃ無かったのかも知れない。
ずっと無理をしていたんだ。ずっと……無理をさせていたんだ。
掛ける声も見つけられない中、カエデの紡ぐ言葉が耳を打つ。
「ごめん、ソウタ。ごめんね……コトリ」
駄目なのか……?
俺達じゃ、たった一人の大切な仲間さえも……助けられないのか?
無意識にカエデの手に添えた手に力が篭もる。
いよいよ完全に折れかけた心に、
『私達に勝っておいて、簡単に諦めようとしてんじゃ無いわよ』
そんな声が、聞こえた気がした。
カエデにも似たような感覚があったらしく、同時にハッと面を上げる。
「……ソウタ」
顔を見合わせた彼女の瞳には、再び希望の光が宿っていた。
「ああ……!」
そうだ。そうだった。
俺たちは諦める訳には行かない。簡単には諦められなかったから、俺達は今、こうしてここにいるんだ。
「助けよう」
「うん……!絶対に、助けるっ」
互いに意思を確認して、眠れる少女と希望の石に視線を移す。
さっきカエデは『今の方法では魔力が足りない』と言った。つまり、魔力があれば不可能という訳ではないとも取れる。
「カエデ、魔力が足りないってのはどういう意味だ?」
「えっと……魔力粒子の密度って言うのは、一つの魔力媒体にどれだけの魔力粒子が載っかっているか…って意味に近いの。……つまり、ある魔力媒体が他の魔力媒体を引き寄せる力の大きさは…その魔力媒体に載せられている魔力粒子の量に、比例する。でも、私達の魔力じゃ……大きな魔力を載せる事が、出来ない」
何とか理解できた部分のみを繋ぎ合わせると、大気中の魔力媒体を『秘宝』内部に引き込むには多くの魔力粒子を『秘宝』の魔力媒体に媒介させる必要があるが、『秘宝』内の魔力媒体量にも人間の魔力圧にも限界がある以上は魔力媒体を引き込む力にも限界がある……と言った所だろう。
魔力粒子を直接流し込むには魔力圧が足りない。だからそれを補うために大気中から魔力媒体を補充しようというのに、それを実現するための魔力圧すらないなんてな。
これではまさに、どうしようもない。
「カエデ、もう一度頼めるか?」
「何か……考えが、あるの?」
その問いに俺は首を縦に振る。
「確証はない。けど、何でかな。失敗する気がしねぇ」
口の端が自然と吊り上がる。
あの声を聞いてから、自分の中から力が溢れてくるような感覚がある。根拠のない自信が、止めどなく心の底から溢れ出てくる。
隣の少女にも思い当たるところがあるようで、
「そうだね……今なら、きっと……っ」
笑顔を作って、『秘宝』へ視線を戻した。
「行くよ……」
「待ってろ、コトリ!」
右手から押し出した魔力と魔力媒体が、吸い込まれるように特殊魔力の中へ収められていく。
魔力圧が足りないことに関して、俺たちが人間である以上は変えようがない。大気中の魔力媒体も奪えない。
だから、俺自身の魔力媒体を使う。
普通なら他の物質に魔力媒体を移すなんて簡単なことじゃない。だが、魔力中核である『秘宝』と共鳴している今なら。
俺の魔力媒体を、『秘宝』の魔力媒体として扱う事だってできるかも知れない。
自身の『共鳴』について、まだ詳しく分かっていない状況で、本当に上手くいくか確信はなかったが、どうやら目論見は成功らしい。
とくん、とコトリの胸の上で『秘宝』が脈打つ。
石から放たれていた光は収束し、眠り姫を救うための力へと転化して行った。
制御を離れた僅かな魔力粒子による柔らかな光が俺達を包み込むように照らしていた。