序章 おきのどくですが
黒髪の少女を背中に背負って城下町の情景を走り抜ける。
飽和量の水分を抱えきれなくなった曇り空が堪えきれずに水滴を零し始める。
次第に大きく、間隔を短くする雨音が不安と焦燥を掻き立てる。
「こ、コトリ……大丈夫、だよね?」
心配を滲ませた表情で俺の後ろを息を急き切らせて走っている少女が幼馴染の身を案じる。
「大丈夫だ、カエデ。こいつはそう簡単にくたばったりはしねぇよ!」
今は意識を失っているが、どうせすぐに目を覚まして能天気に笑顔を見せてくれる。
そんな期待と願望の混じった台詞を返しながら実の所、現在向かう当てすらない。この街には特殊な結界が施されていて、『証』とやらを持っていないものは決して目的地へ辿り着くことは出来ない。コトリが万全の状態ならそれを突破することも可能なのだが、今はそのコトリの緊急事態だ。
「うん……!そう、だよね」
根拠のない希望論に縋るしか出来ないというのはどうにも歯痒いものだ。
走る上で重荷になる武装を解除して着替えた洋服に、雨粒がバラバラと圧し掛かり重さを増してゆく。
目的地に辿り着けない以上、目的地を定めないというのが目的地への最短ルートである、というのが俺たちの導き出した最善策なのだが、あまりにも無謀なのは自分でもわかっていた。
闇雲に走っていたらたまたま誰かが助けてくれる、なんてのはいくら何でも都合が良すぎる。
徐々にぬかるんでゆく地面が先を急ぎたい俺の足に纏わりつく。
俺は緩やかに速度を落とし、走るのを止めた。
「駄目だ」
「ソウタ……?」
背中に背負う少女の容態は俺にはわからない。どれだけ深刻なのか、どれだけの猶予があるのか。何もわからないまま走り続けているだけでは手遅れになりかねない。こんな方法じゃ、彼女は助からないかもしれない。
他力本願な方法であっても、より確実性のある方法をを取らないといけない。
俺はじっとりと重たい空気を吸い込む。そして、
「誰か――」
力の限りの声とともに吐き出す。
「――誰かッ、助けてください!!」
いよいよ本降りになってきた雨の中声を張り上げる。この街の人々は他種族や組合をあまりよく思っていないようだが、それでも少しでも可能性があるなら全ての手を尽くす。もう後悔はしたくない。
「助けて……っ!誰かぁ……!」
傍らで驚いたような表情を浮かべていたカエデも俺に倣って声を張り上げる。
一分間程そうやって周囲に呼び掛けていたが、やはりというか何と言うか、手を差し伸べてくれる人物は現れなかった。
この方法もダメか……?
諦めかけた時、路地から番傘を差した小さな人影が駆け出してきた。
「やっぱり……お兄ちゃんたち……ッ」
肩で息をする少女。傘を差しているにも関わらず着物の所々が雨に濡れている。
「……良かった。来てくれて」
頭の上から生える白くて長い耳。ビー玉のような透き通った赤い瞳。
初めてこの街に来た時に俺たちを城まで案内してくれた少女だ。彼女ならきっと、俺たちの声を聞きつけて来てくれると信じていた。
幼気な少女の良心に付け込んだような方法。彼女には申し訳ないことをしたとは思うが、手段を選んではいられない。
少女に歩み寄ろうとしたところで、路地裏からもう一人、彼女を追ってきたであろう母親が姿を見せた。
「……あなた達」
母親は俺たちを視界に入れると不信感を露にする。
「この子が、この天気の中出ていくと聞かないから付いてきてみれば。一体どういうつもりかしら?」
睨みつける視線に身を引きそうになりながらも言葉を返す。
「その、すみません。でも!」
「ゆ、友人が……大変、なんですっ」
俺たちの必死な様子に、彼女も耳を傾けてくれた。
コトリが突然倒れてしまったこと、証を持たない俺たちは病院に連れて行こうにも出来ないこと。それを聞いて、彼女たちは医者をしているという人の元に案内してくれた。
「「ありがとうございました」」
連れてこられた建物の玄関先で俺たちは頭を下げる。
「別に私はあなた達が嫌いなわけじゃないわ。でも、やっぱり外の人がうちの子にあんまり関わって欲しくはないの。近頃の『同盟』の考えはよくわからないし」
一般人の求めているものと『同盟』の方針がすれ違っているというのも不信感を招く一因ではあるのだろう。しかもその『同盟』の指針で引き揚げたはずの他種族がいきなり戻ってきたというのだから不審がられるのは仕方のないことなのかもしれない。
「それでも私はこの子に困っている人を助ける人に育ってほしいから、今回は手を貸した。いつもそうだとは思わないで」
「わかってます」
「それじゃあ。ジーヂャン先生、よろしくお願いします」
中にいる白衣の男性に声をかけた彼女は「彼女、お大事にね」と言い残して出て行った。
「それじゃあ、取り合えず上がって。靴はそこで脱いでね」
板の間から、髭と角を生やした山羊の獣人が声をかける。靴を脱いで上がると、畳の上に敷かれた布団にコトリを寝かせるように指示を受けた。
「君たちも取り合えず体を拭いて。病人を連れてきた方まで風邪でも引いたら世話ないからね」
「あ、はい。ありがとうございます」
医者の手渡したタオルで濡れた髪を拭く。
「うん。まずは容態を診るからね」
言うと彼は、首元や腹のあたりを触ったり胸に聴診器を当てたりしてから「ふむ」と声を漏らす。
「これは魔力循環不順だね」
「魔力……循環不順?」
「そう。君たち冒険家には自動防御術式、所謂、自防術があるよね?」
身体の損傷を『無かったことにする』魔法。これのおかげで戦闘で怪我を負うことはない。
「だが、それは基本的には外傷のみに作用するものだ」
『呼吸が出来ない』など、被施術者の命が脅かされた場合は例外のようだが。
「それで、直接的に命の危険がない場合には自防術は関与しない。つまり、空腹や睡眠不足と言った身体の不具合に対しては魔力による保護が行われない。もちろん、餓死しそうな場合とかは除いてね」
「コトリは……外傷に現れないような、ところで…ダメージを負ってるって、ことですか?」
尋ねたカエデに、彼は頷いて肯定すると説明を続ける。
「身体に問題が起これば当然、魔力器官、すなわち生命粒子の流れにも異常が出てくる。それが魔力循環不順というわけだね」
「そのせいでコトリは倒れたんですね」
「どちらかと言うと、倒れたから循環不順が起きていると言った方が正確かもしれないけれどね。魔力循環不順は様々な能力異常を引き起こすんだ。虚弱や疫病もそうだし、彼女の昏倒もそうだね」
昏倒というのが彼女の意識を奪った能力異常らしい。本来ならコトリが倒れた時点で能力確認を使って確認しておくべきだったのだろうが、それを忘れていたあたり俺もかなり動揺していたらしい。
「コトリ……大丈夫、なんですか?」
カエデにしてみれば十何年も一緒にいた親友だ。心配に決まっている。もちろん俺もだ。
「今のところ、命に別状はないよ。薬を飲んでしばらく休めば直に目も覚ますだろう」
「そうですか」
「……良かった」
俺たちはホッと胸をなでおろした。
確かにコトリは少し無理をしすぎていたのかもしれない。そんな素振りは全く見せていなかったが、心当たりがないわけでもない。朝が苦手だという彼女が俺より遅く起きてきたところを見たことが無い。何でも無いように振舞っていながらも、非日常的な冒険家の生活に落ち着かない日々が続いていたのかもしれない。
冒険家としての俺たちの日々が始まってからもう一か月程も経つか。
ここまで無我夢中で進んできたけど、たまには休息が必要だろう。コトリにとっても、俺たちにとっても。